10
すっかり気持ちよくなって外に出ると、完全に日が落ちていた。そんなに長居していないつもりだったが、随分時間が経っていたようだ。家への道を探したが、夜の闇による幻か、往路とは違って見えた。
鬱蒼と茂る森の中。これはいつだったか、まだ衛生兵だった頃にいた戦場だ。心なしか森の匂いまでする。虫の声も聞こえてくる。茂みからガサガサと音がする。虫か動物か、敵か――味方は? 味方はどこにいる? 味方って誰のことだ?
不安に胸をかきむしる。やけにのどが渇いている。喉の中に誰かいる。上官だった男だ。アロイスに対して何か叫んでいる。なんて言っているのかわからない。
わかったぞ、これは幻覚だ――。
目を閉じて深呼吸する。再び目を開くと、村の中だった。叫んでいたのは上官ではなく、自分自身だった。村人がアロイスの周りに集まってささやきあっている。
ひどく頭が重い。断続的に聞こえていた虫の声も、茂みの音もしなくなった。
あたりがやけに明るく見えた。村の司令部以外には魔法具がない。つまり外灯のようなものはない。それでも不思議と暗くはない。月が明るいせいだ。戦場にいた頃、こんな風に月を見上げていた。月には引き寄せられる魅力がある。この世界にも変わらず月があってホッとする。
月を見上げながら思う。もしかしたら、自分は異世界に来たわけではないのではないか。頭がおかしくなって、こんな夢を見ているのではないか。もしくは、元いた世界などなくて、本当は都合良く作り出した偽りの記憶なのかもしれない。
本当かもわからない戦場の記憶が、アロイスの胸を衝く。あのとき、月を見ている間だけが、生きていると実感できた。
そんなことを考えながら、ひとつの建物に吸い寄せられていることに気付いた。そこは他と変わらない粗末な家だった。平屋の、まるで犬小屋みたいに狭くて汚い家だ。ひとつ、他の家と違うところと言えば、その家から煙がもうもうと立ち上っていることくらいだ。まるで火事でも起きているようだ。その家の前で、女が不適に笑いながらアロイスを見ている。女はキセルのようなものをくわえていた。やけに化粧の厚い年増の女だ。立ちんぼだろうか。
足下で何か音がした。水滴だ。断続的に水が落ちている。雨だろうかと思って見上げたが、空は満天の星と月しか見えない。
口元が冷たい。水滴の正体はだらしない口元から垂れる唾液だった。
なぜ、自分はよだれを垂らしている――?
耳障りな声が耳元に張り付いている。虫かと思って払ってみても、その音は少しも遠ざからない。振り払った手が自分の喉に当たった。喉が震えている。この耳障りな音は、また自分が発した声だった。先程から、自分の体なのに自由がきかない。
顔を上げると、女がアロイスに腕を取って、建物の中に誘導した。女はどこかで見たような顔だった。ほとんど裸のような服装をしているからか、派手な装飾品が異彩を放っている。女の割に背が高くてスタイルが良かった。全く抵抗できずにアロイスは家の中に吸い込まれた。
家の外は自然の淡い色しかなかったはずなのに、家の中に一歩踏み込むと極彩色の世界が広がっていた。目から入ってくる情報は忙しく動き、光は信号のように明滅している。光は針のように目玉を突き刺した。目玉を突き抜けて、脳髄の中をグリグリと動き回る。目玉が破裂して、滝のように涙がこぼれた。眼窩から零れた目玉が転がっていって、腕と足が生えた。慌てて拾おうとしたら目玉は闇の中へ走り去っていった。
耳からは聞こえるはずのない、鼓笛の音が聞こえた。
ああ、あの音楽は――戦場に行く前日に聞いた。大勝を博したあとのパレード――私は――それを拷問室の中で聞いていた。あの頃は、部屋に防音などと言う贅沢なものはなく、外から聞こえる音がいちいち癇に障った。私はそれをどんな気持ちで聞いていたろうか。思い出せない。
目の前に偉大なる指導者が現れた。一瞬たじろいだ。こんな場所に彼がいるはずがない。
偉大なる指導者は微笑むと、アロイスの肩に手を載せた。そして、熱い抱擁。
否――彼がそんなことをするはずがない。
「うわああ」
悲鳴のような叫び声を上げながら、アロイスは建物から走り出た。道に出た途端、胃の中のものをすべて吐き出す。視界がぐるぐると回った。
意識を失う直前、花のような匂いがした。




