第ニ十二話 義弟の異変
「アージェン……?」
嫌な予感が、背筋を駆け抜けた。
アージェンの身体から滲み出ていた黒い靄が、先ほどとは比べものにならないほど濃くなっている。
床に淡く浮かぶ魔法陣の光を飲み込むように、足元から黒い影が這い上がっていた。それは煙のようでありながら、煙ではない。揺らめきながら渦を巻き、不気味な生き物のように蠢いている。
冷気が一気に広間へ広がった。肌を撫でる空気が、明らかに先ほどまでとは違う。胸の奥まで凍りつくような、重く濁った気配にヴィオラは息を呑んだ。
(……まさか……)
見間違えるはずがなかった。
あの地蝕で感じた、あの不気味な気配と同じだ。生きているものを拒絶するような、禍々しい魔力がそこにはあった。
「……瘴気……」
呟いた声が震える。アージェンの内側から、間違いなく瘴気が溢れ出していた。
「……来ないで」
低く掠れた声が返ってくる。顔を上げたアージェンの瞳には、不安の色が浮かんでいた。必死に何かを堪えている。その表情だけで、理解した。
彼自身が一番混乱し、恐れているのだ。
「義姉さん、離れて!」
「嫌よ!!」
アージェンに何か異変が起きているのは確かだ。だから、傍を離れるわけにはいかなかった。
彼を助けたい。
その気持ちがヴィオラを突き動かしていた。
「いいから!!」
その声にびくりと肩を震える。それでも、退かなかった。強い意志を込めて、アージェンの両肩をがっしりと掴む。
「……っ! ジェーは大切な家族だもの。ほっとけないわ!!」
「……義姉さんは、残酷だね」
「……何を言っているの?」
彼の手が震えている。身体の内側から、何かが押し上がってきていた。まるで、意思を持った生き物が身体を食い破ろうとしているかのようだ。
「……っ、ぐ……。はぁ……!」
苦しそうに唸るとそれに呼応するように、黒い瘴気が、どっと噴き出した。肩から背中へ、胸元から腕へ、黒い靄が立ち上り、瞬く間にアージェンの全身を覆っていく。
「……瘴気だっ!! 危険だ!!」
誰かの叫び声が広間に響いた。生徒会役員たちの間に、一気に緊張が走った。
「全員、下がって!」
セシリアが叫ぶ。だが、その声が届くより早く、強烈な衝撃がヴィオラの身体を襲った。
――ドンッ!!
「っ……!」
視界が反転した次の瞬間、ヴィオラは冷たい石床に手をついていた。突き飛ばされたと気づいたのは、目の前に立つアージェンが、突き出した手をゆっくりと下ろしていくのが見えたからだ。
「ジェー! 駄目よ!!」
「……っ!」
アージェンは歯を食いしばる。自分でも、この状況が最悪の状態だと気づいていた。身体から溢れ出した瘴気が周囲を包めば、ここにいる全員を巻き込んでしまう。
ならば――こうするしか道がなかった。
「――遮蔽壁」
複雑な術式が瞬く間に展開される。淡い閃光を纏いながら、透明な結界がアージェンの周囲を包み込んでいく。
(……まさか!! 自分ごと結界で封じ込めようとしているの!?)
彼は悲痛な顔でヴィオラの瞳を見つめていた。その瞳には、苦しさと恐怖――そして、優しさがあった。
「……僕だって、義姉さんを守りたいんだ……」
その一言が、胸の奥を締め付ける。幼い頃からずっと、自分の隣にいてくれた。辛いときも、怖いときも、ヴィオラを守ろうとしてくれた。
その彼が今、自分を遠ざけようとしている。自分を守るためではない。ここにいる全員を守るために。
「……みんな、僕のことは置いて、早く地上に逃げて!!」
結界が閉じる。そう理解した瞬間、ヴィオラは考えるより先に身体を動かしていた。
「――加速!!」
淡い光が足元から全身へ駆け上がる。世界が一気に引き伸ばされた。音が遠のき、空気の流れさえも、ひどく緩慢になっていく。視界の中で、アージェンを包み込もうとしている透明な結界だけが、異様なほどゆっくりと動いているように見えた。
(間に合う……!)
ヴィオラは床を蹴り結界の境界が閉じる、その僅かな隙間へ身体を滑り込ませる。
「義姉さん!?」
アージェンの顔が驚愕に染まった。
「ジェーを一人になんて、絶対にさせない!」
「駄目だ!!」
アージェンが手を伸ばして制止する。だが、もう遅い。ヴィオラの身体は、結界の内側へ半分ほど入り込んでいた。
その時だった。
「――待って!」
背後から、誰かの手がヴィオラの腕を掴んだ。
「えっ!?」
驚いて振り返る。そこにいたのはユノだった。怯えた表情は消え、真剣な眼差しでヴィオラを見つめている。
「ユノ!?」
「私も連れて行ってください!」
「……っ!!」
ユノは叫ぶように言った。一瞬の出来事だった。
身体が結界の内側へ完全に滑り込む。そして、ヴィオラの腕を掴んだまま、ユノも勢いに任せて飛び込んだ。
――パァンッ!!
直後、透明な結界が閉じた。空気が震える。薄い膜のようだった結界が一瞬だけ強く輝き、外側と内側を完全に隔てた。
「……ユノ!? どうして……!?」
「すみません……ヴィオラさん」
ユノは息を整えながら、掴んでいたヴィオラの腕を離した。
「ヴィオラさんを一人で行かせるわけにはいかないと思ったら……咄嗟に身体が動いていました……。」
「だからって……危険だわ!」
「……何で来たの?」
低い声が響いた。二人が振り返ると、アージェンが苦しそうな表情で立っていた。だが、その姿はすでに普段の彼とは大きく違っていた。
黒い瘴気が身体を包み込んでいる。その輪郭すら曖昧になるほど、濃くまとわりついている。
「……逃げて……義姉さんたちを……巻き込みたくない……」
「嫌よ!! あなたを置いて逃げるなんて、絶対にしないわ!!」
ヴィオラは真っ直ぐにアージェンを見つめた。もちろん怖い。足が震えそうになる。それでも、一歩も退かなかった。
「私は、あなたを守るって決めたもの」
「……っ」
アージェンの瞳が大きく揺れた。その瞬間、身体が大きく折れ曲がる。胸元を押さえ、片膝をついた。
「ぐっ……!」
「ジェー!」
黒い瘴気が、三人を包み込むように渦を巻く。肌に触れていないというのに、身体の芯まで凍りつくような冷気が流れていた。
けれど、その中心にいるアージェンは、必死にそれを押し込もうとしている。辛そうなその姿に耐えかねて、ヴィオラが駆け寄ろうとした。
「来ないで!!……これ以上近づいたら……駄目だ……」
「……何が起こっているの?」
「分からない……。さっきからずっと……何かが、身体の奥から押し上がってくるんだ」
アージェンは胸元を強く握り締める。
「階段を降りている途中から……急におかしくなった」
「階段を……?」
ヴィオラの脳裏に、先ほどの光景が蘇る。
階段を降りているとき、アージェンの顔は異様に青ざめていた。凍えるように冷たかった手。その異変に、もっと早く気づくべきだったのだ。
唇を噛み締める。
「ジェー……何かされたの?」
「……」
アージェンは答えなかった。ただ、苦しげに目を伏せる。その沈黙だけで十分だった。
「……まさか」
ヴィオラの顔から血の気が引いた。
(意図的に瘴気を身体に埋め込むことなど……可能なの?)
だが、それ以上に恐ろしい可能性が脳裏をよぎる。
(この調査団の中に……ジェーへ危害を加えようとした者がいる?)
その瞬間、彼の身体から再び大量の瘴気が噴き上がった。
「――っ!!」
黒い靄が結界の内側を激しく渦巻く。視界が黒く染まる。その向こうで、アージェンの身体が大きく揺れた。
(……何かがおかしい……)
「……ヴィオラさん。アージェンさんの腕を見てください……」
「腕……?」
ユノに促され、ヴィオラが視線を落とす。
「……っ!」
その光景に息を呑んだ。アージェンの腕に、黒い斑点が浮かんでいたからだ。
それは少しずつ広がっている。皮膚が黒く染まっているのではない。何か別のものへと、身体そのものが変質しているように見えた。
「……あれは……!」
「……あの姿。見覚えがありませんか?」
脳裏に、数日前の地蝕の光景が蘇った。突然、地割れから噴き出してきた瘴気と、その中から現れた異形の魔獣たちの姿を思い出す。
(……時食いの魔獣……)
身体を侵食していた黒い皮膚は、人間のものとは思えないものだった。あの魔獣の姿と、今のアージェンの身体は酷似している。
「…そんなっ………」
声が漏れた。もし、瘴気に侵された人間が時食いの魔獣へ変貌していたのだとしたら……地蝕で現れた、あの魔獣たちの正体が導き出される。
(……ここで実験されていた人間だったということ……?)
背筋が凍る。地下施設に用意された無数の器具と、中央に置かれた台座。そのすべてが、ヴィオラの脳裏で一本の線に繋がっていく。
「……あああぁぁぁ!!」
アージェンの叫びが響いた。身体を仰け反らせ、必死に何かへ抵抗している。悲痛に叫ぶ彼に、胸が張り裂けそうになる。しかし、残された時間はもうほとんどない。
(もう、二度と、目の前で大切な人を失いたくない!!)
ヴィオラは一歩、アージェンへ近づいた。瘴気が足元を這う。恐怖で心臓が早鐘を打つ。それでも、足は止まらなかった。震える手をゆっくりと伸ばす。
「私は、この瘴気が何なのか、突き止める!!」
アージェンの瞳が揺れた。ヴィオラはその目を真っ直ぐに見つめる。
「そして、あなたを絶対に元へ戻すわ!!」
黒い瘴気が、三人を包み込むように渦を巻いた。
「……ぐっ、ぐああああああっ!!!」
アージェンは張り裂けそうな叫び声を上げる。
その時――
突然、脳裏に記憶が流れ込んできた。それはアージェンが忘れていた過去だった。




