11.侵蝕
どこまでも遠く広大な暗闇。
その深い水底にずぶずぶと沈んでいきながら。
僕は泡のように浮かぶ記憶のかけらをぼんやりと眺めていた。
幼い僕を抱く母とそれを見守る父の顔。
遠ざかるかつての家。
辿り着いた孤児院の庭。
そこに植わっている黄色い花を咲かせる木。
ベンチに座るルリハ。
彼女は笑っている。
いつだって明るく笑っている。
楽しいときはもちろん悲しい時も、苦しい時も。
彼女が泣いているのは見たことがない。
怒っているのは何度も見たけれど。
元気のない彼女というのを出会ってから今まで、僕は見たことがなかった。
でもきっとあるんだろう。
彼女にも泣きたいと思うときが。
彼女だってやっぱり一人の人間に過ぎないんだから。
「私の引き取り手が決まったわ」
彼女はいつものベンチで唐突に言った。
「……へえ」
日差しの柔らかい日だった。
風に揺れる足元の草に目をやりながら、僕はできるだけ自然に返事しようとした。
多分全然できてはいなかったけど。
ルリハの言葉は唐突だったけれど、彼女の養い親が決まりそうだというのはもう孤児院の中では噂になっていた。
だから僕はあらかじめ用意していた言葉を予定通りに言った。
「よかったじゃない。おめでとう」
彼女は何も答えなかった。
何も言わないまま沈黙だけが長引いて。
さすがに気まずくなったところで横目で見ると彼女と目が合った。
「本気で言ってる?」
その時の彼女は無表情だった。
怒っても悲しんでも、喜んでいる風でもいない。
ただからっぽの顔がそこにあって僕は戸惑った。
「そりゃ、まあ。その人たち、お金持ちなんだろ? もう生活に困ることもないじゃないか」
「そうね。そうかも」
また沈黙。
僕はなんだか調子が狂ったまま身じろぎした。
彼女がこんな風になることなんて今までなかったのだ。
「どうしたのさ。なんか変だよルリハ」
「うん」
「もしかして嫌なの?」
少し期待して訊ねると、彼女は大きく息を吐いてからつぶやいた。
「さあね」
不安だったのか寂しかったのか、それとも単に喜び方が分からなかっただけなのか困惑していたのか。
本当のところはきっと彼女自身にも分かっていなかったんだろう。
でも、少なくとも言えるのは、その時のルリハはとても心細そうに見えたってことだった。
僕はしばらく考えた。
しばらく考えて、それから意を決して立ち上がった。
「ルリハ。散歩しに行こう。向こうの川の方行こう」
「え?」
「ほら、立って。早く」
無理に手を取って立ち上がらせて。
僕らは一緒に歩き出した。
砂利道を踏んで木々のアーチをくぐって、川を越えてさらに向こうの向こうへ。
しまいには走り出す僕に引っ張られながらルリハは叫んだ。
「ちょっとジャクス、どこまで行くのっ?」
「ずっと遠くへ! 誰も追いつけないくらい!」
叫び返すと、彼女はえーって顔をした。
「この国出ちゃうの?」
「それもいいね!」
「シスター・レイナに叱られるわ!」
「それも悪くない!」
「馬鹿なの?」
「そうかも!」
「馬鹿!」
「気にならないな!」
笑いだしながら僕らは走り続けた。
きっと本当に誰も追いつけない。
嫌な気分も置き去りにできる。
そんなことを考えながら僕らはどこまでも走った。
結局ルリハの養い親の件はなんやかんやあってお流れになったけれど、そういえば僕はあの日に誓ったのだった。
ルリハはいつだって笑っている。
でも彼女が笑えなくなるそのときは、僕がこの手で守るんだって。
それがあの日の自分との指切りだった。
◆◇◆
「ぐぶっ!」
急速にやってきた吐き気に僕は悶えた。
地面に倒れ込んで胸を掻きむしる。
気持ち悪い。
まるでムカデに胃の中を這いずり回られた後のような感じだ。
ひたすらのたうち回って唾液を吐き散らした後、僕は荒い呼吸のまま目を開いた。
薄暗闇だ。
見覚えがある。
地下牢の中だった。
「魔王」
「何だ」
呼びかけにはすぐに反応があった。
僕はふらふらと顔を上げて、そこにいた魔王に訊ねた。
「一応訊くけど、勝ったんだよな?」
「当たり前だ」
「ならいい」
笑いを含んだ声に短く返して、僕はぐっと体に力を込めた。
床から引き剥がすようにして上体を起こす。
壁に背を預け足を投げ出す格好になって、大きく息をついた。
「愉快だったぞ。弱者どもを枯葉のように吹き飛ばしては散らして、散らしては転がして。貴様も気を失わなければ見ていられたのにもったいない」
楽しそうに言う魔王に訊く。
「……殺してはないよな?」
「いまいましいが人間は丈夫だ。あれぐらいでは死んでおるまいよ。いや、我輩の本来の力であれば造作もなく殺せた。だが貴様の体では出力が不十分だったからな。不本意なことだ……しかしどうした? 今さら手を汚してはないか気にでもなったか」
「いや」
力なく首を振る。
魔王に加担してしまった以上、そういったことになる可能性は覚悟していた。
それこそ今さらだ。
だけどルリハが嫌がるんじゃないか。
そのことだけは気になった。
「しかしいずれは人死にが出るぞ。貴様の体が我輩の霊体に馴染んでくればおのずとそうなる」
「……その時は僕は魔王になるのか」
「それは正確ではないな。貴様の存在が消えて、我輩だけになるのだ」
「そうか」
魔王が高笑いした。
「どうした、今になって恐ろしくなったか。愚かな人間め。一時の感情に任せたことを後悔してももう遅いぞ」
後悔していないというと確かに嘘になる。
「だけど一時の感情ってのは違うさ」
曖昧に焦点のぼやける虚空を見上げながら僕は言った。
「ルリハを奪われてこの選択肢を与えられた時点で、僕にはもう他の道はなかったんだ。後悔というなら僕はルリハにあの時思いをちゃんと伝えなかったことを後悔しているよ」
「は。くだらんことを」
魔王はまったく相手にもしなかったが。
僕は別にどうでもよかった。
ただ、言うべきことはしっかり言った。
「明け渡した以上約束は守れよ」
「笑止。弱者は黙って見ておればよい」
僕は目を閉じた。




