29話 増えた荷物
大鍋から上る湯気が顔にかかり思わず逃げた。
汗をぬぐいながら周囲を見回すと、医療区画で働く人達が慌ただしく動き回っている。
何の気なしに、部屋の至る所に置かれた氷の塊を見る。
暑さ対策として置かれた氷は、前に見た時から半分程の大きさになっていた。
また作り直さなければ。
そう。
この気温の中、氷は大事だ。
とても大事だ。
杏がそう理屈をこねて一番近くの氷へ手を伸ばすと——。
「ちょっと! 余計な事してないで鍋に集中して!」
医療班専属魔導士のテオに怒られた。
「で、でも、氷……」
「わかってる。そっちは僕がやるから、君は鍋の方続けて」
犬猫を追い払うようにテオにしっしと手を振られ、杏は元の作業に戻る。
「あの、そろそろ砦の除湿作業した方がいいかなー、と思うんですが……」
「ダメ」
「あ、作るだけ作って、ロット検査まだでしたよね。私が……」
「ダメ」
「じゃあ——」
「ダメ。全部ダメ。在庫戻るまで君はそれ」
「お、鬼……!」
「え、何? 『オニ』? 悪口?」
「違いますもう嫌という意味です」
杏は、再びヘラ伝いに魔力を注ぎながら、鍋の中の万能回復薬をかき混ぜ始める。
今かき混ぜている物が出来上がれば、反対側に他の者が用意した鍋に魔力を注ぎ、それが終わればまたこちら側に戻ってくる。
朝から晩まで、ぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるとぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐる——……。
ここ数日間ずっと同じ事の繰り返しで気が狂いそうだ。
「ったく、ヘンリク様やユゼフ様は何やってるんだよ」
テオがぶつぶつ言いながら次々と氷を作っていく。
ルートヴィヒが砦を去る際、万能回復薬の在庫の一部を渡した。
ある程度在庫が確保できてから渡すと交渉をしたらしいが、結局渡す量を減らす事しかできなかった。
そう説明をしたカミルは、医療区画の人間全員に頭を下げた。
更にタイミング悪く前線からの要求量も増え、在庫がほぼ空になってしまったのだ。
材料である不死草の在庫は、「手土産」としてルートヴィヒが持ってきた分含めまだまだある。
なので、こうして医療区画の人間総動員で急ぎ調薬をしているのだ。
休憩も休日も今まで通りだが、調薬作業に集中している為どうしても通常業務が疎かになってしまっている。
例えば、訓練などで負傷した兵士の受け入れはマルコ一人で行っており、治療後の兵士から「なんかあの人いつもより怖いんだけど!」と苦情が来たりした。
「しかも事後報告! 事前に一言こっちに相談してほしいよ!」
「で、でも、上の人達にも事情が……」
杏は思わず口を挟む。
医療区画には、鉱山に万能回復薬を回す事になった理由は「政治的な理由」とだけ説明された。
事情を知る——というより、自らが原因となった負い目から杏は黙っていられなかったのだ。
「事情? そりゃあるだろうさ。でもじゃあ、現場の事情は? ないの?」
「…………いえ、あります」
「でしょ?」
「……すみません」
「は? 何謝ってんの? そんな暇あるならさっさと手を動かす」
「はい」
それからただ無心で鍋をかき混ぜていると、調薬室へマルコが入ってきた。
「はいはい、みんな、手を止めずに聞いて」
彼はパンパンと手を叩いて注目を集める。
「在庫が戻って落ち着いたら、引っ越し始めるってさ」
——————
引き出しを開け、杏は自分の荷物を取り出していく。
衣服や王宮から持ってきた装飾品、ナッツや干し果物といった嗜好品。
さらにその横には、黒板と、持っていっていいと許可をもらった書庫の本。
それら全てを旅行鞄へ詰めていく。
先日、拠点を移すという通達があった。
国軍の派遣が決まった事と、さらに戦線が東へ移った事が主な理由だ。
この砦は国軍に明け渡し、前線と密に連絡を取りやすい砦へと拠点を移すらしい。
正式な移動はまだ先だが、先行隊の一人として杏も行く事になった。
カミル曰く「ルートヴィヒの息のかかった人間や王宮の人間を、君と接触させたくない」とのことだ。
「あれ? 入らないな……」
鞄は一杯になったのに、まだ荷物が残っている。
衣服は必需品だし、高価な装飾品をここに置いておくのは躊躇われる。
黒板や本は勉強に必要だし、置いていけそうなのは嗜好品くらいだ。
「…………ハンナの鞄に入るかな」
消去法でいくと嗜好品を置いていくべきなのだろうが、今度の砦は街から離れたところにあるらしい。
こういった物を買い揃えるのは少し難しくなるだろう。
それは惜しい。あまりにも惜しい。
まずもう一度荷物を詰め直してスペースが開かないか試してみる。
それでダメなら、お世話になった人に少し配り、残りはハンナに相談しようと結論づけた。
そこで気づく。
前回、この鞄に物を詰めた時はあんなにスカスカだったのに、今はずいぶんと荷物が多くなってしまった。
「困ったなぁ……」
上擦った声が出て、自分でも驚きながらも、杏は荷物を詰め直し始めた。




