第4章・第18話 閉ざされた王城
夕暮れの空を、三人と一匹は進んでいた。
シルフィード。
ハルト。
アル。
そして、アルの肩にいるクウ。
王城は、オルニス鳥王国の中心にあった。
空に浮かぶ白い城。
本来なら、風に守られ、夕陽を受けて淡く輝くはずの場所。
けれど今、その姿は重く沈んで見えた。
城の周囲を漂う雲は、どこか濁っている。
空そのものが、息を潜めているようだった。
シルフィードは王城を見つめる。
「……あそこに、王がいる。」
その声は小さかった。
けれど、迷いだけではなかった。
ハルトが隣に並ぶ。
「会議で確認した通り、正面門は避けます。」
「西側から入りましょう。」
シルフィードは頷いた。
「うん。」
「王城警備と正面からぶつかるわけにはいかない。」
アルも王城を見上げた。
近衛隊長の最後の言葉が、胸の奥に残っている。
――王を、どうか救ってくれ。
救いたい。
けれど、止めなければならない。
シルフィードが背負っているものの重さを、アルは少しだけ感じていた。
『くぅ……』
クウが小さく鳴いた。
いつもの元気な声ではない。
王城の方角を、じっと見つめている。
アルはクウの頭にそっと触れた。
「大丈夫。」
そう言いながら、自分に言い聞かせているようでもあった。
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王城西側。
ハルトが示した搬入口の周辺には、人影が少なかった。
正面に比べれば警備も薄い。
だが、異様な静けさがあった。
本来なら、王城の外周には巡回兵の気配がある。
使用人や職員が出入りする音もある。
けれど今は、それがほとんどない。
静かすぎた。
「おかしいですね。」
ハルトが低く言う。
「警備が薄いというより、動きそのものが止まっている。」
シルフィードは表情を引き締めた。
「王命で?」
「可能性はあります。」
ハルトは周囲を確認しながら進む。
「ですが、全員が敵とは限りません。」
「気づかれずに進めるなら、その方がいい。」
アルは頷いた。
「分かりました。」
三人は搬入口から王城内部へ入った。
石造りの通路は薄暗い。
壁に並ぶ灯りは、半分ほどしか点いていなかった。
奥からは、かすかに風の音が聞こえる。
いや、風の音というより。
何かが、細く軋むような音だった。
シルフィードは足を止める。
「……風が、苦しそう。」
ハルトも黙って頷いた。
アルは通路の奥を見る。
そこから、黒い靄の気配が漂っていた。
強くはない。
けれど確かにある。
天空観測統制域で見たものと同じ気配。
王城の奥へ向かうほど、その気配は濃くなっていく。
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王城内は、異様なほど静かだった。
途中、数人の兵士と遭遇した。
だが、彼らは三人を見るなり、剣を抜こうとして止まった。
目に迷いがある。
王命に従うべきか。
巫女を止めるべきか。
自分たちが何を守っているのか。
分からなくなっている目だった。
シルフィードは一歩前へ出た。
「私は、王と話すために来ました。」
「王城を攻めに来たわけではありません。」
兵士たちは動けなかった。
そのうち一人が、震える声で言う。
「しかし……王命では、何人も近づけるなと……。」
「その王命が、国を傷つけています。」
シルフィードは静かに答えた。
「だから、私は王と向き合います。」
「あなたたちを傷つけるつもりはありません。」
兵士たちは互いに顔を見合わせる。
そして、ゆっくりと道を開けた。
完全に納得したわけではないだろう。
恐れも迷いも残っている。
それでも、彼らは巫女へ剣を向けなかった。
ハルトが小さく息を吐く。
「進みましょう。」
シルフィードは頷く。
「うん。」
アルも兵士たちへ軽く頭を下げ、通路を進んだ。
背後で、兵士の一人が小さく呟いた。
「巫女様……どうか……。」
その声は、最後まで続かなかった。
けれど、願いだけは伝わった。
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王の間へ近づくにつれ、空気は重くなっていった。
壁に掛けられた旗が、力なく垂れている。
風の国の王城だというのに、風が死んでいるようだった。
シルフィードは胸元で手を握る。
怖くないわけではない。
迷っていないわけでもない。
それでも、足は止めなかった。
ハルトが隣にいた。
アルとクウも後ろにいる。
一人ではない。
だからこそ、逃げない。
やがて、巨大な扉の前に辿り着いた。
王の間。
その扉は半ば開いていた。
中から黒い靄が漏れ出している。
アルは剣に手を添えた。
ハルトも双剣の柄へ手をかける。
シルフィードは二人を制した。
「まずは、私が話す。」
ハルトは短く頷いた。
「はい。」
アルも頷く。
「分かりました。」
『くぅ……』
クウが小さく鳴いた。
シルフィードは深く息を吸う。
そして、扉を押し開けた。
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王の間は、薄暗かった。
高い天井。
並ぶ柱。
風の紋章が刻まれた玉座。
その中央に、王が座っていた。
オルニス鳥王国の王。
本来なら、この国の空を守る者。
だが今、その姿は黒い靄に包まれていた。
肩から背へ、濁った風のようなものがまとわりついている。
顔は見える。
けれど、その目は王のものではなかった。
冷たく。
暗く。
何か別の意志が、そこから覗いていた。
「来たか。」
王の声が響いた。
だが、声は一つではなかった。
王の声の奥に、別の声が重なっている。
低く、濁った声。
シルフィードは玉座の前へ進んだ。
「王。」
声が震えそうになる。
それでも、シルフィードは前を向いた。
「私は、あなたに会いに来ました。」
「王命に従うためではありません。」
「この国の巫女として、あなたと向き合うために来ました。」
王はゆっくりと笑った。
「向き合う?」
黒い靄が揺れる。
「巫女が、王に逆らうというのか。」
「逆らうのではありません。」
シルフィードは答える。
「止めに来ました。」
「あなたの命令で、天空観測統制域が襲われました。」
「通信も、観測も、空路も傷つきました。」
「このままでは、国が壊れます。」
王の目が細くなる。
「国を守るためだ。」
その声に、黒い響きが混じる。
「空を乱すものを排除する。」
「不要な風を削る。」
「全てを一つの意志で動かせば、迷いは消える。」
シルフィードは拳を握った。
始祖の言葉が蘇る。
一つの意志で全ての風を動かそうとした時、風の国は風の国ではなくなる。
「それは、守ることではありません。」
シルフィードは言った。
「空を閉ざすことです。」
王の表情が歪む。
「巫女が王を否定するか。」
「否定したいわけではありません。」
シルフィードの声は揺れていた。
だが、逃げてはいなかった。
「私は、王を救いたい。」
「けれど、国を傷つける命令には従えません。」
「あなたがこの国の空を閉ざすなら、私は止めます。」
黒い靄がざわめいた。
王の奥にいる何かが、シルフィードを見ている。
「救う?」
「止める?」
「両方を選ぶつもりか。」
「はい。」
シルフィードは頷いた。
「どちらか一つを選んで、もう一つを捨てることはしません。」
「王を止めることからも、王を救いたいと願うことからも、逃げません。」
王の間に、重い沈黙が落ちた。
その沈黙を破ったのは、ハルトだった。
「王。」
ハルトはシルフィードの隣へ進む。
「私は側近として、シルフィード様に同行しています。」
王の目がハルトへ向く。
「側近が、巫女に王への反逆を許すのか。」
「反逆ではありません。」
ハルトは静かに答える。
「王命に従うだけが、側近の役目ではないと知りました。」
「巫女が迷った時、隣で同じものを見る。」
「必要なら、共に止める。」
「それが、今の私の答えです。」
シルフィードがわずかにハルトを見る。
ハルトは前を向いたままだった。
「私は、シルフィード様を一人にしません。」
「王を止めるなら、私も止めます。」
「王を救いたいと願うなら、私もその願いを捨てません。」
黒い靄が、さらに濃くなる。
王の口元が歪んだ。
「信頼か。」
その言葉は、王の声ではなかった。
もっと低く。
もっと冷たい。
黒い何かが、王の喉を使って笑っていた。
「美しい言葉だ。」
「風巫女。」
「側近。」
「無色の旅人。」
「今のお前たちは、そう名乗るのか。」
アルは息を呑んだ。
空気が変わった。
王が話しているのではない。
王を侵している何かが、前へ出てきている。
シルフィードもそれに気づいた。
「あなたは……王ではない。」
黒い靄が王の背後で大きく広がる。
まるで、翼のように。
だが、それは風の翼ではない。
濁り、腐り、閉ざされた空の影だった。
「王だ。」
それは笑った。
「この国が求めた王だ。」
「迷いを消し、風を揃え、全てを一つにする王だ。」
ハルトが双剣へ手をかける。
アルも剣を抜きかけた。
だが、シルフィードはまだ動かなかった。
「違う。」
シルフィードは言った。
「この国は、そんな王を求めていない。」
「王が恐れに侵されているなら、止める。」
「あなたが王を利用しているなら、なおさら。」
黒い靄が揺れた。
笑っている。
「強い言葉だ。」
「だが、人はそれほど変われるものか。」
シルフィードの眉が動く。
ハルトの目が鋭くなる。
アルは嫌な予感を覚えた。
黒い靄は、ゆっくりと三人を見渡した。
「レオンの記憶に残るお前たちは、違った。」
その名が出た瞬間、空気が凍った。
レオン。
ここで出るはずのない名だった。
アルの指先が冷える。
ハルトの目がわずかに開く。
シルフィードの表情も揺れた。
黒い靄は、三人の反応を楽しむように続ける。
「シルフィード。」
名を呼ばれ、シルフィードの肩がわずかに揺れた。
「お前は、まだ巫女ではなかった。」
「風巫女として王の前に立つ者ではなく、巫女候補の一人だった。」
「迷い、揺れ、風の意味を知らずにいた少女。」
シルフィードは唇を結んだ。
その言葉は、レオンの記憶の中にある過去だった。
今の彼女ではない。
けれど、偽王はその過去だけを掴んでいた。
黒い靄は次に、ハルトへ視線を移す。
「ハルト。」
「お前も、側近ではなかった。」
「巫女の隣に立つ意味も知らぬまま、ただ剣を振るっていた少年。」
「レオンに挑み、敗れ、なお追い続けた。」
ハルトの手が、双剣の柄を強く握る。
「……なぜ、それを。」
低い声だった。
偽王は答えない。
答える必要などないとでも言うように、笑うだけだった。
そして、最後にアルを見る。
「アル・リンベル。」
黒い声が、ゆっくりとその名をなぞる。
「レオンの記憶にあるお前は、まだ小さな弟だった。」
「守られる側の子ども。」
「兄の背を見上げるだけの存在。」
アルの喉が詰まった。
小さな弟。
兄の記憶の中にいた、自分。
それは間違いではない。
けれど、それだけではない。
そう言いたかった。
だが、まだ声が出なかった。
黒い靄は、三人の沈黙を見て笑った。
「巫女候補。」
「未熟な世話役。」
「小さな弟。」
「それが、レオンの記憶に残るお前たちだ。」
「それが今は、風巫女だと。」
「側近だと。」
「無色の旅人だと。」
「互いに支え合い、王を救うと語るのか。」
シルフィードは拳を握った。
ハルトの目が鋭くなる。
アルは、胸の奥が強く痛むのを感じた。
偽王の言葉は、今の三人を見ていない。
レオンの記憶に残る過去の断片だけを使い、今の三人をそこへ押し戻そうとしている。
けれど、そのことに気づくより早く、黒い靄は次の言葉を落とした。
「ならば、知っているか。」
「そのレオンが、もうお前たちの知る場所にはいないことを。」
ハルトの息が止まった。
「……何?」
シルフィードも目を見開く。
「レオンさんが……?」
アルは動けなかった。
その反応を見て、黒い靄が愉快そうに揺れる。
「知らなかったか。」
「越えたい背中を追っていた者は、知らず。」
「かつて言葉を交わした巫女候補も、知らず。」
「小さな弟だけが、その痛みを抱えていた。」
ハルトがアルを見る。
「アル……?」
その声に、責める色はなかった。
ただ、驚きと戸惑いがあった。
シルフィードもアルを見る。
彼女の瞳にも、不信ではなく痛みが浮かんでいた。
「アルさん……。」
アルは唇を噛んだ。
言えなかったこと。
言葉にできなかったこと。
その痛みが、ここで無理やり引きずり出される。
偽王は、アルの反応を見逃さなかった。
「知っている顔だ。」
黒い声が、低く笑う。
「やはり、お前は知っていた。」
「レオンが姿を消したことを。」
「そして、その影に何があるのかを。」
アルの胸が締めつけられる。
偽王は全てを知っているわけではない。
だが、知っている断片と、今この場の反応だけで、傷に指をかけてくる。
「言えなかったのか。」
「それとも、言わなかったのか。」
「レオンを知る者たちが隣にいながら。」
「お前は、その痛みを一人で抱えた。」
黒い靄が、三人の間に広がる。
「優しさか。」
「恐れか。」
「それとも、傷つける言葉から逃げたのか。」
アルは何も言えなかった。
違う。
そう言いたかった。
けれど、すぐには言葉が出なかった。
ハルトが兄を知っていると分かった時。
言うべきだったのかもしれない。
レオンは失踪している。
僕も探している。
そう言うべきだったのかもしれない。
でも、言えなかった。
その沈黙を、偽王は悪意の形に変えていく。
「知らなかった者。」
「言えなかった者。」
「聞かされなかった者。」
「それでも、お前たちは信頼を語るのか。」
黒い靄が、王の間を満たしていく。
「レオンの記憶に残る過去を捨て。」
「今の自分たちだと胸を張るなら。」
「なぜ、その痛みに向き合えぬ。」
アルは拳を握った。
胸の奥が痛い。
偽王の言葉は、真実そのものではない。
だが、全てが嘘でもない。
言えなかった。
それは事実だった。
ハルトがレオンを知る人だと分かっていた。
それも事実だった。
シルフィードも兄と接点があったのだと、今知った。
知らなかったこと。
言えなかったこと。
飲み込んだこと。
それらが、黒い靄によって悪意の形に歪められていく。
黒い声が、ゆっくりと問いを突きつけた。
「アル・リンベル。」
「小さな弟だったお前は、兄の失踪を旅の始まりにした。」
「ならば問おう。」
「その旅で出会った者たちにさえ、言えなかった痛みを抱えたまま。」
「お前は、何を信じてここに立っている。」
王の間に、沈黙が落ちた。
シルフィードも、ハルトも、アルを見ている。
けれど、その目にあるのは責める色ではなかった。
驚き。
痛み。
戸惑い。
そして、答えを待つ静けさだった。
それでも、アルはすぐに顔を上げることができなかった。
答えなければならない。
けれど、今はまだ、言葉が見つからない。
黒い靄は笑っていた。
レオンの記憶に残る過去の三人を使い、今ここに立つ三人を裂こうとしている。
偽王の声だけが、王の間に響いた。
「答えろ、アル・リンベル。」
「お前は、その沈黙を抱えたまま。」
「何を信じて、ここに立っている。」




