第ニ十五話 ユノの秘密
「ユノ…一体何を?」
ヴィオラの声が震える。答えは返ってこなかった。ユノは両手をアージェンへ向けたまま、目を閉じている。その表情は苦しそうだった。
「私にも……何をしているのか分かりません……」
自然と身体が動く。どこへ手を伸ばせばいいのか。何を動かせばいいのか。何を残し、何を組み替えればいいのか。
まるで――ずっと昔から、この力を知っていたみたいだった。
「でも……分かるんです」
ユノの指先から伸びた光が、アージェンの胸へ触れる。
――ドクンッ!!
「ぐっ……!」
アージェンの身体が大きく跳ねた。身体が脈打つように、瘴気が抵抗する。アージェンの喉仏や首筋の血管が浮き上がり、冷や汗が額を伝っていた。
「ジェー!」
「大丈夫です!」
ユノが叫んだ。いつもの臆病な彼女からは想像できないほど、強い声だった。
「私を信じて下さい!!」
「ユノ……?」
「この中で……何かが壊れようとしてる」
ユノの額に一筋の汗が伝い、淡く発光する魔力の光に照らされて鋭くきらめいた。指先を細かく震わせながらも、宙に描いた複雑な術式を寸分狂いなく固定していく。
「でも、壊しちゃいけない……」
白い光が、アージェンの身体の中で生き物のように動いている。黒い瘴気の奥の絡み合っていた時間の流れが、少しずつほどけていく。極限の集中が生み出す緊迫感が、辺りを包んでいた。
「……すごい」
ヴィオラは息を呑んだ。これは治癒でも、浄化でもない。ましてや、時間を巻き戻しているわけでもない。
「時間の……構造そのものを……組換えている?」
ユノは手を真っ直ぐ突き出し、指先を器用に動かしながら、ただ必死に光を操っている。無数の白い光の糸が、瘴気と混ざり合った。さらに、深く潜るように慎重にアージェンの胸へ埋まっていく。
「違う……。ここじゃない……。もっと、奥……」
すると、黒い光の中心に、ひとつの核が浮かび上がった。禍々しいほど黒い。けれど、その中心には銀色の光が宿っている。
「……あれが、クロノス因子……?」
アージェンは奥歯を砕けんばかりに噛みしめた。ユノの放つ清浄な光が黒い核を包み込む。その光の包囲を嘲笑うかのように、核の表面から這い出た無数の漆黒の糸が、アージェンの身体に絡みつく。
現在と過去、未来の境目が溶け合う。アージェンという存在が“時間という川”から不自然にすくい上げられ、固定され、そして消滅しようとしているようだった。
「こんなに……」
ヴィオラの顔から血の気が引く。思ったよりも、アージェンの身体の侵食は進んでいた。
「これは……」
「……え?」
「アージェンさんの中にあるクロノス因子は……もう、アージェンさん自身の命と一体になっています」
「……うそ!!」
「だから……取り除いてはいけない。だったら…」
ユノは、目を開いた。掌から放たれる光が徐々に強くなる。その瞳には、白銀の光が満ちていた。
「一緒に、生きられる形にすればいいんです!!」
――パァァァッ!
光が結界内を満たした。
「――っ!」
ヴィオラは目を細める。アージェンの身体を覆っていた黒い瘴気が、大きく渦巻いた。しかし今度は、ヴィオラの術式を拒絶したときとは違う。
黒い瘴気の中に、白い光が入り込んでいる。一本、また一本と、慎重に黒い糸を白い光で包み込んでいく。消さず、切らず、絡み合ったものを、一本ずつ正しい場所へ配置していった。
過去は過去へ。現在は現在へ。未来は未来へ。あるべき場所へと、時間を少しずつ構築している。
「……すごい……」
ヴィオラは呆然と呟いた。ユノの力は、時間を戻しているのではない。時間を壊すこともない。
その人間の中にある時間を――もう一度、正しい形へ組み直している。
「ユノ……あなたは一体……」
その瞬間。ユノの身体が大きく揺れた。
「……っ!」
「ユノ!」
ヴィオラが駆け寄る。しかし、ユノは倒れなかった。震える身体を必死に支えながら、アージェンへ手を伸ばし続ける。
「まだ……」
「もう十分よ!」
「駄目です……!」
ユノが首を振る。
「まだ、一つだけ……残っています!」
ヴィオラがアージェンを見る。黒い瘴気は、ほとんど消えていた。
だが、胸の奥にあるクロノス因子の中心に、ひとつだけ黒い糸が残っている。それは他のものとは明らかに違っていた。太く、深く、まるで意思を持つように脈打っている。
「……あれが元凶みたい」
「でも……これだけは、私の力でも動かせない」
ユノの表情が強張る。そして、初めて怯えたように呟いた。自分の無力さを思い知るように、うなだれる。
「……ぐっ」
アージェンが苦しそうに息を吐いた。喉の奥で言葉にならない音を詰まらせながら、必死に言葉を紡ぐ。
「……ありがとう。ユノ……」
「……!!」
「大丈夫……。後は、僕がこいつと戦う。義姉さんと共に生きるために、義姉を守る男になるために!!」
そう言うとアージェンは両手を胸の前で合わせ、魔力を練り術式を展開させる。そして、最後の力を振り絞るように叫んだ。
「時牢!!」
その刹那、銀色の魔法陣がアージェンの胸で煌めいた。銀色の檻が核を包み、力を閉じ込める。
「……アージェン!!」
ヴィオラの声が響いた。銀色の檻に閉じ込められた黒い糸が、激しく脈打っている。
――ドクン
――ドクン
やがて、その鼓動が少しずつ弱くなり、核から伸びていた漆黒の糸が剥がれ落ちた。
それらは黒い霧となって宙へ舞い上がり――やがて、跡形もなく消えていった。
「……消えた……?」
ユノが呆然と呟く。先ほどまでアージェンの身体を覆っていた瘴気は、もうどこにもない。黒く染まっていた肌も、元の色を取り戻している。荒かった呼吸も、少しずつ穏やかになっていく。
アージェンは確かめるように、そっと胸元へ手を当てた。そこには、もう黒い光はなかった。何度も身体の奥で脈打っていた、あの不気味な感覚もない。静かだった。
「……終わった……」
アージェンは、ほんの少しだけ笑った。その言葉を聞いた瞬間、ヴィオラの瞳に涙が滲んだ。
「……よかった」
声が震える。
「本当に……よかった……」
もし間に合わなかったら、もしアージェンを救えなかったら、もし、アージェンを失ってしまったら。怖かった。とても、怖かった。考えるだけで胸が締めつけられる。
けれど、もう大丈夫。アージェンはここにいる。ちゃんと、生きている。
ヴィオラは頬を伝う涙を拭うことも忘れていた。
「ありがとう、義姉さん」
「……え?」
突然の言葉に、ヴィオラが目を瞬かせる。
「僕を助けてくれて」
アージェンの声は穏やかだった。そこには、幼い頃の孤独も、実験施設で味わった恐怖もない。今度こそ、本当の意味で彼を救えた。そんな気がした。
「……ジェー」
ヴィオラの胸が、じんと熱くなる。その呼び名は、いつの間にか自分にとって特別なものになっていた。何があっても、守りたい大切な存在。ヴィオラは小さく微笑んだ。
「……こちらこそ」
そう言いかけて、アージェンがふと視線を横へ向けた。
「ユノも……ありがとう」
「私……は……」
突然名前を呼ばれ、ユノの肩がびくりと跳ねる。慌てて首を振った。
「私は、何も……」
「そんなことない」
アージェンは、優しく笑った。
「ユノがいなかったら、僕は頑張れなかった」
「……!」
ユノの目が大きくなる。頬が、みるみるうちに赤く染まっていく。
「わ、私は……ただ……」
言葉が続かず、胸の奥が妙に熱くなる。アージェンは無事だった。それだけで、十分嬉しいはずなのに、真正面から感謝を伝えられると、どうしていいのか分からなくなる。
「……本当に、ありがとう」
改めて告げられた言葉に、ユノは俯いた。
「……はい」
小さな声だった。けれど、その口元には嬉しそうな笑みが浮かんでいた。
その直後だった。アージェンの身体から、ふっと力が抜けた。
「……え?」
ヴィオラが異変に気づく。
「ジェー?」
アージェンの身体が、ゆっくりと傾いた。
「アージェンさん!」
ユノが慌てて駆け寄る。ヴィオラも咄嗟に身体を支えた。
「大丈夫!?」
「……大丈夫……。」
アージェンはかすかに目を開けた。けれど、その瞳にはもうほとんど力が残っていない。
「ちょっと……疲れただけ……」
「……うん。良く頑張ったね」
ヴィオラが声を震わせる。アージェンはそんな義姉の顔を見て、ほんの少しだけ笑った。最後に残った力を振り絞るように、彼女を見つめる。
「……義姉さん」
「何?」
「……僕と、初めて会ったときのこと覚えてる?」
「もちろんよ」
「あの時、義姉さん、僕の目を見て『キラキラして銀貨みたいな色!』って言ったんだ」
「うん」
「……それまで僕の世界は灰色だった」
「うん」
「義姉さんの存在が、灰色の世界だった僕の世界を、キラキラ輝く銀色の世界に変えてくれたんだよ」
「……ジェー」
「……帰ろう。僕らの家に」
その一言に、ヴィオラの胸が熱くなった。それは、ただ実験施設から出るという意味ではない。
アージェンにとっての“帰る場所”は家族が待っている場所、自分が生きていていいと思える場所だった。
その言葉の意味が、ヴィオラには痛いほど分かった。
「ええ」
ヴィオラは力強く頷いた。
「一緒に帰りましょう」
「……うん」
アージェンの瞳が、ゆっくりと閉じていく。その身体をヴィオラは優しく抱き止めた。穏やかな呼吸が聞こえてくる。
ヴィオラは安堵しながら、そっと彼の髪を撫でた。
「……良く耐えたね」
幼い頃の彼が、どれほど苦しんだのか。どれほど孤独だったのか。今のヴィオラでは、そのすべてを知ることはできない。それでも――
「もう大丈夫よ」
眠るアージェンへ、静かに語りかけた。ヴィオラの声は優しかった。
「あなたには、帰る場所があるから。……私たちが、待っているから」
その言葉を聞いていたユノは、胸の奥が温かくなるのを感じていた。
(……よかった。本当に、よかった……)
そう思った、その瞬間だった。
――パキン。
「……え?」
乾いた音が、静寂を破った。ヴィオラが顔を上げる。周囲を覆っていた結界に、細かな亀裂が走っていた。




