第8話 誓いを再び①
遠い夏の日。
わたしは彼と出会った。
いつしか彼は、わたしにとってかけがえのない人に変わっていく。
離れたくない。
失いたくない。
そんな気持ちが込み上げてくる。
ああ。これが恋なのだろう。
夕暮れ。手渡されるプレゼントは仄かに桃色に輝く真珠を使用した花の形のブローチ、を模したアクセサリー。
不器用に紡がれる言葉。全身を駆け巡る温かさ。
それはまるで夢のようなひとときで。
そして――
◇
圧倒的なまでの死の奔流がこの場を支配する。
「――ぐ、ぐが、……ぎ、……ががが、■■■■■■■■■■■■――!!」
獣のような雄叫びで空間を震わせる狂獣と化したネロ。
目の色は失い、真っ赤な月のように不気味に煌めく。そして、その身に纏う漆黒の禍々しい魔力。可視化されるほどに高密度と化したそれは螺旋に逆巻き、一種の防御兵装としての機能を有していた。
ここにネロの意志は存在しない。
あるのは目の前に存在する『能力者』を殲滅するという絶対的な命令のみ。
「ネロさん!」
カレンがネロに声を掛けるも返ってくるのは狂気にまみれた視線のみ。
狂える猛獣の如き咆哮とともに、ネロはカレンめがけて飛び出した。
その行動に対して、カレンは何が起こったのか判らず呆然と立ち尽くすのみ。
ネロの拳がまさにカレンの頭部に標準を合わせ放たれるその瞬間、やっとカレンは自分が殺されようとしているのだと理解した。
直撃まで一秒もかからない速攻の一撃。
しかし、それが分かったところで構えもしていないカレンにネロの攻撃を避けることなど叶わない。
今まさにその魔の手が迫ろうとしたその刹那、――
「――え?」
カレンの目前に紅い閃光が迸る。
カレンに向かって疾走していたはずのネロは、瞬きをした次の時にはバットで打ち返されたボールの如く元いた場所まで弾き飛ばされていた。
地面に叩きつけられたネロは地に這いもがき続ける。
紅い閃光。
その正体はルークの操る魔槍の一振りだった。
ルークはカレンの前に立ち、暴走したネロから守るように槍を構えていた。
「ルーク、さん?」
「カレン、さがれ。呆けている場合ではないぞ!」
叫ぶルーク。横目でカレンの無事を確認した後、視線はネロに移った。
「お前の相手は俺のはずだ。見誤るなよ、ネロ」
カレンは今の状況を反芻し、これは夢ではなく現実なんだと自分の頭に理解させる。
今まで共に歩いてきたネロが自分への脅威と変貌した。
今まで捉えどころのない脅威と感じていたルークが自分の助けとなっている。
状況が逆転した。
信じがたい光景ではあるが、これが現実なのだ。
「なんで、わたしを庇って……」
「ふん。君に死なれては後に困るだけだ。好意から助けてもらったなどと思うなよ」
視線を変えることなく、表情一つ動かさず答える。
地に這っていたネロは態勢を立て直し、再び吼え静寂を震わせる。
「――あぁぁぁあぁあ■■■■■■■■■■■■!!」
咆哮と共に突進するネロ。狂った猛獣の如き行動に策も何もあったものではない。
標準はルークに向けられている。
「すぐにこの場から離れろ、カレン」
対してルークもネロ目掛けて駆ける。
状況は違えども、お互いにとって望んだものでないとしても、この時間は止まらない。
今ここにルークとネロの再戦が開始された。
◇
激突し乱舞する二人の能力者。
突進するネロ。
対してルークの槍が奔る。
両者の攻防は、カレンにとって目を開けていられないほどの旋風を巻き起こす。
繰り広げられる死闘は彼女に到底辿り着けない領域。
その一手、その一瞬。自身の視力を能力で強化させることのできないカレンは、能力で補強した眼鏡を通すことで、やっと二人の速度を捉える。
テレジアの地下で見せた突きの連撃。それに加え、槍の長さを生かした薙ぎ払いが合間に何度も放たれている。超速のそれらはネロをルークの元に一切近づけんと降り注がれる。
対抗してネロは前進を続ける。状態保持の能力に身を任せ、槍の雨などお構いなしに走り続ける。守りに入る戦略など今のネロの頭には存在しないのだ。
紅の魔槍は空間を切り裂き、ネロの全身を狙う。
その頭部を、その首を、その腕を、その胸部を、その腹を、その脚を、破壊せんと繰り出される。
一度でも直撃すれば致命傷となりうる必殺の斬撃だ。
しかし。
「……む、」
ルークの眉が顰められる。
ルークは対峙する敵の戦力を見極めるための行動を繰り返している。
決して全力ではないにしても、見下し手を抜いているわけではない。
ルークの知っているネロは、この時点で槍に貫かれ血に塗れている筈だ。
だがどうだ。ネロはそのすべてを見極め回避し、回避しきれぬものは鋼鉄に変化させた腕で弾き返す。それでも防ぎ得ず生じた傷は、状態保持の能力で即時再生する。
正気を失ってもなお発揮されるその機動力。意志のない狂獣と呼ぶにはやや相応しくない。
言うなれば狂戦士。
目的を遂行するためにあらゆる手を尽くして挑む信念の塊だ。
ルークはネロの足を槍で払い宙に浮かす。
地に足が付かない状態ではもう回避の仕様がない。態勢を整えることすら望めないだろう。
無防備な狂戦士に鉄槌を下すべく、ルークは再び魔槍の豪雨を叩きつける。
「――なっ!?」
それでもなお、ネロは止まらない。
魔槍が触れようとしたその瞬間、それを足場に回避行動に出る。あまりにも常識外れな身のこなし。ルークは目を疑うも平静を失うことはない。
一撃は防がれた。ならば二撃目。それも防がれる。続けて三撃目、四撃目。しかし、それらも鋼鉄の腕で弾かれ続ける。その後の数撃も変わらない。未だにネロは宙に浮き続けているにも関わらずに。
速度においてネロはルークに追いつきつつある。その事実はルークの心に初めて不快感を生じさせた。
そのようなことはあり得ない、という雑念。それはルークの連撃を一瞬だけ鈍らせる。
常人には捉えられないほどのその一瞬。だがそれはネロにとって好機と化す。
ネロは魔槍を左手で掴み引き寄せ、ルークを力任せに自身の射程範囲内に引きずり込む。
そのままルークの胸部に右の掌を当てて――
瞬間、鼓膜を破らんばかりの爆音が轟く。
ルークを中心に爆弾が破裂したかの如き衝撃が砂塵を巻き上げた。
ルークを引き寄せた時に生じた僅かな速度。
それすらも利用しネロは必殺となりうる寸勁を繰り出したのだ。
それは今までに見せた技とは違い、ネロはその右腕を蒸気機関じみた機械の腕に変化させ、それを起動させることで威力を格段に上昇させていた。
必殺とも言えるその一撃。
しかしルークは咄嗟に判断していた。胸の前に魔弾を形成させたのが功を奏したのか、ネロの寸勁はルークの胸部を貫くまでには至らなかった。
ただし無傷で済んだわけでもない。防ぎきれぬ衝撃はルークの胸部を削ぎ落し、血の色に染まらせた。
人としての身体すら捨てる狂乱の異能者。その行為を垣間見るルーク。
「――そうまでして俺を殺そうとするか、ネロ!!」
それは怒りか。それとも失望か。
ルークは今まで見せたことのない形相で叫ぶ。
技を出し終え、着地したネロ。
その瞬間をとらえ、ルークは魔槍を放つ。
雷の如き俊足。
ネロは反応する暇も与えられず、紅の魔槍を胸に突き立てられた。
「――ぐががあぁぁぁあぁあ!!」
ネロの獣じみた悲鳴が響く。それは果たして痛みによるものなのか。
ルークは標本のように貫通させた槍を宙に持ち上げ、ネロを天に掲げる。
ネロはどれだけもがこうとそこから抜け出すことはできない。
「もうおとなしくするんだ。これ以上はお前の力ではどうにもならん」
言う通りだ。勝負は決した。
ネロはもがき続ける。
機械に変貌した腕もルークに届くことはない。
ネロの動きは徐々に弱々しいものへと変わってゆく。
体力に限界が来たのだろう。
ネロの獣のような雄叫びも、微かな唸り声にまで落ちていった。
「……終わりか」
ルークはほっと安堵の息を吐き、そう囁いた。
「カレン、逃げろと言ったはずだが?」
急に尋ねられたカレンはビクッと肩を震わせる。
「ご、ごめんなさい、わたし……」
言い淀んでしまう。
カレンも何かしたかった。助けになりたかった。
けど、何もできなかった。それが辛くて。
「まあ、分からなくもない。君のやりたかったことは分かっている。だがそれをするには些か君は弱い。そして、その手段も持ち合わせていない。どうしたって叶わない願いだ。
しかし、それは恥じることじゃない。今この場ではたまたま、俺がこいつを止める役として適任だっただけの話だ」
久々に感じるほどの静寂。
ネロはまるで死体のように動かない。
傷つき、そして再生する。体力の続く限り終わらないその連続。
カレンはそんな痛々しい光景をもう一秒たりとも見ていられなかった。
目を逸らし、カレンは言う。
「ルークさん。早くネロさんを放してあげて……」
「案ずるな。ネロの体内に潜む悪しき呪術を取り払えばすぐにでも開放してやる。俺の魔槍は魔術でいう禁断属性の『時』と『空』以外なら、どのような属性にも変化させることができる。
そして今、その属性を滅属性と同等のものにしている。このまま時間が経てばじきに――」
ザザザ――
突如、カレンの頭の中に流れるノイズ。
(あれ? 何だろう、この感覚)
胸の騒めき。何か、見落としてはいけない何かがある。
ルークは確かに何かを言っているはずなのに、カレンは無意識にその声を遮断してしまうほど、別の事柄に対しての思考を優先させていた。
恐る恐る、先ほどまで死闘を繰り広げた二人を確認する。
そこには見落としてはいけない異常が確かにあった。
ルークは口を動かしている。
訳が分からないのか首を傾げている。
では、ネロは?
「――ははは……」
カレンは笑ってしまった。
理由? そんなの決まっている。
何故ネロは――
同時に使えるはずのない二つの力を、同時に使えているのか。
終わりではなかったのだ。
本当に僅かな変化だった。
ビクッとネロの身体が震える。
ルークが不信にネロに視線を戻そうとする。
カレンはその二人の行為とそれと同時に、ルークの背後の地面がひび割れるのを見てしまった――
「ルークさん、後ろ――!」
背後からルークの心臓目掛けて射出される棘の穂先。
それはまるでロゼの魔術を再現したかのようで。
ネロは使えるはずのない能力を行使したのだ。
不意を突かれたルークであったが、反応できなかったわけではない。
急所だけには直撃させまいと身体を半歩分横にずらす。
おかげか棘が貫いたのはルークの心臓のすぐ隣。即死は間逃れたものの致命傷に変わりはない。
ルークから零れ落ちた大量の血液が大地を塗らす。
すると、闘技場の大地が赤黒く光りだし、複数の線となって巨大な魔法陣を形成する。
突如発生した魔法陣。カレンはそれに心当たりがあった。
「まさか星座の術式? けど、魔術師もいないのにどうして――」
カレンが疑問する。それは前提条件として魔術師と能力者がそろわなければならず、かつ死闘を繰り広げる必要がある。
ならば何故――
「――くっ、貴様っ!」
ルークは棘を魔弾の余波で消し去り、その流れでネロに魔弾を直撃させ弾き飛ばす。その衝撃でネロはルークから数メートル吹き飛ばされ地に屈した。その姿は再起不応なほどに引き裂かれたボロ人形と化していた。
ルークは魔槍を杖代わりにし、その場に膝を付く。既にその場を離れる力すら削がれてしまっているのだ。
対するネロの状態保持能力が発動する。
カレンにとって見慣れたその力は、ネロが味方でいた場合にこそ安心感をもたらしてくれるものだった。
しかし今の状況でいえば、それは絶望でしかない。どれだけネロを傷つけようとも、彼が止まることはないのだから。
ネロを止めるために、その体力が限界に達するまで同じ痛みを与え続けなければならない。カレンにとってこれほど悲痛なことはない。
その光景を再び見なければならないかと思うと、心が張り裂けそうだった。
ネロは再び完全な狂戦士として立ち上がる。が……。
「……え?」
ネロの再生はもう終わったはずだ。
しかし、ネロの身体の変化が止まることはなかった。
その力はカレンが知っている物とは違う何かに変容している。
ネロの身体は、腕、首、少なくともそれら服に覆われていない目に見える範囲の皮膚が、まるで爬虫類のような、竜のような鱗状の何かで覆われていたのだ。
「――これは」
ルークが囁く。
星座の魔術の発動。ネロの身体の不可解な変化。
その答えにルークは心当たりがあった。
「そうかネロ。おまえ、ドラゴンフォースを使ったな。液状化させた魔術礼装を使用者の身体に侵食させ、その身を竜の如き強靭なモノへと変貌させる。あれは異能ではなく一つの魔術だ。
異能の力が抑えられ、反してその魔術が全身に満たされたことで、この土地はネロを魔術師と誤認したということか……」
ネロの身体は既にドラゴンフォースに侵食され、彼が持ちえた能力も、その枷も、まったく別の何かに書き換えられていったのだ。
しかしルークの魔槍の影響かそれ以上の変化は起こらず、逆に巻き戻しをするかのように身体を覆う何かが崩れ始めている。
それでもなお悠然と佇むネロ。
異様な光景だった。
先ほどまでの咆哮が嘘のように静まりかえる。
カツカツカツ、とネロがルークに向かって歩く。
その静寂が恐ろしい。
悪い夢でも見ているかのようだった。
ネロからは生物としての精気が失われ、まるでただの機械人形のように動く。
一切無駄のない流れるような動作。ルークの前に辿り着いたネロは掌をルークの頭部へかざす。
いままでネロが披露してきたような武術ではない。何か違う魔術を発動しようとしている。
ルークは未だに足に力が入らず、身動きが取れずにいる。
ルークの頭部に漆黒の魔力が逆巻く。
何をしようとしているのかは歴然だ。ネロは今、無慈悲にもルークの頭部をその魔力で潰そうとしているのだ。
くっ、と唇を噛みしめるルーク。
「……ここまで、か」
漆黒の魔力がルークを包み込む。
その隙間さえなくなり、カレンからはもうルークの表情が分からない。
ネロの行動が止まることはない。
「やめ、――」
ネロは、本来のネロの意志と関係なく、目の前に膝まづくルークを殺そうとしている。
カレンは思う。ルークはネロにとって超えるべき対象だ。しかし、ネロはこんな形でルークを倒すべきではないと。もうこれ以上、身内同士での殺人行為をさせてはいけないと。
「やめて、――」
泣きたい気持ちで一杯だった。
目を逸らしたい気持ちで一杯だった。
逃げ出したい気持ちで一杯だった。
それでもカレンが逃げなかったのは、紛れもなく目の前の相手がネロだったことにある。
カレンがこの世に再び生を受け、それから何があってもずっと見守ってくれた。過去の記憶が欠落していたにもかかわらず、カレンを大切に想い続けてくれた。
命を投げ出してでもカレンを、研究所に住む家族みんなを守ろうと必死に戦ってくれた。
そんな彼をこれ以上苦しめてはいけない。
カレンは力の限り駆ける。
ネロの元まで一秒もかからない。
数歩の助走の後、ネロに向かって飛び掛かる。
「やめて、ハクア――っ!!」
一息で間合いを詰め、空中でネロの頭部目掛けて回し蹴りを放つ。
ルークに目を向けていたネロはそれに反応することができず、その一撃が直撃した。
その衝撃で十数メートル吹き飛ばされ、ネロはまたしても地に伏すこととなった。
それはルークと比べ大した一撃ではない。状態保持の能力が発動するまでもない程の軽傷だ。
しかし、時間は稼げた。
ネロにルークを殺させなかった。それだけでも今のカレンにとっては上出来といえる結果だった。
ネロが立ち上がるまでの間に、カレンはルークの杖代わりとなり瓦礫の山の影まで移動する。
「――カレン、何故俺を助ける……」
「そんなの知りませんよ。わたしは別にあなたのことなんてどうでもよかった」
「そうだろうさ。だからこそ忠告したはずだ。すぐに離れろ、と」
「それは、できません。だって――」
ネロが苦しんでいるのに、怖じ気づいて逃げることなどできるはずがない。
彼を救いたい。そんなカレンの強い意志が恐怖を相殺したのだ。
震える足に鞭打つように、ネロの前に立ち塞がることを決意した。
「――だって、わたしはもう逃げないって決めたから。ネロさんと、ううん。ハクアとこれからもずっと一緒に歩いていくって、そう決めたんだから」
「やめるんだ、カレン。ドラゴンフォースの変化を抑えはしたものの、未だ暴走状態であることには変わりない。だから――」
ルークからの最後の忠告。
カレンはそれを聞いた上でルークを置いて歩き出す。
「ルークさん。あなたはもう動けないでしょ。だったら次はここで隠れて見ていてください。わたし、こう見えて結構強いんですから」
そう、カレンは優しく微笑んで告げたのだった。
ルークから一つだけ助言を受け、カレンは再びネロの前に立つ。
カレンとネロ。互いに愛し、そして愛される者同士。
その死闘。その最終幕が切って落とされた。




