第92話 受け取った手
オリバーが、家の人に話している。
私を牛小屋に泊めていいかを。
少し離れた場所から、その様子を見ていた。
子どもがいいと言っても、大人が同じとは限らない。
私は、スリだ。
どうせ断られる。
いつでも逃げられるように、荷物をぎゅっと握る。
ザッ、ザッ、ザッ。
大きな足音。
振り向くと――
大人の男がこちらへ歩いてきていた。
父親、だろうか。
大きい。
怖い。
……殴られる?
思わず、足が逃げる方へ向く。
「あなたが――」
低い声。
体がびくりと震える。
「あなたが、息子の命を――」
まずい。
やっぱり――
体をひねって、走ろうとした。
その時。
手を、取られた。
――逃げられない。
そう思った。
そして両手で、包まれた。
そのまま、膝をつき――
額が、私の手に触れた。
「ありがとう。私の宝を、助けてくれて」
……え?
何を、言ってるの?
遅れて、女の人――母親も同じように手を包む。
涙を浮かべていた。
「あ……あの……私……」
言葉が、出ない。
こんな風になるなんて、思ってもいなかった。
「まずは食事を」
「ベッドも――」
慌てて、首を振る。
「……いい、です。牛小屋で」
やっと、それだけ言えた。
だって、本当は――
全部、私のせいだから。
私がスらなければ。
逃げなければ。
あんなことにはならなかった。
――あ。
言えていないことを思い出す。
「違うんです!」
思わず、声が大きくなる。
「私は、助けられたんです!」
みんなの視線が集まる。
止まらない。
「お金を出してもらって、教会で治療してもらって……だから、今こうしてるんです!」
息が苦しい。
「オリバーさんたちは……命の恩人なんです!」
――やっと、言えた。
静まり返る。
……言いすぎた?
変なやつ、って思われた?
急に、怖くなる。
もう、いい。
逃げよう。
体を引こうとした、その時。
「それでも」
父親の声が、静かに響く。
「それでもな」
「あの子を助けてくれたのは、あんただ」
ゆっくりと。
本当に、ゆっくりと。
言葉が、胸に落ちてくる。
絡まっていた何かが、
ほどけていくみたいに。
……ああ。
私のしたことは、
間違いじゃなかったんだ。
そう、思えた。
でも、
どうしていいかわからない。
立ったまま、
何も出来ずにいるとーー
気がつくと、
そっと、抱きしめられていた。
オリバーの母親だった。
あたたかい。
こんな抱き方、知らない。
――訳もわからず
泣いていた。
声を押さえることもできずに。
子どもみたいに。
「ありがとう。あなたのおかげよ」
その言葉が、胸の奥に残る。
――視点:オリバー――
少し離れた場所で、その光景を見ていた。
(……よかった)
自分のしたことが、
誰かの中でちゃんと意味を持った。
ただ、それだけを思う。
リナが――
ちゃんと受け取ってくれている。
あの時、自分たちがやったことを。
(ちゃんと、届いたんだ)
胸の奥が、少しだけ温かくなった。
――再びリナ視点――
どうしても牛小屋がいいと頼んだ。
藁の中は、思っていたよりずっとあたたかい。
外に出る。
夜空を見上げる。
星が、たくさんあった。
町では、こんな空は見えなかった。
逃げて。
捕まって。
お腹をすかせて。
それでも、妹に食べさせて。
それが、全部だった。
でも今日は――
違う。
抱きしめられた温もりを、思い出す。
……変な気分だ。
胸の奥が、静かにあたたかい。
「……リナ」
自分の名前を、小さく呟く。
昔、親に呼ばれた名前。
明日は、山に行く。
たくさん採って、
売って、
お金にする。
妹に、美味しいものを食べさせる。
それでいい。
それだけでいいはずなのに――
少しだけ。
それ以外のことも、考えてしまう。
まぶたが、ゆっくり閉じる。
――明日、何かが起こるとも知らずに。
それが、
こんなにも大きな出来事になるなんて、
まだ、知らない。
初夏の夜空に、
女神様の麦の穂が、
静かに瞬いていた。




