第5章・第2話 盾のギルド長
アルは、ベスティア冒険者ギルドの扉を開けた。
最初に耳に入ったのは、低いざわめきだった。
冒険者たちの声。
受付で交わされる報告。
依頼札を剥がす音。
大きな盾を床に置く鈍い音。
他の国のギルドにも活気はあった。
けれど、ベスティアのギルドには、どこか違う落ち着きがある。
いつでも外へ出られるように。
いつでも誰かの前に立てるように。
そんな待機の空気が、建物全体に満ちていた。
アルは中を見渡した。
壁際には、獣族ヴィータの動きを記録した警戒図が貼られていた。
依頼板には、ウルフ、ボア、ベアといったヴィータの目撃情報が並んでいる。
冒険者たちの装備には、盾が多かった。
大盾。
小盾。
腕に固定する円盾。
背中に背負った防壁用の重盾。
もちろん剣や槍を持つ者もいる。
けれど、このギルドで目立つのは、敵を斬るための刃よりも、何かを受け止めるための盾だった。
『くぅ……。』
クウがアルの肩で小さく鳴く。
「うん。」
アルは小声で返した。
「やっぱり、守るためのギルドなんだね。」
依頼板の前では、冒険者たちがいくつかの札を見比べていた。
「西門の防壁点検、今日中に終わるか?」
「大盾中枢から確認依頼が来てる。地盤固定柱の反応が少し強いらしい。」
「ウルフが西側の見張り道に近づいたって?」
「まだ通常範囲だろ。念のため見張りを増やすだけだ。」
「避難路の案内板、南区の表示が古いままだ。誰か交換に行けるか?」
それぞれの声は、切迫しているわけではない。
けれど、どの話題にも守りの国らしい言葉が混じっていた。
防壁。
地盤固定。
避難路。
見張り道。
冒険者ギルドでありながら、王都の防衛機能の一部でもある。
そんな印象を受けた。
アルは受付へ向かった。
受付に立っていた女性が顔を上げる。
柔らかな雰囲気をまとっているが、動きに無駄がない。
目はよく周囲を見ていて、冒険者の出入りや依頼板の前の人の流れまで把握しているようだった。
「ようこそ、ベスティア冒険者ギルドへ。」
女性は落ち着いた声で言った。
「どのようなご用件でしょうか。」
アルはギルドカードを差し出した。
「滞在確認をお願いします。」
「承知しました。」
女性はカードを受け取り、内容を確認する。
「アルさんですね。」
それから、アルの肩にいるクウへ視線を向けた。
「こちらは、同行生物のクウさんでよろしいですか?」
『くぅ!』
クウが元気よく鳴く。
女性は少し目を丸くしたあと、にこりと笑った。
「私は受付のティアです。」
「アルさん、クウさん。確認しますね。」
「さん……?」
アルが思わず聞き返す。
ティアは真面目な顔で頷いた。
「仲間なら、さん付けです。」
『くぅ!』
クウは嬉しそうに跳ねた。
アルは少し笑う。
「ありがとうございます。」
ティアはギルドカードを確認し、軽く頷いた。
「確認しました。」
「これで、ベスティア王都内での滞在確認は完了です。」
「ありがとうございます。」
ティアは受付下から小さな地図を取り出した。
「現在、一部の防衛区画では点検や訓練のため、通行に制限があります。」
「赤く印のある場所へ向かう場合は、事前にギルドか警備詰所で確認してください。」
「分かりました。」
アルは地図を受け取る。
その地図には、ここへ来る途中で見かけた外区へ続く門のあたりにも赤い印がついていた。
やはり、あの場所は点検中の区画らしい。
アルは続けて、荷物から封書を取り出した。
「それと、ギルド長宛の封書を預かっています。」
ティアの表情が少し引き締まった。
「ギルド長宛、ですね。」
アルは封書を差し出した。
ティアは封を開けず、表の印だけを確認する。
その瞬間、彼女は小さく頷いた。
「確認しました。」
それ以上、差出人の名は口にしなかった。
「少々お待ちください。」
「この封書は、私からギルド長へ直接お渡しします。」
「お願いします。」
ティアは封書を両手で持ち、奥へ向かった。
アルは受付前で待つ。
ギルドの中では、冒険者たちが普段通りに依頼を確認し、報告を交わしている。
クウが肩の上で小さく揺れる。
『くぅ。』
「大丈夫。」
アルは小声で言った。
「ちゃんと待とう。」
しばらくして、ティアが戻ってきた。
「お待たせしました。」
声は先ほどと同じように落ち着いていた。
「ギルド長がお会いになります。」
「こちらへどうぞ。」
アルは頷き、クウを肩に乗せたままティアの後に続いた。
受付の奥へ進むと、表のざわめきが遠くなる。
廊下の壁には、王都の防衛線を示す地図や、見張り道の報告書が貼られていた。
防壁。
避難路。
地盤安定柱。
大盾中枢。
それぞれの位置が細かく記されている。
このギルドが、単なる依頼の仲介所ではないことがよく分かった。
ティアは一番奥の扉の前で足を止める。
軽くノックした。
「ギルド長、アルさんをお連れしました。」
「入れ。」
低く、よく通る声が返る。
ティアが扉を開ける。
部屋の中には、大柄な男がいた。
机の向こうに座っているだけなのに、まるで前線に置かれた大盾のような存在感がある。
背が高いだけではない。
肩幅が広く、胸板が厚く、腕も太い。
だが、力を見せつけるような粗さはなかった。
そこにあるのは、危険の前に立つことに慣れた者の重さだった。
ティアが一礼する。
「こちらがアルさんと、同行生物のクウさんです。」
『くぅ!』
クウが鳴いた。
男はクウを一瞥する。
「威勢のいいスライムだな。」
『くぅ。』
クウはなぜか誇らしげに揺れた。
ティアが続ける。
「こちらが、ベスティア冒険者ギルド長のベルディールです。」
ベルディール。
ベスティア獣王国の冒険者たちを束ねるギルド長。
ベルディールは、机の上に封書を置いた。
「封書は確認した。」
「無色巫女セリーナから、ギルド長宛の正式なものだ。」
アルは頷いた。
「はい。」
「巫女様へ会う手続きはこちらで進める。」
「少し時間をもらうことになるが、そこは任せておけ。」
「ありがとうございます。」
アルは頭を下げた。
ベルディールは短く頷き、机の上に広げていた地図へ視線を落とした。
「その間に、一つ頼みたいことがある。」
「頼みたいこと、ですか?」
「ああ。」
地図には、王都ベスティアと、その周囲に伸びる見張り道が描かれていた。
防壁。
避難路。
地盤安定柱。
大盾中枢。
いくつかの場所に、小さな印が付けられている。
大事件というほどではない。
けれど、見過ごすには少し気になる。
そんな印だった。
「ここ最近、王都の周辺でヴィータの異常報告が少し増えている。」
「ヴィータの異常……。」
「ほとんどは通常の警戒行動の範囲だ。」
ベルディールは落ち着いた声で言う。
「ベスティアの周辺にいる獣族ヴィータは、もともと警戒心が強い。」
「ウルフも、ボアも、ベアも、危険を察知すればこちらを威嚇する。」
「それ自体は珍しくない。」
ティアが机の横に資料を置く。
「ですが、いくつか気になる報告があります。」
「色が薄く見えた。」
「形が歪んでいた。」
「近づく者への反応が、通常より過剰だった。」
アルは資料に目を落とす。
その特徴には覚えがあった。
色が薄くなる。
形が歪む。
理性が落ち、暴走に近づく。
「コラプトの可能性があるんですね。」
アルが言うと、ベルディールは頷いた。
「まだ断定はできん。」
「だが、確認は必要だ。」
ベルディールは次に、大盾中枢の印を指した。
「もう一つ。」
「大盾中枢にも、軽い誤反応が出ている。」
「防壁の自動展開が一拍早い。」
「地盤固定の反応が、想定より強い。」
「それだけなら調整で済む話だ。」
ティアが続ける。
「ただ、ヴィータの異常報告と時期が重なっています。」
「念のため、情報を集めています。」
アルは地図を見る。
大盾中枢。
王都全域の防壁、避難区画、地盤安定、警戒網を管理する施設。
ここへ来る途中、案内板で見た巨大な盾の印を思い出す。
「大盾中枢は、危険に応じて守る場所を選ぶ施設なんですよね。」
「ああ。」
ベルディールは頷いた。
「すべてを同時に守ることはできん。」
「だから、状況を見て、どこに壁を立てるかを選ぶ。」
「どの避難路を開け、どの防衛線を厚くするか。」
「その判断を支えるのが大盾中枢だ。」
アルは、ここへ来る途中で見た外区の門を思い出した。
閉ざされた門。
別の道を案内する兵士。
午後からなら通れると聞いて、荷車の向きを変えた商人。
乱暴な対応ではなかった。
街は、ちゃんと人を守ろうとしていた。
それでも、閉じた門の前で感じた小さな違和感は残っている。
「……最近、防壁の内側に留める動きが少し強いんですか?」
アルが尋ねると、ベルディールの目がわずかに細くなった。
「見たか。」
「はい。」
「外区へ行こうとした商人が、別の道を案内されていました。」
「対応は丁寧でした。」
「でも、門は閉じていました。」
ベルディールは短く息を吐いた。
「必要な制限もある。」
「だが、必要以上に閉じれば、守りは別のものになる。」
「守るための壁と、閉じ込めるための壁は違う。」
その言葉に、アルは頷いた。
この国は、危険の前に立つ国だ。
守るために壁を作り、避難路を整え、盾を構える。
そのあり方は、強い。
けれど、守るという言葉が強いからこそ、少しの歪みが見えにくくなるのかもしれない。
ベルディールは地図の西側を指した。
「今朝、王都の西側にある見張り道で、ウルフの異常行動が報告された。」
「防衛隊が距離を取って確認している。」
「危険度は高くない。」
「だが、通常のウルフとは少し違うという。」
「色が薄く、形が歪んで見えたらしい。」
アルの肩で、クウが小さく鳴く。
『くぅ……。』
ベルディールはアルを見る。
「アル。」
「はい。」
「協力してくれ。」
その言い方は、命令ではなかった。
だが、軽い頼みでもなかった。
ギルド長として、必要なことを必要な相手へ依頼している声だった。
「お前の技量を見る意味もある。」
「そのウルフを確認し、必要なら討伐してきてほしい。」
アルは頷いた。
「分かりました。」
ベルディールは続ける。
「ただし、ここはベスティアだ。」
「倒すことだけを考えるな。」
「見張り道には防衛隊がいる。」
「近くには避難用の小道もある。」
「民や兵を巻き込まないように、場所を選んで対応しろ。」
その言葉は、ベスティアらしかった。
敵を倒せ。
それだけではない。
どこで受け止めるか。
どこへ誘導するか。
誰を後ろへ下げるか。
守る国で戦うなら、その判断が問われる。
「周囲を巻き込まないようにして、確認します。」
アルは答えた。
「必要なら、討伐します。」
ベルディールは短く頷いた。
「頼む。」
ティアが通行許可証と小さな地図を差し出す。
「こちらをお持ちください。」
「西側の見張り道までは、中央通りを西へ進み、防壁沿いの警備詰所で確認を受けてください。」
「防衛隊には連絡を入れておきます。」
「ありがとうございます。」
アルは地図と許可証を受け取った。
ティアは少しだけ心配そうに言う。
「ベスティア周辺のヴィータは、もともと警戒心が強いです。」
「でも、今回報告されたウルフは、警戒というより……何かに追い立てられているようだったと聞いています。」
「追い立てられている……。」
「気をつけてください。」
アルは静かに頷いた。
「分かりました。」
クウが肩の上でぷるんと跳ねる。
『くぅ!』
ベルディールはそんな二人を見て、低く言った。
「守る国の異変を、見てこい。」
アルは一礼した。
「行こう、クウ。」
『くぅ!』
アルはギルド長室を出た。
受付前を通ると、ギルドの中は変わらず動いていた。
依頼を受ける者。
報告書を書く者。
盾を担ぎ、外へ向かう者。
それぞれが、それぞれの役割を持っている。
誰もが大きく騒いでいるわけではない。
王都も、ギルドも、まだ日常の中にある。
けれど、その日常の端に、小さな違和感が積もり始めている。
アルはギルドの扉を開けた。
外には、重い土の道が続いている。
道行く人々は、普段通りに歩いていた。
店は開き、荷車は進み、兵士は持ち場に立っている。
すぐに崩れるような危機ではない。
けれど、確かに何かが始まっている。
アルは通行許可証を握りしめた。
「西側の見張り道へ。」
『くぅ!』
クウが応える。
守るための壁。
危険の前に立つ国。
その見張り道で、今。
守る本能を歪められた獣が、静かに牙を剥こうとしていた。




