第ニ十六話 時守の石板
――パキ……パキパキッ。
結界が音を立てて崩れていく。アージェンが意識を失ったことで、彼が維持していた結界も、役目を終えようとしているのだ。
「まずい……!」
今、結界が消えれば、ここで何が起きたのか、外にいる者たちにも見えてしまう。そして何より、眼鏡を外した今の自分の姿を、調査団に見られるわけにはいかない。
「眼鏡……!」
ヴィオラは慌てて周囲を見回した。先ほど外した眼鏡は、少し離れた床に落ちている。ただ距離が離れている為、間に合わない。焦燥が胸を駆け上がる。
「ヴィオラさん!これ!」
そんなヴィオラの様子に気がついたのか、ユノが眼鏡を拾い、ヴィオラに差し出してくれた。なんて気が利くのだろう。彼女の優しさに感謝してもしきれない。
眼鏡を受け取ると、急いで顔にかけた。その瞬間、白銀だった髪が淡い光に包まれる。光は髪の一本一本を撫でるように走り、やがて銀色を奪っていく。毛先に残っていた桃色も消え、木枯らし色の髪へ変わり、紫水晶色と黄金色の瞳も、眼鏡の奥へと隠された。
「……間に合った」
ヴィオラは胸を撫で下ろす。もし、この姿を見られていたら…そう考えると、今さらながら心臓が早鐘を打っていることに気づいた。
「ユノ、ありがとう」
「いえ」
ユノはふんわりと微笑んだ。
「こちらこそ。少しでも恩返しができて、良かったです」
「……」
ヴィオラは一瞬、言葉を失った。その柔らかな笑顔は、先ほどまで命懸けで力を使っていたとは思えないほど、穏やかな表情だった。
(……かわいい)
思わず、そんな感想が頭をよぎる。
(ファンになりそうだわ……)
こんな状況なのに、ヴィオラは思わず口元を緩めてしまった。
しかし、次の瞬間。
――バリンッ!!
結界が砕け散った。
「きゃっ!」
無数の光の粒が、二人の周囲を舞い上がっていく。結界を構成していた魔力が、夜空へ溶ける星屑のように消えていった。
同時に、閉ざされていた外の音が一気に流れ込んでくる。
「ヴィオラ!」
「アージェン!」
「ユノ!」
遠くから、必死に三人の名前を呼ぶ声が響いた。その声に、ヴィオラは顔を上げた。心配して、ずっと探してくれていたのだろう。
「……セシリアさん……!」
ヴィオラは、眠るアージェンを抱きしめたまま、声のした方を振り返った。結界の崩れた奥からセシリアが駆けてくる。その顔には、隠しきれないほどの心配が浮かんでいた。
「三人とも! 無事なの!?」
「心配かけてすみません。セシリアさん……」
「……一体、何が起こったの?……アージェン!?」
ヴィオラの腕の中で眠るアージェンを見つけると、セシリアは蒼白な顔で叫んだ。力が抜けるようにアージェンの隣に崩れ落ちる。
「アージェンは大丈夫です。少し魔力を使いすぎただけです」
セシリアは、眠っているアージェンの顔を確認すると、大きく息を吐く。
「…本当に大丈夫なの?」
心配するのも無理もない。地下に入る前に渡された瘴気を防ぐ外套は、ボロボロに引き裂かれ原型を留めていなかった。結界内の瘴気の凄まじさを物語るには、十分過ぎるほどだった。
「はい。アージェンは無事です。今はただ、少し休ませて下さい……」
「……そう、それは良かった……」
その声には、心の底からの安堵が潜んでいた。きっと、結界が解けるまで心配してくれていたのだろう。ヴィオラは申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
「セシリアさん、あ……あの。心配してくださってありがとうございます…」
「……何言ってんのよ!仲間なんだから当たり前じゃない!」
(仲間…)
ヴィオラはその言葉をくすぐったく感じた。そう呼んでくれる人は、もう何年も傍にいなかった。じん、と胸が熱くなる。
「…足の速さじゃ、セシリアには敵わないな」
「僕たちだって、すっっごく心配したんだからね〜!!」
遅れてガルディアス、シオンも駆け寄って来た。二人もヴィオラたちの姿を確認すると、緊張していた表情を緩めた。
「……無事でよかった〜」
「アージェンは本当に眠ってるだけなんだな?」
「はい。呼吸も安定しています」
「そうか……」
ガルディアスは、ようやく肩の力を抜いた。その隣で、シオンも静かに頷く。
「なら、ひとまず安心だね〜」
三人とも何があったかは聞いて来ない。その優しさがヴィオラの胸に染みた。
けれど、胸の奥にはまだ重いものが残っていた。アージェンが語った過去が頭から離れない。
クロノス因子の実験体にされたこと。王国が進めていた未来固定化計画の残忍さ。そしてそれを、王国が長い年月にわたって隠し続けていたという事実。
(……真実は思ったよりも残酷だわ)
「ユノ!」
セシリアの声に、ヴィオラは我に返った。振り返ると、ユノがその場に座り込んでいる。どうやら魔力を使い果たしてしまったようだ。
「あなたも大丈夫?」
「……はい、少し疲れただけで、私は……大丈夫です」
そう答えながら、ユノは自分の掌を見つめる。そこにはもう、白い光は残っていなかった。あの力がなんだったのか、ユノにはもう分からなかった。
「ユノ、無理をしないで。少し休みましょう」
「ありがとうございます」
「ヴィオラさーん!!」
明るい声が、研究施設の奥から響いた。
「……エレノアさん?」
「無事で何よりというお話ー!」
エレノアが、何かを抱えて駆けてくる。髪は乱れ、頬には薄く埃が付いている。とても興奮していて、まるで宝物を発見した子供のように、きらきらと輝いていた。
「……僕たちは心配してたんだけど、エレノアだけ、ずっと施設を探索してたんだよ〜。こんな状況なのに、研究者ってすごい根性だよね〜」
「いや、私もちゃんと心配していたというお話!!」
「ほんとに〜?」
「本当ですって!ただ、ここには魅力的過ぎる研究材料があり過ぎるだけというお話で!」
「…ほら、やっぱり、欲望に勝てない研究狂いだ!略して研狂!!」
「……え?研狂ってなんかカッコいい響きというお話……」
「え?そこなの?」
「ふ、ふふ…はははっ!!」
二人の会話に思わず笑いが噴き出す。緊張していた気持ちが解れていく。そんなヴィオラの様子を温かい目で、みんなが見守ってくれた。
「あ、忘れてたというお話!ヴィオラさんに見せたいものがあるんです!」
「何をですか?」
「これです!」
エレノアが両手で掲げたのは、古色を帯びた石碑だった。表面には、細かな魔法文字と複雑な術式が刻まれている。
「……それは何〜?」
「研究施設の奥にあった魔法陣を調べていたら、床の一部だけ妙に魔力の流れがおかしい場所があったというお話!!」
エレノアは興奮した様子で説明する。その声は未知の世界への期待で弾んでおり、瞳には抑えきれない好奇心が宿っていた。
「それで、ちょっとだけ魔力を流してみたら――」
「ちょっとだけ?」
ガルディアスが怪訝そうな顔をする。何とも言えない表情を浮かべ、眉間に皺を寄せた。まるで、エレノアの行動が理解できないと言わんばかりだ。
そんな態度をエレノアは気にする様子もなく、石碑をヴィオラへ差し出した。
「この石碑が、床の下から出てきたんです!!」
ヴィオラはアージェンを抱いたまま、石碑を覗き込んだ。そこには、信じられない事が書いてあった。
『血脈を継ぐ継承者――ヴィオラ・フォン・クロノアルカ――』
「……っ!?」
古代の文字で刻まれていたが、確かに読めた。秘匿され続けた、時守の一族の名前。自分の名前が、数百年は経っていると思われる石碑に刻まれている。
「…これ、ヴィオラさんの名前ですよね?」
エレノアが顔色を伺うように尋ねる。無言で頷くと、エレノアから石碑を受け取った。するとその刹那、石碑が淡い光を帯びる。驚いてのぞき込むと、時守に伝わる古代文字が浮かび上がった。
『終焉を欲する者、クロノス。
終焉を拒みし者、ヴァルティア』
『クロノスは時を統べる者にあらず
ただ、万物の時が尽きる、その終わりを欲する者なり』
『ヴァルティアは時を遡る者にあらず
過ぎ去りし時を呼び戻すことなく、乱れし時の綾を織り直す者なり』
『ゆえに、二柱の道は交わらず
されど、いずれも時の理を司る者なり』
(……ヴァルティア?)
石碑は光を失い、徐々に文字が消えていく。ヴィオラは呆然とその様子を眺めることしかできなかった。
「……ヴィオラさん!なんて書いてあったんですか!?」
エレノアが勢いよくヴィオラに言い寄ってくる。ヴィオラの様子から文字を読み解いた事を悟ったのだろう。その好奇心が、ヴィオラにはかえって残酷に思えた。悪意などないのだろう。だからこそ、余計に今のヴィオラには痛かった。
(……なんて言えばいいの?)
クロノスは、終焉を求めている。それならば、時守の一族…私たちの存在は何なのだろう?
その時だった。
研究施設の奥、廊下の闇の中から複数の足音が重なって聞こえてきた。




