第十五話 忘却の記憶
「よう! 元気そうで何よりだなぁ!!」
目前で豪快な笑い声を響かせながら、ロウ・ディフェンソルが大股で歩み寄ってくる。その先にいるのは、生徒会庶務のガルディアス・サクスムだった。
「師匠」
堅物そうなガルディアスの表情が、わずかに緩んだ。ロウは遠慮なく彼の背中を叩く。
「ガハハッ! 背ぇも伸びたなぁ! 見違えたぞ!」
「それは師匠のお陰です。あの日、救ってもらった命がなければ、今ここに俺はいません」
「堅ぇ堅ぇ!」
豪快に笑い飛ばしながら、ロウはガルディアスの肩を組む。
「生きてりゃそれで十分だ。立派になったじゃねぇか」
その光景を見つめるヴィオラの胸は、熱く締め付けられていた。
(……ロウ、おじさま)
幼い頃、何度も肩車をしてくれた大きな背中は今も変わらず、逞しい。母ヴァーベナの隣で、豪快に笑っていた優しい護衛騎士そのままだった。
もう二度と会えないと思っていた人。震える足で、一歩、また一歩と近づく。
「…ロウおじさま……」
掠れた声だった。その声が届いたのか、大きな影が重々しく振り返った。
「ん?」
琥珀色の瞳がヴィオラを映す。だが、その瞳に懐かしさは宿らなかった。
「失礼だが……嬢ちゃん、どこかで会ったか?」
その一言で、ヴィオラの胸が凍りつく。
「……え」
思考が止まる。震える声が漏れた。幼い頃から随分、身長も高くなった。眼鏡を掛けていることで、髪色も目の色も異なる。きっとすぐには気付かないのだろう。しかし、淡い期待はあっけなく砕け散った。
「悪ぃな、リュウール家の嬢ちゃん。俺を知っているようだが、昔の記憶が俺には無いんだ」
「……覚えて、いないのですか?」
「ああ。昔の記憶がところどころ抜け落ちちまっててな」
困ったように頭を掻いた。日に焼けた顔に、申し訳なさが滲み出る。彼の苦笑いが、無情に虚しさを与えた。
「師匠は十年前、我がサクスム子爵領で起きた地蝕の鎮圧任務で重傷を負ったんだ。その時、俺と弟たちを庇って魔物に右腕を喰われてしまったんだ」
困惑したロウを横で見ていた、ガルディアスが静かに口を開く。ヴィオラは思わずロウの右腕を見たが、逞しい腕は、何事もなかったかのようにそこにあった。
「……腕が…?」
ロウは苦笑して袖をまくる。現れたのはまるで精緻な美術品のような魔導義手だった。見たことも無い分厚い装甲には、複雑な紋様が深く刻まれている。彼が指先を動かしても金属音は一切せず、まるで初めからそこにあった生身の腕であるかのように、静謐に、そして完璧に存在していた。
「あの時は俺も死んだと思ったんだがな…。腕だけじゃねぇ」
少しだけ笑みを曇らせる。
「代償に昔の記憶を随分と持っていかれた。大事なことほど、ぽっかり抜け落ちてる」
ヴィオラは息を呑んだ。時食いの魔物は、時間を喰らう。食べた人間の時間も、同時に奪っていくのだ。
(だから……私やお母様のことも…)
熱くなる目頭を押さえた。生きていてくれただけで、嬉しい。だが、自分や故郷の思い出だけが失われてしまっている事実は、あまりにも残酷だった。
「ふむ。その腕は、我が最高傑作という興味深さ」
落ち着いた紳士の声が背後から響く。一同が振り返ると、そこには純白の法衣を纏った初老の男が立っていた。
海のように青い髪を後ろへ流し、金縁の片眼鏡を掛けた端正な顔立ち。知性と威厳を兼ね備えたその姿は、学者でありながら一国の貴族としての風格を漂わせている。
彼はロウの義手へ満足そうに視線を向け、穏やかに微笑んだ。
「我が名はアルベルト・ルミナス。王立天星魔導研究院院長にして、その腕を造った張本人じゃ」
片眼鏡の奥の蒼い瞳が、静かにヴィオラを映した。穏やかな笑みとは裏腹に、その眼差しは鋭い。
「それよりも、昨日の地蝕について聞きたい」
ヴィオラの心臓がどくりと跳ねる。
「リュウール伯爵令嬢。そして、サクスム子爵令息。調査報告では、君達が結界を展開したことで、被害は驚くほど小さく抑えられたという興味深さ」
アルベルトは二人を交互に見た。その場にいた研究員の面々も興味深そうに視線を向ける。
「通常の地蝕であれば、周囲一帯は瘴気に呑まれる。しかし今回は違った。結界は極めて精密で、瘴気の拡散だけを封じ込めておる」
アルベルトは顎へ手を当てる。
「実に興味深い。一体、どのような術式を用いたのかね?」
ヴィオラは一瞬だけ息を止めた。やはり研究者だ。視点が鋭い。でも、何とか誤魔化すしか道はない。
「……学園で学んだ結界魔法です」
できるだけ平静を装って答える。ガルディアスも合わせる様に、静かに頷いてくれた。
しかし、アルベルトは首を横へ振る。
「いや、それだけでは説明がつかないという興味深さ。通常の結界魔法では、あの浄化速度にはならない。瘴気の流れそのものを書き換えたような……いや」
片眼鏡の奥の瞳が細められる。
「まるで、瘴気を打ち消したかのような現象という興味深さ」
ヴィオラの鼓動が大きく跳ねた。隣ではガルディアスの表情も硬くなる。
「失礼だが、君達は何か特殊な魔法体系を受け継いでいるのではないかな?」
沈黙が流れる。何と答えるのが正解だろうか。きっと彼には誤魔化しは通用しないだろう。学園に降り立ったほんの僅かな時間で、そこまで具体的な事実にたどり着いている。それでも、ヴィオラは口を開くわけにはいかなかった。
「古い文献には、一つだけ似た記述が残っているという興味深さ」
アルベルトはゆっくり口を開く。
「時を――」
その瞬間だった。
「お父様、ディフェンソル卿」
凛とした声が場の空気を切り裂いた。小柄な生徒が人混みを掻き分けて歩み寄ってくる。キノコ型の蒼色の髪に赤縁の眼鏡を掛けた少女、エレノア・ルミナスだった。
「地蝕調査団の皆様がお呼びになっています。これから皆様で、理事長室へ移動なさるそうです、というお話」
「む」
アルベルトは僅かに眉を寄せた。
「そうか……。続きは後ほど聞かせてもらおう。失礼する」
そう言って、名残惜しそうに他の研究員と共に歩き去っていった。
「ガッハハッハ。俺も行かねぇとなぁ。じゃあ、ガルディアスまたな」
ロウも豪快に笑いながら、地蝕調査団の元に戻っていく。彼らの姿が遠くなったのを見届けてから、ヴィオラは張り詰めていた息をゆっくり吐き出した。
(助かった……)
あと数秒遅ければ、一族の名まで口にされていたかもしれない。ヴィオラはエレノアへ向き直り、小さく頭を下げた。
「……エレノアさん。ありがとうございました」
エレノアは首を横に振る。
「いえ、礼には及びません。私は、自分の研究対象を守っただけ、というお話」
赤縁眼鏡を人差し指で軽く押し上げ、どこか誇らしげに、胸を張ってそう言った。




