第93話 泣いていい場所
モー―――――。
「うわああああ!!」
目の前に、牛。
ぬっと突き出された鼻が、頬を舐めてくる。
……なんだここ。
藁の匂い。
体の下はやわらかい。
—-ああ。逃げてない。
少しずつ、思い出す。
――オリバーの家の牛小屋だ。
昨日、ここに泊まったんだ。
ベッドを勧められたけど、断った。
あんな場所に、自分がいていいはずがない。
私は――スリだ。
牛は人懐っこく、体をこすりつけてくる。
「……おはよう」
思わず、そう言っていた。
背中を撫でる。
あたたかい。
こんなふうに動物に触れたことなんて、なかった。
外に出る。
朝の光がまぶしい。
オリバーの家は、すぐそこにあった。
質素だけど、手入れがされている。
小さな花壇。
淡いピンクの花が揺れている。
……あの母親が、育てているんだろう。
昨日のことを思い出す。
何度も、何度も。
「ありがとう」と言われた。
助けたことは、間違いじゃなかった。
そう思えた。
でも――
そんなに感謝されるほどのことなのか。
まだ、わからない。
「おはよう、リナ!」
振り向くと、オリバーが走ってきた。
「寝れた?」
「……寝れたよ。この牛に起こされた」
背中をぽんと叩く。
「ああ、ジュニアだね。ごめん」
申し訳なさそうに笑う。
「……かわいいね」
口から出て、自分で驚いた。
「でしょ!」
ぱっと顔を輝かせる。
「出産も手伝ったんだ。初めてでさ」
嬉しそうに話す。
……本当に、優しいやつだ。
「母さんが、朝ごはんどうかって」
「みんな待ってる。行こう」
軽く袖を引かれる。
「え、あ……」
断る間もなく、家の中へ。
「おはよう」
「寒くなかった?」
「よく寝れたかい?」
一斉に声がかかる。
あたたかいパンと、スープ。
優しい目。
――受け入れられている。
胸が詰まる。
何かが込み上げてくる。
まずい。
泣くなんて、嫌だ。
「ごちそうさまでした!」
急いで食べて、席を立つ。
外へ逃げる。
ジュニアのそばに戻る。
少しして、みんなが集まってきた。
「おはよう!」
「藁、暖かかっただろ?」
「冬はもっとすごいぞ」
笑い声。
……こんな空気、知らない。
山へ向かう。
ジャックが隣に来た。
「お姉ちゃん」
「なあに」
「きれいだね」
「……え?」
初めて言われた。
戸惑う。
「ジャック、それはもう少し大きくなってから!」
「えー?」
みんなが笑う。
顔が熱い。
どうすればいいかわからない。
でも――
笑ってしまった。
山道はきつかった。
足元が崩れる。
「っ」
体が傾く。
――転ぶ。
その前に、腕を引かれた。
レオだ。
「大丈夫か?」
「……大丈夫だ」
反射的に振り払う。
少し、気まずい。
でもレオは気にしていない。
「慣れてないときついからな」
それだけ言って歩き出す。
……なんだそれ。
優しすぎるだろ。
「着いた!」
視界が開ける。
大きな桑の木。
黒く熟れた実。
木漏れ日。
小川の音。
きれいだ。
みんな、すぐに実を取って――
食べた。
「うま!」
「甘い!」
驚いた。
収穫物を、その場で食べるなんて。
贅沢すぎる。
「黒いのが甘いよ」
ユイトが教えてくれる。
恐る恐る、口に入れる。
――甘い。
いろんな味が、一気に広がる。
止まらない。
気づけば夢中で食べていた。
笑われる。
でも、止められない。
こんな満腹、久しぶりだ。
その時。
ガサッ。
音。
「動くな」
ガイルの低い声。
子熊。
嫌な予感。
「母親がいるぞ」
息を殺す。
――バキッ。
現れたのは、大きな影。
母熊。
立ち上がる。
でかい。
怖い。
動けない。
ジャックを抱きしめる。
それしかできない。
「やるぞ!」
水球が飛ぶ。
割れる。
何度も、何度も。
鼻に水を押し込む。
やがて――
熊は逃げた。
「はあ……」
力が抜ける。
助かった。
涙が出る。
止まらない。
「……怖かった」
声が震える。
「動けなかった」
「私、強くないといけないのに」
止まらない。
「スリもした。悪いこともした」
「でも……生きるためだったの!」
「どうすればよかったの!?」
叫んでいた。
静寂。
「……ごめん」
顔を伏せる。
終わった。
全部、壊した。
「助けてくれてありがとう」
下を向いてそういうのが精一杯だった。
胸の奥がぐちゃぐちゃで、うまく言葉にならない。
――帰ろう。
そう思った。
かごを持ち上げる。
まだ半分しか入っていない。
本当はもっと取らなきゃゃいけない。
お金にしなきゃいけない。妹のために。
......でも、もう、無理だ。
ここにはいられない。
自分みたいな奴が、
こんな場所に、いていいわけがない。
「まだ、採ろうぜ」
レオが言う。
いつもの軽い調子で。
「せっかく来たんだしさ」
顔をあげる。
誰も、責めていなかった。
誰も、困った顔をしていなかった。
ただ――いつも通り、そこにいるだけだった。
「そうだよ。まだ時間あるよ」
ユイトが、当たり前みたいに言う。
「いっぱいにして帰ろうぜ」
ガイルも笑っている。
「ね、リナ」
オリバーが静かに言った。
涙が、またこぼれた。
止まらない。
止め方がわからない。
――なんでだよ。
「先生ー!オリバーが、女の子泣かせてまーす」
レオが大声でふざける。
「ちょっと、レオ!」
「嫌だって事実だろ!」
「違うよ!」
くすっと、笑いがこぼれた。
気が付けば、みんなが笑っていた。
――こんな空気、知らない。
……なんでだよ。
小さく呟く。
笑っているのに、涙は止まらないままだった。
でも―
さっきまでの苦しさとは、少し違っていた。
逃げなくてもいい場所。
ここにいてもいいって、
言葉じゃなくて、空気で分かる場所。
そんなものが、この世界にあるなんて知らなかった。
「ほら、黒いの探せって言っただろ?」
「リナ、これ甘いよ!」
「うわ、それ俺のだろ!」
また、いつものやり取りが始まる。
何もなかったみたいに。
でも――
確かに、さっきの時間は消えていない。
リナは、ゆっくりとかごを置いた。
「……もうちょっと、取る」
ぽつりと言う。
「おう!」
「いいね!」
「いっぱいにしよう!」
その返事が、
やけに嬉しかった。
腕を伸ばして、桑の実を摘む。
指先が紫に染まる。
さっきまで見えていなかった景色が、
少しだけ違って見えた。
木漏れ日。
風の音。
川のせせらぎ。
誰かの笑い声。
全部が、
ちゃんと“そこにある”と感じられる。
――ああ。
ここは、
泣いてもいい場所なんだ。
リナは、もう一粒、
桑の実を口に入れた。
甘かった。
少しだけ、
誰かと一緒に食べる味がした。
――帰り道。
たくさんの桑の実。
運べない量。
困っていると――
「俺が運ぶ」
オリバーの父親だった。
一輪車を押している。
「リナも乗れ」
「売るところも教えろ」
当然みたいに言う。
「……ありがとう」
言えた。
「困ったって言えるのは、大事なんだ」
静かな声。
「言ってくれたから、助けられる」
手を取られる。
あたたかい。
「俺にも、恩返しさせてくれ」
――また、涙が出た。
止まらなかった。




