第70話 風の夜(湖)
湖のそばまで来ると、足が自然と止まった。
風が、通り抜ける。
身が締まる。
さっきまで、あんなに暑かったのに。
水面が細かく揺れていた。
月の光が砕けて、きらきらと散っている。
「……いるな」
ガイルが小さく言う。
視線の先。
水の上に、白い影がいくつも浮かんでいた。
白鳥だ。
静かだった。
さっきまでの祭りが、遠い。
別の世界みたいだった。
「……ほんとにいたな」
レオが、少しだけ笑う。
誰も、近づこうとはしなかった。
ただ、見ていた。
風が吹く。
少し、強い。
水面が大きく揺れる。
白鳥たちの首が、わずかに動く。
クルルッ
鳴き声がはじまる。
もう一度、風。
今度は、はっきりと。
押すような、引くような風。
湖の月がこわれる。
空気が、変わる。
声が強くなる。
次の瞬間――
白い影が、動いた。
一羽。
それに続くように、また一羽。
水を蹴る音。
ばさり、と羽が広がる。
そして――
一斉に、空へ。
音が、遅れてくる。
羽ばたきと風が混ざる。
白が、夜に広がる。
誰も話さない。
息を、忘れる。
ただ、見ていた。
風が、ぶつかる。
体が、わずかに揺れる。
でも――
嫌じゃない。
目が離せない。
引かれるような、感覚。
包まれるような、感覚。
(……なんだ、これ)
白い影が、頭上を抜けていく。
その中に、自分もいるような気がした。
風が、通る。
強く。
まっすぐに。
髪が、大きく揺れる。
その瞬間。
――すっと、静かになる。
白鳥たちは、もう高く。
空の向こうへ消えていく。
あとには、風の余韻だけが残った。
「……ね」
ユイトの声。
「来てよかったな」
ガイル。
レオの、少しだけ笑う気配。
「やっぱ、風じゃねえか」
言葉が、出ない。
分からない。
でも、
さっきまでと同じじゃない。
胸の奥に、何かが残っている。
(……まあ、いいか)
風が、もう一度だけ吹いた。
今度は、やわらかく。
気がついたら、
ジャックにシャツの裾をつかまれていた。
しばらく、誰も動かなかった。
白鳥の消えた空を、ただ見上げていた。
風だけが残っている。
やがて、
「……さみいな」
ガイルが肩をすくめた。
「さっきまであんな暑かったのに」
その一言で、少しだけ空気が戻る。
「ほんとだな」
レオが軽く笑う。
「帰るか」
誰からともなく、足が動き出す。
来た道を、引き返す。
さっきより、ずっと静かだった。
木の間を抜ける風の音。
足元の土を踏む音。
それだけが、続く。
少し前を、ガイルとユイトが歩いている。
「なあ、今の見たか?」
「見た見た。あれ、毎年あんの?」
「いや、毎年じゃないって――」
そんな声が、風に混ざる。
後ろで、ジャックの気配。
まだ、シャツの裾をつかまれている。
「……怖かった?」
振り返らずに聞く。
少し間があって、
「……ちょっとだけ」
小さな声。
「でも、すごかった」
「そうだね。」
それだけ返す。
また、風が吹く。
今度は、やわらかい。
(……)
さっきの光景が、まだ残っている。
うまく言えない。
でも、
消えない。
前を見る。
レオの背中。
変わらない。
ガイルの声。
うるさい。
ユイトの笑い声。
いつも通り。
(……まあ、いいか)
それでいい気がした。
やがて、遠くに灯りが見えてくる。
祭りの明かりだ。
ざわめきも、少しずつ戻ってくる。
さっきまでいた場所が、嘘みたいに遠い。
風が、最後に一度だけ吹いた。
背中を押すみたいに。
足が、少しだけ軽くなる。
何も変わっていない。
でも、
何かが、少しだけ違っていた。




