第95話 はじめての仕事
朝の空気は、少しだけ冷たかった。
昨日は寝れなかった。
「……ここで働く...。」
リナは、小さく呟いた。
昨日来た店の前。
まだ開いたばかりで、人の気配もまばらだ。
逃げようと思えば、逃げられる。
そう思って、一歩だけ後ろに下がる。
だって、ここの通りはよく知っている。
自分が何度もスリをしていたところだ。
朝の人通りが少なくても、そばを通る人が、自分の顔を見ているような気がした。
顔がバレちゃあ、もう元の仕事には戻りにくい。
ここを追い出されることだってありうる。
そうしたら、
どうなる?
途端に怖くなる。
元の仕事がいいか。
これからの仕事がいいか。
でも――
(……約束した)
あの人たちと。
ぎゅっと、拳を握る。
ドアを押した。
「おう。来たな」
店長は、もう仕事を始めていた。
「おはようございます」
少しだけ声が小さい。
「声が小せえなあ。まあいい。最初はそんなもんだ」
笑いながら、布を放ってよこす。
「とりあえず掃除だ。床と棚。あと、客が来たらでけえ声で挨拶な」
「……はい」
布を握る。
仕事。
ちゃんとした、仕事。
「あら。おはよう。この子ね。今日から働くのは。よろしくね」
奥から出てきたのは、やわらかい雰囲気の女性だった。
店長の奥さんだろうか。
「は、はい……」
思わず声がひっくり返る。
くすっと、小さく笑われた。
「大丈夫よ。最初はみんなそうだから」
その一言に、少しだけ肩の力が抜けた。
「ほら、まずはこれ使って。手、荒れるから気をつけてね」
渡された布は、思っていたよりやわらかかった。
――優しい。
こんなふうに、最初から優しくされたことなんて、あっただろうか。
少しだけ、戸惑う。
仕事はぎこちなかった。
棚を拭く手も、どこか遠慮がちになる。
自分でも分かる。
触れていいのか、迷う。
でも――
「そこ、もっとしっかりやれ。商品だぞ。お客様が手に取るんだぞ」
店長の声。
そっか。
棚のものを見て、品定めをして、買っていくんだ。
(盗むのとは違う)
品物を見るのに今までは、金目かどうか、しか考えていなかった。
売れば金になるのか。
盗んでも逃げ切れる相手か。
それが基準だった。
そう。
今度はものの見方も変わるんだ。
見た目が良くないと、お客は買ってくれない。
拭く。
もう一度、しっかり。
今度は、丁寧に。
「いらっしゃい!」
最初の客が来た。
思ったより、大きな声が出た。
自分でびっくりする。
「おう、元気いいな。新人か?」
「……はい」
少しだけ、顔が熱い。
普通に話しかけられた。
次のお客にも、いらっしゃいと大きな声が出せた。
だけどその人は一瞬驚いてから、ジロジロと私を見る。
なにかおかしかったのか?
私の格好が汚いからか?
髪が変なのか?
いや。
声が変だったのか?
でも棚のの拭き掃除に取り掛かった時に、店長に話している声が聞こえた。
「おい、店長。あの子……。」
心臓が激しく音をたてる。
私のことだ。
スリをしてたことがバレたんだ!
手が震える。
布を握る。
走りたい。
ここから出て、道路に出て。
とにかく逃げたい。
「新しい子だね。元気がいいじゃないか」
店長がこっちを見て笑う。
「今日からさ。よろしく頼むぜ」
足の力が抜けた。
なんだあ。
良かった。
「ありがとうございます!頑張ります!」
思わず、お礼を言っていた。
店長とお客がまた笑っていた。
昼過ぎ。
一息ついたところで、店長がパンを投げてよこした。
「ほら。食え」
「……いいの?」
「働いた分だ」
受け取る。
あたたかい。
やわらかい。
一口かじる。
――おいしい。
思わず、目を閉じた。
(働いた分。)
(盗んだじゃない)
ここに来て良かった。
単純だな。
パンひとつでそう思った。
喉の奥が、少しだけ熱くなる。
「妹、いるんだろ」
店長が、何気なく言った。
「……うん」
「持って帰るか?」
一瞬、言葉が出なかった。
「……いいの?」
「給料前借りってやつだ。ま、パンくらいならな」
袋に、いくつか詰めてくれる。
「ありがとうございます」
今度は、ちゃんと頭を下げた。
「午後も頼むよ」
奥さんが笑いながらこっちを見た。
帰り道。
パンの入った袋を、ぎゅっと抱える。
重くない。
でも――
すごく、大事な重さ。
働いた分の重さ。
ふと、足が止まる。
視線の先。
遠くに見える、村の方角。
(……あいつら、今なにしてるかな)
山で笑ってた顔。
「まだ採ろうぜ」って言った声。
あの、何でもないみたいな優しさ。
胸の奥が、少しだけあたたかくなる。
「働いているよ」
あいつらに教えたくなった。
どんな顔するだろう。
ビックリするかな。
「……ばかみたい」
小さく呟く。
でも、足は軽くなっていた。
「ただいま」
扉を開ける。
「お姉ちゃん!」
妹が、嬉しそうに顔を上げた。
「これ、見て」
パンを見せる。
「すごい……!」
目が輝く。
「今日、働いたの」
「えっ……?」
驚いた顔。
それから、ゆっくりと――
笑った。
「お姉ちゃん、すごいね」
その言葉に、
胸の奥が、ぎゅっと締まる。
夜。
妹が眠ったあと。
一人、外に出る。
空を見上げる。
星が、きれいだった。
村で見た空と、少し似ている。
でも、少し違う。
風が、やさしく吹いた。
星が、静かに瞬いている。
その光の向こうに、あの村がある気がした。
――また、行こう。
理由は、ある。
採取を教えてもらう。
それでいい。
それだけでいい。
――本当に?
少しだけ、笑った。
そして――
そう思っていた。




