第89話 助けたのは、どっちだ
あの子は、治ったんだろうか。
どうしても、頭から離れない。
外はポカポカといい天気だ。
今日は弟のジャックが朝寝坊して大変だった。
ノア先生の教科書を読む声が、遠くなる。
ああ、まただ。
また、あの場面。
石畳の道路。
倒れていたあの子。
流れる金の髪。
広がっていく血溜まり。
あの時、自分にできたことは、叫ぶことだけだった。
早く。
早く誰か。
あの子を助けて、と。
――いや、待って。
あの子は。
轢かれる直前、
自分は確かに腕を強く引っ張られた。
車道と反対側に、放り出されたんだ。
……あの子が、引っ張った?
じゃあ――
轢かれていたのは、自分だった。
背筋が冷たくなる。
血溜まりに沈む自分を想像してしまい、思わず息を呑んだ。
あの子は――
命の恩人だ。
今さら気づいたことに、胸が締めつけられる。
どうして、もっと早く気づかなかったんだ。
授業が終わるとすぐに、レオたちのところへ走った。
「え!そうだったのかよ!」
みんなが驚く。
「ま、先に悪いことしたのはあっちだけどな」
「レオ!そんなこと言ってる場合じゃないよ!」
「悪かったよ。でもさ、オリバーの恩人なら、俺たちも礼を言わないとな」
「そうだ!」
「もう、治ってるかなあ」
「教会にしばらくいるって言ってたな」
「……手紙、書こう」
「直接行きたいけど、うち、まだすぐ町に行かないと思うんだ」
「じゃあまず、できることをやろうぜ」
「教会の名前、覚えてる」
四人で顔を見合わせる。
うなずき合って、ペンを取った。
助けてくれたお礼の言葉を、ゆっくりと綴る。
とても綺麗とはいえない字だけれども。
それでも、伝えようとしていた。
――教会――
「あら、手紙。あなた宛よ」
シスターが差し出してくる。
「良かったわね。今日退院ですもの。すれ違わなくて」
「……ありがとう」
手を伸ばして受け取る。
知らない字。
知らない名前。
少しだけ警戒しながら、封を開けた。
子どもの字だ。
たどたどしい。
でも――
丁寧に書こうとしているのが、分かった。
あの事故のこと。
助けてくれたことへのお礼。
「命の恩人」とまで書いてある。
……そんなこと、していない。
思い出そうとする。
でも、自分でも分からない。
どうして、あの時。
あの子の腕を引っ張ったのか。
ただ――
去年、出会った子だった。
優しそうだった。
スったのに、責めなかった。
あの子が、自分のせいで轢かれると感じた瞬間。
体が、勝手に動いていた。
結局、あの子たちのお金で治療してもらったのに。
……感謝される筋合いなんて、ない。
そう思って。
手紙を、捨てようとした。
……こんなもの、いらない。
そう思ったはずなのに。
トントン。
「もうそろそろ、私も元の街に帰るの。挨拶をと思って」
ヒーラーが部屋に入ってきた。
「もう、あなたも教会を出るのね。治ってよかったわ」
「ありがとう。あなたがいなかったら、私、死んでたって」
「腕はいいのよ」
にっこりと笑う。
太陽みたいな人だ。
「あら、その手紙は?」
「……あの男の子たちから」
「知り合いなの?」
「いいえ。全然」
「なのに治療費を?」
「そう」
ヒーラーは少しだけ目を細めた。
「優しいのね。その子たち」
「……」
「お礼、言わないの?」
言葉に詰まる。
そうだ。
助けたのは、自分じゃない。
助けられたのは、自分のほうだ。
「……書きます」
ぽつりと、そう言っていた。
シスターに教わりながら、手紙を書く。
震える手で、村の名前を書く。
その瞬間。
「……え?」
ヒーラーの手が止まった。
「その村……今、なんて?」
大きく目を見開く。
「そんな……そんなことって……」
そう言い残して、部屋を出ていった。
何が起きたのか分からないまま、手紙を書き終えた。
自分の住所は書けなかった。
番地なんて知らない。
教会の名前だけを記して、封を閉じる。
投函した。
――これでいい。
少しだけ、胸が軽くなった気がした。
ポカポカとした陽気。
でも、どこか。
ぽっかりと穴が空いたみたいで。
さみしい。
どうしてなんだろう。
それでも。
――元々、一人で歩いてきた。
妹の世話もしなきゃいけない。
あの子は、私がいないと生きていけない。
食事も作らないと。
強くならなきゃ。
自分の足元を見る。
それから、家のある方向を見た。
一歩、踏み出す。
その足取りは、まだ少しだけ頼りなかった。
あの時、助けたのは――
どっちだったんだろう。




