第十九話 義弟の嫉妬
「義姉さん、おはよう」
寮の部屋からエントランスに降りると、いつものようにアージェンが待っていた。
朝日を浴びて佇む姿は、まるで絵画から飛び出してきたように美しい。淡い光を受けた髪がきらきらと輝き、その整った顔立ちは、朝の静かな空気の中ではどこか現実離れして見えた。
「ジェー、おはよう」
笑顔で声をかける。
普段なら、ヴィオラの姿を見つけるなり、アージェンは嬉しそうに目を細める。そして当たり前のように隣へ並び、他愛のない話をしたりする。
それが、二人にとっての朝だった。けれど、今日は何かがおかしい。彼はどこか不機嫌そうだった。
「……」
「……ジェー?」
ヴィオラは不思議に思いながら、その顔を覗き込む。すると、突然手首を掴まれた。
「え……?」
驚いて目を瞬く。強い力ではない。けれど、いつものアージェンからは想像もできないほど唐突な行動だった。
掴まれた手を、そのまま胸元へ引き寄せらた。ヴィオラは思わず息を止めた。
見上げた先にあったのは、いつもの穏やかな笑顔ではない。切なげに揺れる瞳は、まるで何かを必死に堪えているようだった。
「……ねぇ、義姉さん」
「なに……?」
「昨日、あいつと二人きりで何をしていたの?」
その問いを聞いた瞬間、ヴィオラの顔が一気に熱くなった。
「……っ!」
昨日の出来事が、まるで巻き戻されたかのように鮮明に蘇った。
執務室でルシアンと二人きりになった瞬間。未来固定化計画について聞かされたこと。そして、あまりにも近かった距離。耳元にかかる吐息と、触れそうなほど近くにあった瞳。それらが一気に脳裏へ蘇った。
そして――。
『私は君を失いたくないんだ』
「……っ!!」
胸の奥が大きく跳ねた。押し込めていたはずの感情まで、一緒に引きずり出されたようだった。
「……義姉さん?」
「な、何でもないわ!」
「顔、真っ赤だけど……何かされたの?」
アージェンの声が低くなる。それに呼応するように、周囲の空気まで冷たく張り詰めた。
「……何もされてないわ!」
「嘘だ!!」
掴まれた手首をぐっと引き上げられ、背後の壁に押し付けられる。
壁とアージェンに挟まれて、ヴィオラは身動きが取れなくなった。
「……ジェー? どうしたの?」
見上げたアージェンの顔に、怒りはなかった。むしろ、今にも泣き出しそうだった。何かの痛みに耐えるように、苦しそうに眉を寄せている。
「……嫌だ。アイツといる時の義姉さん、僕の知らない顔をしてる……。義姉さんの隣は僕のものなのに……」
絞り出すような声だった。ヴィオラは驚いて目を見開いた。いつも冷静で、何事にも動じないアージェンが、こんな顔をするなんて思わなかった。
(……ジェーこそ、私の知らない顔をしているわ……。)
「ジェー……」
「義姉さんは、僕にとって特別なんだ」
掴んでいた手首の力が、ほんの少しだけ緩む。
「辛い時も、悲しい時も、義姉さんがいれば頑張れた。村が焼け落ちてから、僕が帰る場所はずっと義姉さんの隣だったんだ」
「……うん」
「だから……義姉さんを取られるみたいで、嫌なんだ」
ヴィオラの胸が、きゅっと締め付けられる。その言葉には、驚くほど幼い寂しさが滲んでいた。
いつも完璧で、美しくて、何でも器用にこなす義弟。そんな彼が、初めて見せた弱さだった。
彼がどれほど自分を大切にしてくれているのかは、ずっと分かっていた。けれど、それがこんなにも強い寂しさを伴っているとは思わなかった。
ヴィオラはそっとアージェンの頬へ手を添えた。
「ジェー。私はずっと傍にいるわ」
「……本当?」
「もちろん。だってあなたは私の大切な弟だもの」
「……弟」
アージェンが小さく呟いた。その言葉に、ほんの僅かに寂しそうな影が落ちる。
「そうだね」
そして、ヴィオラの手を離す。
「……義姉さんにとって、僕は弟だもんね」
「ジェー?」
「なんでもないよ」
アージェンはいつもの笑顔を浮かべた。けれど、その笑顔がいつもより少しだけ寂しげに見えたのは、気のせいではなかった。
「じゃあ……あいつは?」
「会長のこと?」
名前を口にした瞬間、アージェンの眉が僅かに寄る。ヴィオラは苦笑した。
「昨日は、確かに二人きりになったけれど……大切な話をしていただけよ」
「大切な話? 何それ?」
「ええと……それは……」
ヴィオラはふと口を閉ざした。王家の『未来固定化計画』のことは、言わない方がいい。
まだ不確定なことが多すぎる。それに、時守の一族が地蝕の原因に関わっているかもしれないなんて、アージェンには知られたくなかった。
(何か、アージェンが納得できることを答えなきゃ……。)
その時、脳裏に浮かんだのは昨日の夢だった。紫苑の花畑で、風のように笑う少女。一緒に駆け回った、遠い記憶。
「……ランのことを話していたの」
「ラン?」
アージェンの表情が変わった。
「そう。夢でランのことを視たのよ」
ヴィオラは言葉を続ける。
「王国軍に連れて行かれたから……今どうしているのか、何か知らないかと思って聞いていたのよ」
上手く誤魔化せた。ヴィオラはそう思った。しかし、アージェンは信じられないことを言った。
「誰?」
「……え?」
ヴィオラの胸が大きく跳ねた。以前、ロウの話をした時も、アージェンは同じような反応を見せていた。
(……どういうこと?)
「ランよ。私の侍女だった子よ」
「……義姉さんの?」
「そうよ」
けれど、アージェンは怪訝そうに首を傾げた。
「僕は知らない……」
「……!」
その言葉に、ヴィオラの背筋に冷たいものが走る。
理解が追いつかず、思考が止まった。
(知らない……?)
アージェンは、幼い頃の記憶を失ってしまったのだろうか。それとも……。
「……おや。また堂々と浮気かな?」
静かな声が、二人の間へ割って入った。
「え?」
ヴィオラが振り返る。そこには、朝の光を背負ったルシアンが立っていた。穏やかな表情で、いつも通りの柔らかな笑顔を浮かべている。けれど、その瞳だけはまったく笑っていなかった。
「会長……?」
「……今日もですか?」
アージェンが、まるでヴィオラを守るように一歩前へ出る。その声には、僅かな棘が含まれていた。
「義姉さんを迎えに来なくても、僕がいますから安心してください。お忙しい生徒会長様は、婚約者を追いかけてばかりで、いったい何をなさっているんですか?」
「君こそ、何をしているのかな?」
ルシアンの視線が、アージェンの手へ落ちる。
ぴり、と空気が張り詰めた。
「彼女の手を離してもらえるかな」
「嫌です」
即答だった。けれど、掴まれたヴィオラの手首に触れているアージェンの指が、微かに震えている。
(ジェーも不安なのね……)
先ほどの言葉が蘇った。取られるのが嫌だ。自分の隣から、いなくなってしまうのが怖い。それはきっと、ヴィオラが想像していた以上に深い感情なのだろう。
「僕は義姉さんと話をしているだけですよ」
「……そうか」
ルシアンはアージェンを見つめる。その表情に怒りはない。ただ、その瞳だけが静かな牽制を物語っていた。
「なら、話はもう終わったかな?」
「……。」
アージェンが黙り込む。ルシアンはそれ以上追及しなかった。代わりに、ヴィオラへ視線を移す。
「ヴィオラ」
「……はい」
「昨日の話は、まだ誰にも話していないよね?」
「……ええ」
「それならいい」
優しい声だった。ふわりとヴィオラへ微笑む姿に、思わず勘違いしてしまいそうになる。けれど、その瞳の奥には昨日と同じ、決意のようなものが宿っていた。
ルシアンは短く息を吐くと、再びアージェンを見る。
「今日から地下遺跡の調査が始まる。内部で何が起こるのか、まだ何も分からない」
「……はい」
「私は結界の確認や調査団との打ち合わせで動くことになると思う。だから、常にヴィオラの傍にいることはできないだろうね」
「だから、弟君。彼女を守ってくれないか?」
アージェンは意外そうに目を見開いた。てっきり、ルシアンは自分からヴィオラを遠ざけようとすると思っていた。
なのに彼は、自分にヴィオラを託そうとしていた。
「……義姉さんを?」
「ああ。そうだ」
ルシアンの声は静かだった。そこには、アージェンへの警戒も、嫉妬もなかった。
ただ、ヴィオラの安全を願う気持ちだけがあった。
「……言われなくても守りますよ」
「僕の大事な人ですから」
アージェンはゆっくりと頷く。ルシアンの目が、ほんの僅かに細められた。けれど、何も言わない。
「……頼んだよ」
「……はい」
二人は一瞬だけ視線を交わした。そこにあったのは、先ほどまでの敵意ではなかった。
「へ〜。君達は、そう思うんだ〜」
「……?」
三人が同時に振り返る。
いつからそこにいたのか。廊下の柱に寄りかかり、眠そうな目を細めている少年がいた。
深緑の髪をさらりと揺らし、口元には飄々とした笑みを浮かべている。
シオン・アークライト。
生徒会役員の一人。そして、王家の諜報を担うアークライト家の嫡子だった。




