第ニ十四話 クロノス因子
眩い光が、アージェンの身体を包み込んだ。
黒い瘴気が、その光に触れた瞬間――まるで焼け落ちるように、大きく揺らめいた。
「――っ!」
ヴィオラが目を見開く。先ほどまでアージェンの身体を覆っていた黒い靄が、光に押し戻されている。
けれど、それは消えているわけではなかった。瘴気は生き物のように蠢き、光の隙間から再びアージェンへ絡みつこうとしている。
「ジェー……!」
ヴィオラは一歩踏み出した。彼を助けたい。その一心だけで、もう迷いは一切なかった。
「……必ず助ける!」
小さく呟き、ヴィオラは眼鏡へ手を伸ばした。分厚い黒のフレームを外す。
その瞬間――木枯らし色だった髪が白銀に変わっていく。毛先だけが、柔らかな桃色に染まった。そして、眼鏡によって隠されていた瞳が露わになった。
左眼は深い紫水晶色。右眼は灼熱の黄金色。
異なる色を宿した二つの瞳が、真っ直ぐにアージェンを見つめる。ヴィオラから溢れた光が、アージェンの身体を包み込んだ。
「……私の力で、瘴気を消せるかは分からない」
ヴィオラは、自分の手を見つめる。時守に伝わる術式は、時間に干渉するものだ。
時蝕によって生じた歪みを正し、本来あるべき時間の流れへ戻すための力は、瘴気そのものを浄化する術ではない。だから、これまで一度も試したことがなかった。
「でも……」
アージェンを見つめる。彼の身体を覆う黒い光は、異様な鼓動を繰り返していた。眼鏡を外したヴィオラの瞳には、普通の人間には見えないものが映っていた。
「……これは、普通の瘴気じゃない」
「え……?」
「時間が……歪んでいるのだわ」
ヴィオラの瞳に、淡い光が宿った。すると、それに呼応するように、アージェンの身体を覆っていた黒い瘴気の一部が、まるで映像を逆再生するように揺らめいた。
「……!」
よく目を凝らすと、黒い瘴気の中に無数の時間の流れが絡み合っている。
過去、現在、そして――まだ訪れていない未来。
それらが、本来交わるはずのない場所で無理やり結びつけられている。
「……何かが、ジェーの時間に干渉してる」
「時間に……?」
ユノが呟く。彼女もまた、恐れずにヴィオラの後ろに付いて来ていた。
「ええ。この瘴気は、アージェンの魔力から生まれているんじゃない」
その視線が、彼の胸元へ向けられる。黒い光が、ドクン、と脈打った。
「外から埋め込まれた何かが……アージェンの時間に根を張っている」
ヴィオラの言葉にアージェンは胸元を押さえた。確かに身体の奥で、何かが激しくぶつかり合っている。瘴気と自分自身の魔力。そして――そのどちらでもない、奇妙な力が確実に存在していた。
アージェンが真っ直ぐヴィオラを見据えた。その瞳には、力強い生命力が宿っていた。
「……義姉さん、その通りだ」
震える声が漏れる。
「思い出したんだ……。ここで僕は実験体にされていたんだ」
「ジェー?何を……?」
「……あの時は何を言っているか分からなかった。でも確かにあいつらはこう言った」
ヴィオラの表情が凍る。まるで時間が止まっているように感じた。
「『クロノス因子との同期を開始。』『未来固定化計画、第二段階へ移行。』と……」
「……まさかっ!!」
「……そう。僕の中で今暴れ回っているのは、その『クロノス因子』だ」
「……クロノス因子……?」
ヴィオラは信じられなかった。けれど、目の前のアージェンから溢れ出しているものは、異質だった。まるで、意志を持って暴走しているようだ。
「……僕は、孤児だった。灰色の空を眺めながら、早く楽になれるように毎日祈っていた」
「食べ物に釣られて、ここに連れて来られた時、検体と呼ばれたけれど、僕にも生きる意味があったんだと嬉しくなった」
「……ジェー」
ヴィオラは胸が苦しくなった。アージェンにそんな過去があったなんて知らなかった。
「……でも、それは間違いだった。ここで待っていたのは、地獄のような苦痛の日々だったんだ」
アージェンが胸元を押さえる。瘴気を抑えようと必死に抗っている。きっと、幼い彼もそんな苦痛を毎日経験したのだろう。
「瘴気を流し込まれ、クロノス因子を埋め込まれ、毎日ここで数値を測られた。苦痛に耐えきれず、魔物と化し、処分される仲間を沢山見た。辛かった。早く楽になりたかった」
その言葉に、ユノも俯いた。ヴィオラは、ただ彼を見つめていた。王国がそんな卑劣な実験をしていたなんて…。身体の奥底から、激しい怒りがふつふつと湧き上がってくる。
「だけど、バーベナ様が僕を助け出してくれたんだ」
「お母様が?」
「そう。僕には今まで持っていなかった名前と家族ができた」
「アージェン……」
「だから、義姉さんを守るために僕は強くなりたい。僕は義姉さんのために生きたい。だから、僕は諦めない!」
その瞬間、再びアージェンから淡い光が溢れ出した。アージェンは瘴気を抑えようと必死に抗うが、完全に抑え込めない。
「……ええ、ジェー。絶対に生きて帰りましょう!」
ヴィオラは、ゆっくりと両手を広げた。白銀の髪が光を帯びる。周囲に、無数の術式が浮かび上がった。
「元に戻してみせるわ。あなたが、本来歩むはずだった時間へ!」
それは攻撃のための魔法ではない。時守が受け継いできた、時間の歪みを正すための術式だった。ヴィオラは静かに目を閉じた。
「――還元!!」
瞬間、アージェンを包み込む光が、一気に強くなった。
「――っ!」
黒い瘴気が激しく揺らめく。まるで何かに引き戻されるように、アージェンの身体から剥がれていく。過去へ、あるべき時間、歪められる前の状態へ。
「いける……!」
ヴィオラの声に、わずかな希望が混じる。黒い靄が薄くなっていく。アージェンの顔から苦痛が少しずつ消えていく。
「義姉さん……!」
「もう少し……!」
術式がさらに輝いた。あと少し、あと少しで、すべてを元に戻せる――
そう思った瞬間だった。
――ドクン
アージェンの胸元が、大きく脈打ち、消えかけていた黒い光が一気に膨れ上がった。
「……っ!!」
――バチンっ!!
ヴィオラの術式が弾き飛ばされる。その勢いで後ろに吹き飛んだ。
「ヴィオラさん!」
ユノが慌てて駆け寄った。ヴィオラは何とか踏みとどまりながら、アージェンを見つめる。
「……どうして……?」
確かに戻した。アージェンの時間に生じた歪みを見つけ、それを正しい流れへ戻したはずだった。
なのに――黒い瘴気は消えない。むしろ、アージェンの胸の奥へ深く沈み込んでいる。
「……私の力では、戻せない……?」
「違う……。義姉さんの力は……ちゃんと届いてる」
「じゃあ、どうして……!」
アージェンは胸元を押さえた。
「……こいつが、戻ろうとしないんだ」
――ドクン
黒い光が、意志を持つように心臓の奥で脈打っている。
「僕の時間に入り込んだんじゃない……。こいつ自身が……僕の時間になってる。」
「……!」
ヴィオラの瞳が大きく見開かれた。クロノス因子は、単なる異物ではない。長い年月をかけてアージェンの時間と結びつき、すでにその一部となってしまっている。
だからこそ、取り除けばアージェン自身の時間まで壊れてしまう。
「そんな……!!」
ヴィオラの声が震える。その時だった。
「私が……できるかもしれません」
小さな声が響いた。後ろにいたユノが、自分の両手を見つめて、真剣な顔をしている。
「ユノ?」
ユノの指先が微かに震える。
「どうしてなのか……分からないけど……」
白い光が、指先に灯った。それは今までのユノの魔法とは違う。柔らかく、淡い光。けれど、その奥には――今まで眠っていた、強大な何かが感じられた。
「アージェンさんの中にあるものが……ずっと……私を呼んでいるんです!!」
「……!」
それに呼応するように、アージェンの胸元で黒い光が激しく脈打つ。
――ドクン
ユノの指先の光が強くなる。信じられなかった。ユノも、自分の身体に起きている変化に戸惑っていた。
「この力……私、知ってる……」
けれど、知っているはずがない、使ったこともない。名前すら知らない。それなのに――。身体だけが、その力の使い方を覚えている。
「……そうだ。戻すんじゃない……」
白い光が、さらに強くなる。
「消すんでもない……」
ユノの周囲に、見たことのない魔法陣が浮かび上がった。それは、まるで時間そのものを描いたような不思議な紋様だった。
ユノがゆっくりと手を伸ばす。白い光が、アージェンへ向かって伸びていく。
「……再構築するんです!!」
ユノの声が、結界内に響き渡った。そして、掌から白い光が、弾けた。
「――っ!」
眩しい光だった。ヴィオラは思わず腕で顔を覆う。けれど、それはヴィオラの術式とはまったく異なる光だった。
時守の術式が“あるべき時間へ戻す”ためのものならば、ユノの光は、時間そのものを編み直している。そんな風に見えた。
「ユノ……あなた、一体……?」
彼女自身さえ知らなかった力が、今、目を覚まそうとしていた。




