第96話 逃げなかった日
「いらっしゃいませ!」
大きな声で、お客に挨拶をする。
働き始めて数日。
お店で挨拶することも慣れてきた。
棚の拭き掃除も慣れてきた。
今は床掃除を教わっている。
「お客が滑らないようにしっかり水を絞って...こうやるんだ。」
モップの使い方を知る。
この棒は、こうやって使うものなのか。
今までスリをしてつかまって叩かれていた棒だ。
本当の使い方。
知らないことだらけだ。
その事に驚く。
「分かったのか?」
怪訝そうに店長が顔をのぞき込む。
「は、ハイ!」
「よし。じゃあ、頼んだぞ」
店内の床掃除をしつつ、お客が来ると挨拶をする。
「いらっしゃいませ!」
いつものように挨拶をする。
でも、相手は、返事もなく私の顔を驚いたように見る。
その顔は次第に確信をもって怒った顔になった。
「おい!お前!俺の金を返せ!」
怒鳴り声。
店内の空気が一瞬で凍り付いた。
やばいのか?
逃げるか?
店の戸口は半開きだ。逃げるなら今だ。
でも、逃げて、それからどうする?
一瞬の躊躇がスキになってしまった。
突然に襟首をつかまれ持ち上げられる。
苦しい。息ができない。
なんとか男の顔を見る。
でも、見覚えなんてない。
スリをしてたら、相手の顔なんて見ない。覚えているわけがない。
どうしよう。本当に私が盗んでいたのかもしれない。
「店長‼こいつ俺の金を盗んだんだ!」
その声と同時に、ほほが熱くなる。
強くひっぱたかれた。
目が回る
血の味がする。
口の中が切れた。
「私が盗んだんなら、謝るよ」
やっとの思いでしゃべる。
口の中が痛い。
「ふざけんな!」
腹を殴られる。
息ができない。
何度も殴られる。
胃の中のものがこみ上げる。
店が汚れてしまう!
それは困る。
必死に吐かないように我慢する。
それしかできなかった。
ただのぼろ布のように。
「おい!その子はうちの店員だ。何するんだ」
慌てて店長が走ってくる。
「店長。こいつは!」
男は私を離した。
でもそれは私を床に投げ捨てたのと変わらない。
力なく崩れ落ちた私は、もう、そこから意識がなかった。
ただ、おかみさんが抱いてくれた事、
店長が「もう、代金分は殴っただろ」という声が
耳に入ってきただけだった。
「いてっ」
気が付いて頭を起こしたら、とんでもなく痛かった。
もう、夕方の光が差し込んでいた。
店の奥の簡易ベッドに寝かされていた。
「おう。起きたか。」
店長が帳簿を付けていた。
「すみません。店にご迷惑をかけました。きっと私がスッたのかもしれません。」
今日の騒動のお詫びをする。
だって、私のせいだ。
「ああ。そうかもな」
店長は帳簿から目を離さずに返事する。
続きを待ったが、何も言われない。
「もう、そういうわけですので、ここにはもう......」
「あ?そういう方向?」
驚いたようにこっちを向いた。
「お前がスリなのは、俺、知ってる。最初からだ。それでも雇ったんだよ」
本当だ。
「今更、何言ってるんだ」
でも。
「こんなことも起きるのも、込みで雇ったんだ」
だって。
「想定内なのさ」
「そんなこと言っても......。」
「うちのおかみさんも分かってるんだよ。みんな。それでも、お前を雇うことに変わりはないんだ」
言葉が出ない。
しゃべると口の中が痛いからだ。
でも、涙が、勝手に流れて口の中にまで入ってくる。
「口が痛い」
「体中だろ」店長があっさり言う。
気が付くと本当に痛かった。体中アザだった。
「本当だ。」
「今更、何言ってるんだ」店長が驚く。
「お前、生ごみみたいに床に落ちたんだぞ」
「今日は帰れ。明日また、いつもの時間に来い。もう、あの客は来ない。」
ゆっくり立ち上がる私に店長が袋を押し付ける。
「もってけ」
紙袋の中は、パンだった。
「店長」
「妹にもあげてくれ。」
明日また来いよと念押しされた。
もう道は暗くなってきていた。急がないと妹が心配する。
早くは走れない。
肋骨が痛い。
でも、
紙袋は離さない。
流れる涙は、痛いからなのか。
店長のやさしいからなのか。
明日も働いていいと言われた安心感なのか。
家の前で、呼吸を整える。
妹に心配かけたくない。
よし。大丈夫だ。
ドアを開ける。
暗い。
どこにいる?
ドアの位置で呆然と立ちつくす。
まさか。妹がいない?
そう思って一歩家の中に入った。
途端に妹が抱きついてきた。
「お姉ちゃん!!」
泣いている。
「どうしたの?何かあったの?」
「だって。お姉ちゃんが来ないから。私一人になったんじゃないかって。さみしくて。」
頭をなでる。
「大丈夫。お姉ちゃんはどこにも行かない。強いんだよ。守ってあげるよ」
両親が死んでからしている、
いつも二人でしている、寝る前のやり取り。
今はここでしている。
「ほら。パン。見て。またもらえたよ」
「わあ!」
パッと顔が明るくなる。
「また、持ってこれるよ。明日も仕事だから」
そう。明日も、
来ていいと言われた。
来いと言われた。
行こう。
あの店で働く。
妹を抱きしめながら思った。
逃げなくて良かった。
やっぱり自分も泣いていた。
でも――
今後の涙は少しだけ違っていた。
そう思っていた。




