第100話 言えたこと
「母さん。ちょっと町に行く。」
父さんがそう言っていた。
町?
学校は休みだ。
「行く!」
咄嗟に声が出た。
朝。
段々朝も蒸し暑く感じる。
光が強い。
父さんはちょっと驚いて、でもすぐに口元が笑って、
「準備しろ」とだけ言った。
荷をまとめながら、何気なく続ける。
「長くはいないで、すぐに帰ってくるぞ」
「……うん」
返事をしながらも、頭の中は別のことでいっぱいだった。
(……会える)
それを考えないようにしても、浮かんでしまう。
父さんは何も言わない。
だけど、
ちらりと、こっちを見た気がした。
ガタガタと一輪車が揺れる。
道は長い。
やけに、長く感じる。
「落とすなよ」
父さんが言う。
「分かってる」
短いやり取り。
(リナに何を言うんだ?)
考える。
考えて、分からなくなる。
(やめとくか)
何度も思う。
それでも、
ノア先生の、
あの言葉が、頭の中で繰り返される。
『誘える時に、誘っておくと良いでしょうね』
ぎゅっと一輪車のハンドルを握る。
町に着く。
父さんが取引する、いつもの店で荷を下ろす。
話はすぐにまとまった。
父さんが金の話をしている横で、ぼんやりと外を見る。
あの店の方向。
無意識に視線が向いていた。
「終わったぞ」
「……あ、うん」
我に返る。
父さんが、少しだけ口元を緩めた。
「まだ時間あるな」
それだけ言って、視線を外す。
「俺は向こう寄ってくる」
親指で反対側を示す。
「戻るまで、好きにしてていい」
一瞬、言葉の意味が分からなかった。
「……いいの?」
「荷はもうねえだろ」
それだけ。
それ以上は何も言わない。
「父さん。ありがとう」
背中が、押された気がした。
足が、自然と動く。
あの店へ向かう。
見慣れた扉。
ここまで来て、止まる。
(……何て言えば)
手を伸ばして、止める。
断られたら。
迷惑だったら。
帰ろうか。
そう思った瞬間――
「いらっしゃいませ!……あれ?」
声。
顔を上げる。
「オリバー?」
リナが、こっちを見ていた。
少し驚いた顔。
でも、すぐにやわらかく笑う。
「来てたんだ」
「あ、ああ……」
喉がうまく動かない。
「入る?」
「……う、うん」
頷いて、中に入る。
店の中。
整った棚。
きれいな床。
(ちゃんとやってる)
当たり前のことなのに、少し安心する。
「最近どう?」
何でもない調子で聞かれる。
「まあ……普通」
「そっか」
会話が続かない。
何か言わないと。
「その……」
言葉が出ない。
リナがこっちを見る。
「なに?」
「いや……」
何だっけ?
(違う)
ここまで来た。
ここまで来て
何も言わないのか。
「怪我……もう大丈夫なの?」
出てきたのは、それだった。
「ああ、うん。まだちょっと痛いけど」
少しだけ笑う。
「でも、平気」
(平気じゃないだろ)
そう思うのに、言えない。
沈黙。
「オリバー?」
名前を呼ばれる。
まっすぐ、見られる。
逃げられない。
(……今だ)
「あのさ」
声が、少し震える。
「村で白鳥祭、あるんだ」
「うん」
静かに頷く。
「もし、その……」
言葉が詰まる。
頭が真っ白になる。
(やめるか)
よぎる。
でも
(違う)
「……一緒に」
やっと出た。
「来ない?」
言った。
言ってしまった。
静かになる。
時間が止まる。
リナは、少しだけ目を見開く。
それから、視線を落とす。
「……仕事、あるけど」
やっぱり。
そうだよね。
「でも」
顔を上げる。
「少しなら、行けるかも」
心臓が跳ねる。
「ほんと?」
思わず聞き返す。
「うん。店長に聞いてみないとだけど」
少し照れたように笑う。
「……行きたい」
その一言で、
胸の奥が、一気に軽くなった。
「そっか」
それしか言えない。
でも、十分だった。
「話は聞こえてるぞ」
後ろから声。
振り向く。
店長が立っていた。
「休みはやれん。
ていうか、今年は祭に出店しようと思っていたんだ。祭りは儲かるからな。仕事だ。」
大きな口でガハハと笑う。
「店長……!」
リナが目を見開く。
「ただし」
指を立てる。
「いいか。仕事だ。
だが――時間は作ってやる。ちゃんと戻ってこい」
「……はい」
しっかり頷いた。
店を出る。
空は高い。
風が、やわらかい。
「じゃあ、また」
「またね」
それだけ。
でも、さっきまでとは違う。
足取りが軽い。
約束の場所に戻ると、
父さんは、もういた。
壁にもたれて腕を組んでいる。
「終わったか」
「うん」
短い返事。
それだけでいいはずなのに。
父さんは、少しだけこちらを見る。
「顔、違うな」
ドキッとする。
「……そう?」
「さあな」
それ以上は言わない。
でも、分かっている顔だった。
一歩、歩き出す。
「帰るぞ」
「うん」
並んで歩く。
来た時と同じ道。
なのに
全然違って見えた。
光が眩い。
少しして。
父さんが、ぽつりと。
「言えたか」
足が一瞬止まりそうになる。
「……まあ」
それだけ答える。
――言えた。ちゃんと。
父さんは、それ以上聞かない。
ただ、
「そうか」
とだけ言った。
空を見上げる。
白い雲が、ゆっくり流れている。
山の方には大きな入道雲。
その向こうに――
祭の日がある気がした。
手を胸に置いて、
小さく息を吐いた。
その先にある“祭の日”を、
まだ、うまく想像できなかった。




