第九話 時蝕の原因
青臭い新緑の香りを胸いっぱいに吸いながら、道の無い山の斜面を駆け登る。木々の枝葉が美しく整ったブナ林の間から、キラキラとした宝石のような木漏れ日が降り注いだ。ヴィオラは胸が高鳴った。春の息吹を全身に浴びて、その輝きに心が満たされていく。
今日は特別な日だった。木の枝が服に引っ掛かろうが、頬を掠めようが、お構いなしだった。やがて木々が途切れ、小高い丘に飛び出る。街道が見えると、一心不乱に斜面を駆け下りた。
「おかあさま!!!」
弾けるような高い声が街道に響き渡る。ゆっくりと歩みを進めていた、旅の一行がヴィオラに向かって手を振った。
「がっはっはー!姫さん。相変わらず、村に着くまで待ちきれなかったみたいだな!!」
巨躯の男が豪快に笑う。その後ろの白馬に跨っていた女性が、静かに馬を止めた。白銀の髪を靡かせ、軽やかに鞍から滑り降りる。
両手を広げて待ち構えるその腕の中に、ヴィオラは迷わず飛び込んだ。
「アハハハー!ヴィオラ、ただいま!!また私達が帰って来るのが“視えた”のかい?」
太陽みたいな笑顔でヴィオラを抱き上げると、勢いよくそのまま一回転する。春風が白銀の髪をさらさらと揺らし、陽光を受けた毛先の淡桃色が花びらのように舞った。
「うん!おかあさま、おかえりなさい!」
ヴィオラは嬉しそうに母親の首へ腕を回した。長旅の疲れも微塵も見せず、大きな手で無造作に頭を撫でてくれる。その温もりに包まれると、不安も寂しさも全部消えてしまいそうだった。
「おや、服も顔も擦り切れてるじゃないかい!またブナ林を突っ切ったね?」
「うん!きれいできらきらしてて、だーいすき!!」
「ガハハ!バーベナ、あんたの娘は流石だ!物事の本質をよく分かってる!」
巨躯の男――ロウが豪快に笑う。その声につられて一行から笑いが起こった。
「……そうだね」
バーベナは目を細めた。
「よし、少し休憩しようか。レグルス、フェリア、小川で休むよ」
「……はい」
「かしこまりました!」
「ほら、ヴィオラ、こっちにおいで」
手を引かれて街道を横に逸れると、小さな川のせせらぎが出迎える。雪解け水を宿した、澄んだ水が静かに流れていた。
バーベナはその水をすくうと、優しくヴィオラの頬を洗い流す。
「きゃ!つめたい!!」
「ふふ。ほら綺麗になった」
優しく目を細めてヴィオラを見つめる。その顔を見ていると、じんわりと胸の奥が温かくなった。
「私が居ない間、勉強は頑張っていたかい?」
「うーん。ちょっとかな」
「アハハ。正直でよろしい」
そう言うとバーベナは立ち上がり、小川へ向かって手を伸ばした。
「じゃあ、この前のおさらいをしよう」
指先に魔力が灯る。淡い銀色の光が空気に溶けた。
「空間浮揚」
小川の底に沈んでいた石が、ふわりと宙へ浮かび上がる。
「わぁ……!」
ヴィオラは目を輝かせた。
石はまるで見えない手に操られるように移動し、水流の中へ並べられていく。さらさら流れていた水が石にぶつかり、いくつもの流れへ枝分かれした。
「ヴィオラ。この水を“時間”だと思ってごらん」
「じかん?」
「そう。時間は昨日から今日へ。今日から明日へ。止まることなく流れ続ける。そして、進みたい道を選ぶ度に、未来は枝分かれするんだ」
石で分けられた水流を示す。
「朝、早起きする未来。寝坊する未来。勉強を頑張る未来。勉強をサボって遊ぶ未来。全部違う流れなんだよ」
「未来って、いっぱいあるんだね」
「そうだよ」
ヴィオラはじっと耳を傾けた。さらさらと水が煌めいて流れていく。バーベナはさらに指を動かして石を積み重ねた。すると川の中に石の堰が出来た。しかし、石で堰き止められた水は流れる道を失ってどんどん溜まっていく。
さらに指を動かして、その堰の一箇所だけを少し崩した。すると水は細い隙間からしか流れなくなる。
「ヴィオラ。これはどう思う?」
「…ながれがひとつしかないから水があふれそうだわ」
「その通り」
水位が上がり、行き場を失った水が岸から濁流となって溢れ始めた。水が茶色く濁り、草が倒れ、土が削られていく。川底の魚が驚いて跳ね上がり、川岸でバタバタ跳ねた。
「これを時間に例えると、溢れた時間から亀裂が出来て歪む。これが時蝕だ。でも、歪みは自然にはできない。誰かが欲望や悪意を持って、“時間の流れを固定”しなければ発生しないのだよ」
バーベナの声は静かに告げる。何処か遠くを見ていたその瞳は、寂しげだった。
「こてい?」
「そうだよ。今のこの状態の事さ。このままだとどうなると思う?」
「……川じゃなくなる?」
「そう。自然に流れなくなってしまう。それが世界の終わりだ」
ぞくり、と背筋が震えた。怖かった。とても怖かった。けれど、バーベナの温かい手が頭を撫でる。
「だから私達が守るんだよ」
その声はどこまでも優しかった。
「誰かが時間を操作して流れを歪めてしまったら、ヴィオラがもう一度、正しい流れへ導くんだ。未来を、時間を、これから生まれてくる誰かの笑顔を守る為に」
そう言うと、バーベナは指を鳴らした。積み上げられていた石が崩れる。堰が消えた瞬間、滞っていた水が一気に流れ出した。何事もなかったように川は元の姿を取り戻す。
「もし全ての未来が、今の川みたいに一つしか許されなくなったらどうなると思う?」
バーベナの瞳が真剣なものに変わる。言っている意味が理解できなくて、ヴィオラは首を傾げた。
「どうして一つになるの?」
「誰かがそう望むからだよ」
バーベナは静かに告げた。春風が吹き抜け、木々がざわりと揺れた。
「未来を独占したい者、運命を支配したい者、失ったものを取り戻したい者、世界をやり直したい者」
「そういう願いが強くなり過ぎると、時間は歪む」
「じゃあ、時蝕は悪い人が起こすの?」
「いいや」
バーベナは首を振る。
「良い人や私でも起こせる。大切な人を救いたいだけでも。幸せな未来を望んだだけでも」
その言葉は不思議と哀愁を含んでいた。ヴィオラはゴクリと唾を飲み込んだ。
「だから怖いんだよ」
バーベナは空を見上げた。そこにはよく晴れた春の空が広がっていた。
「時蝕の原因は、いつだって人の願いだから」
―――――――
「お母様!!」
ヴィオラは飛び起きた。手を伸ばすと、そこには見慣れた白い天井があった。伸ばした手を握り締め、熱を持った左目を無視しながら、枕元にある眼鏡をかける。胸の奥に残る違和感にため息を吐いた。
(思い出したわ…何故忘れていたのかしら)
あの日、母親はヴィオラにちゃんと教えてくれていた。
昨日学園で発生した時蝕は異常だった。自然災害では説明がつかない程の、時喰いの数だった。どれだけ時間が固定され、歪められていたのだろうか。
嫌な予感が胸を締め付ける。確実にヴィオラの知らない所で、何かが起こっている。それは確かだ。
ベッドから降り、足早に支度を済ませる。どうも胸騒ぎがして落ち着かない。なんとも言えない違和感がする。そう、何か重大な事を忘れているような。
ヴィオラは頭を振って、思考を中断させた。駄目だ。色々な事があり過ぎて、考えがまとまらない。重い身体を奮い立たせると、憂鬱な足取りで部屋を出た。
「義姉さん、おはよう。大丈夫?」
静かで落ち着いた声が、寮のエントランスに響いた。昨日は彼を置いて先に行ってしまったせいか、朝早くから待っていたのだろう。柱に寄りかかりながら本を読んでいたアージェンに、申し訳なく思う。
「おはよう、ジェー。大丈夫よ」
「…義姉さんは嘘つきだね。目の下に隈ができてるよ」
顔に息がかかるほど近くに寄ると、そっと目に触れる。端正な顔に見つめられると、義弟だと分かっていながら不覚にも心臓が跳ねた。
子供の頃とは違い、成長した身体は細身ではあるが、逞しくなった。いつの間にか越されてしまった長身で見下されると、居心地が悪くなる。でも相変わらず、ヴィオラの心に寄り添い気遣ってくれる。なんて優しい義弟なんだろうか。
「また悪夢をみたんだろ?」
「…ジェーに嘘はつけないわね。大丈夫よ。今日はお母様の夢だったから」
「………。」
微かに瞳の奥が揺れる。ヴィオラが傷ついていないか、気にしているのかもしれない。
「…義姉さん、無理はしないで」
力なく笑うと、アージェンの眉尻が下がる。心配そうなこの表情に私は弱い。義姉としての庇護欲が刺激されてしまうからだ。
目から頬に移動した手を振り払えず、目線を下に逸らす。義弟の心配も、昨日の今日では仕方がない。
突如として現れた、時蝕、そして時喰い。またこうして、一日が始まるのだと噛み締める。あのままでは確実に学園が崩壊していた。
生徒会役員に正体を見られはしたが、時守としての役目は果たせた。あとは、いずれ待ち受ける断罪を待つばかりだ。
「…でも、またアイツが接触してくる可能性があるから、なるべく気を付けて」
「ジェー、アイツなんて言葉遣いは一国の王子に対して不敬に当たるわよ?」
「…う、ごめん」
しゅんとしおらしくなる義弟に、キュンと胸が高鳴る。無防備な可愛い姿を見せてくれるから、ついつい意地悪な口調になってしまった。
「大丈夫よ。いきなり投獄されることはないはずよ。」
「…そういう意味じゃないんだけどな」
「え?」
「…何でもない」
そう言って顔を背ける。寮の入口を出ると、アージェンは苦虫を噛み潰したような表情になった。
「リュウール伯爵令嬢、おはよう」
朝から心臓に悪い、王子スマイルを浮かべる生徒会長、ルシアンがそこに居たからだ。まさか朝から接触してくるとは、思いもしなかった。
「…おはようございます。会長。それでは」
ヴィオラは深々と頭を下げると、そのまま踵を返した。帰ろう。そうだ、まだ間に合う。今日は仮病を使って寮に引きこもろう。
「どちらへ?」
爽やかな声が背後から飛んできた。
「忘れ物を思い出しました」
「おや、何を忘れたんですか?私が貸しますよ?」
「…大丈夫です。大した物ではありません」
「そうですか、それでは一緒に学園に参りましょう?」
「……」
逃げられない。ヴィオラは諦めて、無言で歩き始めた。すると、当然のように隣にルシアンが並ぶ。更にその反対側にはアージェンがピタリと並んだ。
(終わったわ……)
学園の人気者である第二王子と、美形の義弟に挟まれた存在感の薄い地味な令嬢という、とんでもない構図が完成した。




