第86話 甘さの中に、少しだけ
教室に入った瞬間、いつもより少しだけ甘い匂いがした.
ノア先生は「ちょっと30分くらい職員室で用事を」と教室から出ていった。
今日が何の日か分かっての事だと思う。
「今年も来たな、この日」
レオが席に座りながら言う。
「チョコの日だね」
ユイトが笑う。
去年までは、みんなで作っていた。
今年は違う。
それぞれが、それぞれに用意してきている。
「ガイルー!!」
廊下の向こうから、やたらと圧のある声が響いた。
振り返る間もなく、扉が開く。
「今年も鍛え抜いた“愛”を持ってきたぞ!」
現れたのは、上級生の筋肉集団だった。
「うおっ、マジで来た!」
ガイルが思わず立ち上がる。
「当然だ!お前は我らの希望だからな!」
ずしっとした包みがいくつも押し付けられる。
「重っ!?これチョコか!?」
「高タンパク仕様だ!」
「チョコの概念どこ行った!?」
教室に笑いが広がる。
いつも通りの光景。
その中で。
ガイルは、一瞬だけ手を止めた。
渡された包みを、ちゃんと見る。
そして。
「……ありがとな」
少しだけ、真面目に言った。
先輩たちが一瞬、黙る。
「……成長したな」
「なんだその反応!?」
すぐにまた笑いが起きる。
でも。
去年とは、少しだけ違っていた。
席に戻る途中。
今度はレオの前に、女子の先輩たちが集まっていた。
「レオくん、これ」
「ありがとうございます」
丁寧に受け取る。
数は去年と同じくらい。
やり取りも、ほとんど同じ。
でも。
レオは一瞬だけ、周りを見た。
視線の先。
エマが、少し離れたところに立っていた。
小さな包みを持ったまま、動けずにいる。
ほんの一瞬。
レオの視線が止まる。
――でも。
「じゃあな」
いつも通りに、先輩たちと話して席に戻った。
エマは、動かなかった。
その様子を、ルーカスが静かに見ていた。
教室のあちこちで、チョコが渡されていく。
「ユイト、これ……」
リリカが差し出す。
「お、ありがとう!」
ユイトはいつも通り、明るく受け取る。
「美味そうだな」
笑顔。
そのまま、何も変わらない。
「……うん」
リリカも笑う。
でも、その笑顔はほんの少しだけ揺れていた。
教室の隅。
ケントは、ポケットの中の小さな包みを握っていた。
(……どうすっかな)
視線の先には、ミナ。
楽しそうに誰かと話している。
タイミングが、つかめない。
結局。
「……これ、余ったから」
そんな言い方で渡す。
「え、ありがとう」
ミナは普通に受け取る。
それで終わり。
ケントは小さく息を吐いた。
オリバーは、ひとつひとつ丁寧に配っていた。
「これ、どうぞ」
誰にでも同じように。
同じ笑顔で。
「ありがとう、オリバー!」
声が返ってくる。
そのたびに、ちゃんと笑う。
ちゃんと応える。
でも。
ガイルはそれを、少しだけ遠くから見ていた。
(……ちゃんとやってるな)
無理してる、とは思わない。
ただ、
少しだけ、気を張っているようにも見えた。
「ガイル、これ」
オリバーが近づいてくる。
差し出された包み。
「おう」
受け取る。
一瞬、言葉を選んで。
「……ありがとな」
また同じ言葉が出た。
オリバーは少しだけ目を丸くして、
「うん」
と、やわらかく笑った。
放課後。
廊下で、ノア先生に出会う。
「先生、これ」
誰かがチョコを差し出す。
「ああ……ありがとう」
受け取る。
少しだけ、間があった。
その“間”が、残る。
ガイルはそれを見ていた。
何も言わない。
何も変わっていないようで。
何かが、少しずつ動いている。
帰り道。
ポケットの中のチョコの重みを感じる。
去年より、多いかもしれない。
でも。
それよりも。
ひとつひとつの重さが、少しだけ違っていた。
空を見上げる。
冬の空。
雪はもう降っていない。
「なあ」
ガイルが呟く。
「なんだよ」
レオが答える。
「……甘いな」
ぽつりと出た言葉。
レオは少しだけ笑った。
「当たり前だろ」
「だな」
短く返す。
少しだけ間があって。
ガイルは、小さく続けた。
「……でも、ちょっと苦いかもな」
誰に向けたわけでもない言葉。
その意味は、なんとなく伝わっていた。
二月の風が少しだけ冷たい。
それでも、
その日、もらった甘さは。
簡単には消えない気がした。




