第十八話 夢の中の少女
「ラン! 待ってよー!」
紫苑の咲き乱れる花畑を、無我夢中で駆け回る。目の前を走る少女の深緑の髪が宙を舞い、風のように揺れた。
「お嬢様じゃ、捕まえられませんよ〜」
飄々と風のように逃げる彼女に、ヴィオラは頬を膨らませる。捕まえようとしても、あと一歩というところでするりと手のひらをすり抜けてしまう。
「むー!──加速!」
身体が淡い光に包まれ、一気に軽くなる。
加速魔法を使ったヴィオラを見て、ランは肩越しに振り返り、楽しそうに笑った。
「おっと。本気ですね?」
「今日は絶対捕まえるもん!」
「それなら、私も負けられませんね〜」
ランが指先を立てると、淡い風が足元を包み込んだ。
「──風歩」
ふわり
足元を風が駆け抜けた瞬間、彼女の姿がさらに遠ざかった。
「わぁっ!」
「まだまだですよ〜!」
悔しくて歯を食いしばる。こうなったら奥の手を使うしかない。
「──停……」
「こらぁぁぁー!!」
花畑中に響き渡る大声に、二人の身体がぴたりと止まった。
「子供の鬼ごっこで魔法乱用禁止ー!」
腰に手を当てて仁王立ちしていたのは、鬼のような形相を浮かべたバーベナだった。母親の雷は、お化けなんかよりずっと怖い。ヴィオラは思わず身を震わせる。
「時間停止なんて使ったら反則でしょう!」
「だ、だってランが速いんだもん……」
唇を尖らせるヴィオラとは対照的に、ランは背筋をぴんと伸ばした。
「申し訳ありません」
「二人とも、謝る!」
「「はい……」」
二人は顔を見合わせる。
「「ごめんなさい」」
声がぴたりと重なる。
それを見たバーベナは、思わず吹き出した。
「もう……本当に仲がいいんだから」
ランは、母バーベナが保護した身元不明の少女だった。
王都の路地裏で瀕死の状態で倒れていたところを発見され、屋敷へ運び込まれたという。
命は助かったものの、しばらくは一言も口を利かなかった。目を覚ますと真っ先に短剣を探し、隙を見ては風魔法で逃げ出そうとしていた。
『五歳の少女とは思えない。威力こそ高くないものの、急所を狙えば致命傷にもなり得る魔法をいくつも習得させられている』
そんな大人たちの話を偶然耳にした日、ヴィオラは心の中で決めた。
(私が、ランを守る)
『今日からランはヴィオラの侍女よ。仲良くしなさい』
それからは、いつもランが後ろをついて歩いてくれた。
一緒に遊び、一緒に笑い、一緒に食事をする。
それがヴィオラには嬉しくてたまらなかった。
だから、ランが少しずつ笑顔を取り戻すまで、それほど長い時間はかからなかった。
ざぁぁぁぁ―――
その時、不意に花畑を強い風が吹き抜けた。
一面の紫苑が大きく揺れ、無数の花びらが空へ舞い上がる。まるで薄紫色のカーテンが風に乗って踊っているようだった。
その光景を、ランはじっと見つめていた。
「ラン、どうしたの?」
ヴィオラが不思議そうに覗き込む。
ランははっと我に返り、慌てて笑顔を作った。けれど、その笑顔はどこか寂しげで、今にも消えてしまいそうだった。
「何でもありません」
僅かに右眉が上がった。曇った表情を打ち消すように、笑顔で手を差し出す。
「ほら、お嬢様。鬼ごっこの続きをしましょう」
「うん!」
迷いなく、小さな手が重なる。二人は再び花畑を駆け出した。その背中を追うように風が吹き、紫苑の花が一斉に揺れる。
楽しげな笑い声は、どこまでも澄み切った青空へと溶けていった。
―――――――
今まで見た過去視の中で、一番穏やかな夢だった。
目を開けると、白い天井が視界に飛び込んできた。数日前から毎朝感じる左眼の熱にも、もうすっかり慣れてしまった。
(…不思議なものだわ)
昨日から抱いていた違和感が、少しずつ形になっていく。左眼の熱から、毎日見る夢は過去視だと分かっていた。
しかし、一つだけ腑に落ちないことがある。
過去視を視るまでは、その出来事そのものを忘れてしまっている。いや 、思い出せないのではない。夢を見るたびに、失われていた過去が自分の中へ流れ込んでくる。そんな感覚の方が近いかもしれなかった。
(…だって、あんなに一緒にいたランのことを今の今まで忘れていたなんて…信じられない)
彼女は、ヴィオラの唯一の侍女だった。何をするにも、いつもランが必ずそばにいた。風のように掴みどころのない自由な彼女が、大好きだった。
村が焼け落ちた時、ランはヴィオラの身代わりになって、王国軍に捕まった。
『……お嬢様、私が捕まるわけがありません。後で追いかけるので先に行っててください』
小さな身体で右眉を上げて、笑顔を見せたランの顔がはっきり脳裏に浮かんだ。
(…私が守ると誓ったのに…!)
その後、ランがどうなったのかは分からない。 王国軍へ連れて行かれたという事実だけが、胸に重く残っていた。
夢の中で感じた温もりが、まだ掌に残っている気がする。
「……ラン」
ベッドに起き上がり、小さく名を呼ぶ。その声は、窓の外から聞こえる小鳥のさえずりに静かに溶けていった。
ふと窓辺に視線を移す。カーテンの隙間から差し込む光が目に飛び込んできた。朝日がキラキラと光り、眩しい。
「……会長の髪みたい……」
はっ、として口を押さえる。
(……私、今何を……?)
頬に集まる熱に、思わず両手で覆う。心を掻き乱す見目麗しい姿を振り払うように、眼鏡をかけた。
(……しっかりしなくっちゃ)
雑念を振り払うように、頬を軽く叩いて気持ちを引き締める。今日は一日、地蝕の調査で学園は休校となった。しかし、ヴィオラは学園に行かなくてはならなかった。
『――地蝕跡地で地下への入口が発見されました』
昨日ルシアンと共に呼び出された、理事長室での言葉を思い出す。ヴィオラはそっと目を閉じた。
――――――――
アウレア学園最上階に位置する理事長室。
重厚な扉を開け室内に入ると、地蝕調査団団長ガイアス・ローズマリーが静かに告げた。
「今回の地蝕跡地を調査したところ、中心部の崩落した地盤から、人工的に造られた石造りの通路を確認しました」
机の上に一枚の地図が広げられる。赤い印は、地蝕発生地点を示していた。
「入口は完全に埋没していました。地蝕によって地盤が崩れたことで、偶然その姿を現したようです」
「つまり……」
ルシアンが怪訝そうに室内を見渡す。そこには地蝕調査団の幹部だけではなく、生徒会役員とアージェンの姿もあった。
「誰かが意図的に造った施設ということですか?」
「現時点では、その可能性が高いと考えています」
ガイアスは険しい表情で頷く。
「壁面には古い結界術式が刻まれていました。自然洞窟ではありません」
室内へ重苦しい沈黙が流れた。ヴィオラは、先ほどルシアンから聞かされた話を思い出す。
未来固定化計画、地蝕、そして地下遺跡ーー。
胸騒ぎがする。知らない所で何かが確実に起こっている。
「ですが、調査団だけでは対応できない問題があります」
ガイアスはルシアンへ視線を向けた。その表情はど何処か、戸惑いに似たものが浮かんでいる。
「施設内部には、王家の封印術式と酷似した結界術式が確認されました」
ルシアンは静かに目を伏せる。この理事長室に呼ばれた意味を、理解できた。でもその言葉は、かすかな希望を打ち砕くには十分だった。
「結界を解除するには、王族、あるいはそれに準ずる権限を持つ者の立ち会いが必要です」
「……だから私を?」
「はい」
ガイアスは続いて、生徒会役員たちを見渡した。
「結界解除後、内部で何が起こるか分かりません。アウレア学園の代表として、生徒会役員の皆様、そして今回の地蝕を鎮めたリュウール伯爵家のお二人にも同行をお願いしたいのです」
その場に異を唱える者はいなかった。自分たちの通う学園で起きた地蝕の原因究明に繋がる可能性がある以上、誰も背を向ける理由はない。
ただ一人、エレノアだけが困惑したように口を開いた。
「……理事長先生は、どうされたのですか?」
その問いへ、副団長ロウが頭を掻きながら苦笑した。他の団員も居心地が悪そうに視線を逸らす。
「間が悪くてな」
「三日ほど前から、理事長閣下は王太子殿下の隣国視察へ同行中だ。加えて、魔術教師であり王太子殿下の婚約者でもあるリリアーナ嬢も随行しているそうだ」
(こんな時に……?)
その言葉にヴィオラはわずかに眉を寄せた。その行動が何処か不自然に感じてならない。
ガイアスは改めて深く一礼し、神妙な面持ちで生徒会役員を見つめる。
「理事長代理として、生徒会長ルシアン・ヴァンヴェール殿へ調査同行を要請いたします」
「承知しました」
ルシアンは迷いなく頷いた。逃げずに真実に向き合おうとする、真剣な顔だった。
「アウレア学園生徒会は全面的に協力します」
その返答に、調査団の面々は安堵したように息をついた。そして、ガイアスはもう一人へ視線を向ける。
「なお、内部は未知の空間である可能性があります。教師代表として、ザイデルバスト・エクトル先生にも同行をお願いいたします」
「承知しました」
ザイデルバストは穏やかな笑みを浮かべ、一礼した。
「生徒たちの安全は、私が責任を持って守りましょう」
―――――――
ヴィオラはゆっくり目を開き、決意する。もう、何が起ころうと迷わない。
(私は真実が知りたい)
何が悪で、何が正しいのか。私は、自分の目で見たものを信じたい。それが衝撃的なことであろうとも、もう後には退けないのだから。
そう決意して、部屋を後にした。




