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第ニ十三話 『検体四十七号』

 僕の世界は、ずっと灰色だった。


 路地裏でうずくまり、誰かが捨てた残飯を漁る。毎朝目が覚めて、空を見上げる。薄汚れた建物の隙間から見える空は、いつだって灰色だった。


(きょうも、またはじまった)


 その灰色の空を見るたびに、僕は悲しくなった。


 僕には家がなかった。帰る場所もなかった。もちろん、名前もなかった。冷たい石畳の感触を感じながら、自分がなぜここにいるのかを考えていた。けれど、幼い僕には何も分からなかった。


 空腹を紛らわせるために膝を抱え、灰色の瞳で地面を見つめながら、ただ時間が過ぎるのを待っていた。


 そんな、ある日のことだった。


「――君」


 聞き慣れない声がした。重い頭をゆっくりと上げる。目の前には、一人の男が立っていた。


 コートの襟を高く立てた男は、顔の下半分をすっぽりと隠している。隙間から覗く冷徹そうな双眸だけが、こちらを値踏みするように見つめていた。僕を見るその目には、憐れみも嫌悪もなかった。


「まだ、生きているのか」


 その言葉の意味が、僕には分からなかった。果たして、僕は生きているのだろうか。死んでいないだけで、生きていると言えるのだろうか。


 僕は灰色の瞳で、力なく男を見つめた。


「食べ物がある」


 ただ、その一言には反応した。男が差し出したパンを、僕は夢中で受け取った。それが間違いだったと気づいたときには、もう遅かった。


 無我夢中でパンを貪る僕は、次第に意識が遠のいていく。


(やっと、らくになれる)


 そう思った。けれど、その期待が裏切られたのは、頬に触れた刺すような冷たさで目を覚ましたときだった。


 そこには、いつもの灰色の空はなかった。目を開けても真っ暗で、自分が目を閉じているのか、開けているのかすら分からない。


 鼻を突いたのは、ツンとする嫌な臭いと、湿った土の匂いだった。震える手で床を探る。でこぼことした、冷たい石の感触が指先から伝わってきた。


 起き上がろうと顔を上げた。暗闇に少しずつ慣れてきた目に飛び込んできたのは、自分の背丈よりもはるかに高い鉄の棒だった。


 何本も並んでいる。


(ここは、どこ?)


 遠くから、かすかなうめき声が聞こえる。何かが壁を引っ掻くような音がして、怖くなった。僕は耳を塞ぎ、その場にうずくまった。


 その時だった。足音とともに、蒼白い光が近づいてくる。


「新しい検体を確保しました」


「年齢は?」


「推定三歳から四歳程度かと」


「魔力反応は?」


「微弱です。ただし、異常な波形が確認されています」


「では、登録しろ」


 男が僕を見下ろす。


「お前は今日から『検体四十七号』だ」


 それが、僕の初めての名前だった。




 ――――――――




「四十七号、起きろ」


 毎朝、同じ声で起こされた。僕には、決められた時間があった。決められた食事があった。決められた検査があった。


 円形の台座に座らされ、天井へと伸びる幾つもの鉄の棒を眺める。手足には、逃げられないように鉄の枷が嵌められていた。


 周囲には白い服を着た人たちがいる。彼らは僕を見ても、目を合わせなかった。まるで、そこにいるのが人間ではないかのような、冷たい眼差しだった。


「四十七号、右手を出せ」


 言われた意味が分からない。だから、動かなかった。すると、白い服を着た男が、苛立ったような顔で僕の腕を掴む。


「……右手だ」


「……っ!」


 驚いて身体を引こうとする。けれど、逃げられない。僕の弱い力では、どうすることもできなかった。

何かを訴えようとして口を開いても、声が出ない。そもそも、何と言えばいいのか分からなかった。


 助けて。怖い。帰りたい。お腹が空いた。寒い。痛い。


 そんな言葉があることすら、僕は知らなかった。だから、ただ目を見開いて彼らを見つめる。


 僕は、検体四十七号。それだけだった。


「瘴気耐性反応値、上昇!」


「クロノス因子が反応しています!」


「……素晴らしい!」


「ベクトル値が同期して、力を相殺している!」


 大人たちの声が聞こえる。僕はただ、身体に流れ込んでくる得体の知れない痛みに耐えるため、目を閉じた。


 声を上げたって、誰も助けてくれない。僕の人生は、最初からそうだった。ただ灰色の空を眺めて生きるよりは、まだマシなのかもしれない。


 でも――


 今の僕も、生きていると言えるのだろうか。死んでいないだけで、生きていると言えるのだろうか。


(もう、らくになりたい)


 そう願った瞬間だった。地下施設の奥から、突然、大きな音が響いた。


 ――ドォンッ!


 床が揺れ、天井から細かな砂埃が落ちてくる。


「な、何だ!?」


「侵入者だ!」


「警備兵を呼べ!」


 それまで淡々としていた大人たちの声が、初めて乱れた。僕は台座の上で、ぼんやりと目を開いた。いつもなら、何が起きても変わらない。大人たちは僕を見ない。僕も大人たちを見ない。ただ、決められた場所に座り、決められたことをされる。


 それだけだった。けれど、その日は違った。遠くから、激しい足音が近づいてくる。何人もの人が走る音と怒鳴り声。そして、金属が激しくぶつかる音が聞こえる。


「そこにいる子供たちを、全員解放しろ!!」


 聞いたことのない声が、地下施設全体を震わせた。その声には、今まで聞いたことのないほどの怒りと、強い意志が込められていた。


「何者だ!?」


「おや、随分と面白いことをしてるじゃない?」


「……あ、あなたはっ! バーベナ様!?」


 轟音とともに、扉が吹き飛んだ。白い服を着た大人たちが、一斉に振り返る。その向こうから、人影が歩いてくる。


 煤と埃にまみれた服。白銀の髪が揺れ、その毛先はわずかに桃色に染まっている。そして、紫と黄金の瞳が、真っ直ぐ前を捉えていた。不気味な実験室そのものを異質なものへと変えてしまうほど、彼女は美しかった。


「……子供を使った実験?」


 低い声が響く。


「カシウスは、また面白いことを思いついたねぇ……」


 彼女は手にした大きな剣を握りしめ、ゆっくりと白衣の大人たちを見渡した。口元には笑みが浮かんでいる。けれど、その目に宿っていたのは、隠しきれない怒りだった。


「貴様ら……自分たちが何をしているのか、分かっているの?」


「未来固定化計画には必要な犠牲だ!」


「犠牲?」


 彼女の眉が、わずかに動いた。


「この子たちを、人間として見ていないの?」


 ――人間


 その言葉が、自分に向けられたものなのか分からなかった。僕は検体四十七号。それ以外の何者でもない。いや、それしか知らなかった。


「……それじゃあ、あなたたちは――」


 彼女の瞳から、笑みが消える。


「歪みを直すための、必要な犠牲ね!」


「……!!」


加速(プレスト)!!」


 彼女が猛々しく剣を振るった。その瞬間、白衣を着た大人たちが次々と倒れていく。あまりにも速く、僕には彼女の姿を目で追うことすらできなかった。


「レグルス!! 子供たちを解放するよ!!」


「はっ!」


 施設の中が大きく揺れる。鉄の檻が、次々と開かれていった。怯えていた子供たちが、大人たちに抱き上げられて運ばれていく。


「大丈夫だ。もう怖くないよ」


「私たちと一緒に、ここを出よう」


 そんな声が聞こえてくる。僕は、ただそれを見ていた。どうしていいのか分からなかった。


 ここから出る。それが、どういうことなのかも分からない。


「……この子」


 彼女が僕を見る。一瞬だけ、息を呑んだ。そして、ゆっくりと僕の前まで歩いてくる。


「……こんな小さな子まで……」


 彼女の声が震えていた。僕は何も言わない。いや、何も言えない。ただ、じっと天井を見つめた。


「……ヴィオラと同じ歳くらいだね?あの子にも、姉弟が必要だと思っていたのよ」


「……」


「もう大丈夫」


 彼女が、ゆっくりと手を差し出す。


「ねぇ、きみ。私と家族にならない?」


 その言葉の意味を、僕は知らなかった。それでも、差し出されたその手に、おそるおそる自分の手を重ねた。


「今日から、あなたは私の子よ!!嬉しい!!私、男の子が欲しかったのよ!」


 何がそんなに嬉しいのか、わからない。でも、彼女は僕の胸元に残された番号札を見つめこう言った。


「四十七号……ひどい!!銀ね……そうだ!」


「あなたは今日から、アージェンよ!」


 胸元に残されていた番号札を静かに外し、無造作に後ろへ投げ捨てる。そして、彼女の両手が優しく僕を包み込んだ。


 身体が持ち上げられる。温かかった。抱きしめられたその温かさが、胸にひどく染みた。僕の奥で、何かが崩れた。頬を、冷たいものが伝っていく。ずっと忘れていた感情が、堰を切ったように溢れ出してきた。


 怖かった。

 寂しかった。

 苦しかった。

 帰りたかった。

 でも――僕には、帰る場所なんてなかった。


「……っ」


 声にならない。それでも、彼女は急かさなかった。ただ、僕を抱きしめたまま、もう一度言った。


「あなたは、もう『四十七号』じゃない。今日から、私の息子のアージェンよ!」


 その言葉に、僕は顔を上げた。彼女は僕を、そう呼んだ。


「あなたの名前よ」


 ――アージェン


 その音が、胸の奥へ落ちていく。初めてだった。僕を“検体”ではなく、一人の人間として呼んでくれた人。


「……あ……あ、あ」


 僕はまだ、言葉を話せなかった。だから、返事はできない。それでも、小さな手に重ねられた温かな手を、ぎゅっと握り返した。


 それが、僕が初めて誰かに伝えた――『生きたい』という意思だった。




 ――――――――




 ――アージェン!!


 その名前が呼ばれた。僕の大切な人がつけてくれた、大切な名前だ。


「……っ!」


 意識が現実へと引き戻される。身体の奥から、何かが湧き上がってくる。


(……あの時と同じ感覚だ……)


 ああ、そうだ。僕は、ここにいた。この実験施設で、“検体四十七号”として実験を受けていた。


 あの白衣の大人たちが、僕に何をしていたのかは分からない。だけど――この痛みだけは、覚えている。


 あの時の僕は、絶望していた。早く楽になりたかった。けれど、今は違う。耳の奥で、誰かの声が遠く響いている。


「アージェン!」


 聞き慣れた声だった。僕に初めてできた家族。


 そして――僕の、最愛の人。


(……生きたい……)


 彼女を守れる、強い男になりたい。その願いが胸の奥から湧き上がった、その瞬間だった。


「……っ!!」


 僕の中から、眩い光が溢れ出した。


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