19. さくらんぼといえば紅秀峰
不明瞭な夢の世界に迷い込み、俺はいつのまにやら都会の喧騒の中を歩いていた。どこからか子どもの声が聞こえてくる。最初は小さく、次第に大きく。
「さくらんぼいりませんかー! 甘くて赤くて大きい、山形のさくらんぼはいかがですかー!」
小学校中学年くらいの男の子が、パック入りのさくらんぼが詰まったかごを持って売り歩いている。初夏にしか出回らない小さな果実は、夏の日差しを浴びて赤い宝石のように輝いていた。
「赤根農園のさくらんぼ、美味いっけべよー! お弁当のデザートにいかがですかー! 贈り物にもぴったりですよー!」
意外と売り込み方か上手くてほほえましい。俺は買いに行こうとしたが、気付いたときにはお客さんが殺到して売り切れていた。惜しいなあ食べたかったのに。
最後に、夏服の男子中学生がやって来た。将来有望な麗しい容姿をしているが、どことなくちゃらんぽらんな感じがする。男の子は大急ぎで駆け寄り、空になったかごを見せた。
「あんつぁま、見てけろ! さくらんぼ全部売り切れたっけべした!」
「おおっ、すごいなー叶は。よしよし、ご褒美のさくらんぼ、く?」
「ん、くー」
年上のお兄さんに頭を撫でられながらさくらんぼを食べさせてもらい、男の子はこの世の天国といわんばかりの満面の笑顔をふりまいた。日陰者の俺には眩しすぎる……邪魔者はクールに去るぜ。
俺は幸せのお裾分けをもらった気分で二人に背を向け、現実の世界に向かって歩いて行った。
「――っは! やばっ、今何時!?」
起床して真っ先にスマホを確認する。現在時刻、六時三十二分。
理解が追い付かない。ほんの一瞬短い夢を見ただけのはずなのに、何なんだこの異常な時間の経ち方は。完璧に寝過ごした! 全身の血がサアッと引いて、ベッドから派手な音を立てて転がり落ちた。
「ち、遅刻遅刻。やばいやばい。怒られる怒られる」
無駄に二回ずつ繰り返しながら着替えた俺は、部屋を飛び出したとたん足を滑らせて池田屋事件のごとく階段を転がり落ちた。
皆五時から仕事しているのだ、一時間半の寝坊はかなり責められるにちがいない。全身打撲を負ったまま、這う這うの体で作業場を目指した。途中、食事当番の芹沢さんが騒音を聞きつけて台所から出てきた。
「天見……大丈夫か? 今日も仙台行けるか?」
「だいじょぶです、逝ってきます……」
虚ろな笑みで親指を立てる俺。だいぶ社畜として訓練されてきたようだ。血反吐を吐いてでも職務を全うする所存であります。よい子の皆は絶対に真似しないでね! 絶対だぞ!
作業場に出ていくと、赤根さんの姿が見当たらなかった。今日販売する用のブロッコリーでも収穫しに行っているのだろう。痛む身体をさすり、九条さんと那須くんにしおらしく挨拶した。
「おはようございます。寝坊してしまってすみませんでした……」
「謝ることはない。不慣れなうちから早起きするのは辛いだろうからね。気持ちを切り替えて、商品の積み込みを開始してくれ」
冷静に指示を出してくる九条さんは、紫白菜を半分にカットして袋に詰めているところだった。
那須くんは俺の方を見ようともせずにケールを計って袋詰めしている。青汁の原料として有名なだけあって、昨日も十袋用意したところ早い段階で完売していた人気商品だ。最近は自宅で青汁を手作りする人が増えているため、需要が高まっているらしい。
それにしても那須くんは、赤根さんに弱みでも握られてるのかってくらいよく働くな。一体何が彼をそうさせるのか。俺が口を出すことではないが、どうか幸せな人生を送ってほしい。
寝起きの頭で勝手に人の幸せを願う俺は、気を取り直して商品が入ったコンテナを台車に積んで外まで運んで行った。
「ドーは土垂れのドー、レーはれんこんのレー、ミーはみさきのミーっと……」
俺発案のドレミの歌・農家バージョンを口ずさみつつ、トラックの荷台を開ける。
意味が分からないという人のために注釈を入れておくと、『土垂れ』は里芋、『みさき』はキャベツの品種名だ。って、俺は誰に説明してるんだ? まあいいや。
積み込みを始めようとしたら、突如赤根さんの怒鳴り声が轟いてビリビリとあたりの空気を振動させた。
「だーッ! てめえどの面下げて帰ってきやがった! 今すぐ尻尾まいて帰れ裏切りもんが!」
すさまじい迫力に首をすくめて身構える。と同時に、赤根さんが誰に向かって怒声を発しているかも分かってしまった。仙台の駐車場でうずくまる俺に声をかけてきた、あの怪しい男性だ。
トラックの陰から半分だけ顔を出してみると、やはりそこにいた。情熱的な赤いアウディから降りて涼しい顔で赤根さんに歩み寄っている。外車といいスーツといい腕時計といい、小学生が描いた「ぼくのかんがえたさいきょうのかちぐみ」を完璧に体現したかのような高額所得者オーラが漂っている。
「おはよう優作。朝から元気だな。いや、お前は昼でも夜でも元気か。兄さんはお前の声を聞くことによって日々の活力と素晴らしいインスピレーションを得ているぞ。ありがとう優作」
相変わらず、話のスピードがプロ卓球選手のサーブ並みに速い。こりゃあ相手の話を聞かないで一方的に言いたいことだけ言うタイプだな。
赤根さんはお兄さんが苦手なのか、ぐっと怯んで後ずさった。分かるぞ、なんか考えが全く読めなくて怖いもんな。
「どうだ優作、水耕栽培に興味は出て来たか。ずぼらなお前には合っているぞ。少なくとも土耕よりは管理が楽だ。病害虫の心配もない上、一年を通して安定した収益を得ることができる。お前、金が欲しくはないのか?」
「ッせーな、金儲けのためだけに農業してるみてーな言い方すんじゃねえよ! 全国の真面目に水耕栽培やってる農家全員に謝ってこいや! おれが大ッ嫌いなのは水耕じゃなくてお・ま・えだよ!」
赤根さんは後退しながらも、顔を真っ赤にして怒っていた。感情の爆発を押さえつけるように肩を上下させ、血管が浮き出るほどきつく拳を握りしめている。
「大体なァ、何なんだよお前んとこで育ててるあの味なしトマト! 一丁前にテレビCMまで流しやがってよ、ぬぁーにが『キスより甘いミニトマトって本当にあるんだよ』、だッ! 納得いかねー、あんな美味くもマズくもねー平均点トマトなんかよりうちのトマトの方が一億万倍美味いんだからな!」
「その自慢のトマトは今の時期でも採れるのか? 見せてみろ、すでに全株枯れているはずだ」
「ああああ、自然の摂理いいいッ! 家出していった人間が偉そうにしやがってえええ」
赤根さんはどこまでも偉そうな兄を前に、半狂乱になって髪をかきむしっている。
どうも赤根さんは、勝手に独立起業して家を出て行った兄を恨み、さらに兄の育てた何てことはないトマトが高評価を得ていることに納得がいっていないようだ。段々かわいそうになってきた。
「ああもう、今日は仙台行く日だからてめーに構ってる暇なんて一ミクロンも存在しねーんだよ! さっさと消えねーと自慢のアウディ轢き潰してでも行くかんな!」
「仙台か。私のところも今日から伊達味マーケットに参加する段取りでいるんだ。赤根農園の売り上げをどれだけ越えられるか今から楽しみだ。それと優作、今度仕事が終わったら二人で飲みに行こう。都合のいい日に連絡をくれよ、いつでも迎えに来てやるからな」
「そんな日は未来永劫やってこねえよ」
我慢の限界といったふうに顔全体をひきつらせる赤根さんを置いて、豊作さんは悠然と愛車の元へ戻って行った。あれ、昨日会ったときは俺をハウス見学に連れて行くとかなんとか言ってたはずなのに。弟と話せたことに満足して、俺の存在なんて完全に記憶から消えてしまったのだろう。
結局豊作さんは言いたいことだけ言い捨てて赤根農園を後にした。赤根さんは怒りが収まらないようで、歯が欠けそうになるほど歯ぎしりして兄の去った方向を威嚇していた。
「このサイコ電波野郎……二度と来んじゃねえぞ! おい那須! 塩撒いとけ塩!」
赤根さんが作業場に向かって叫ぶと、命令に忠実な那須くんが塩を袋ごと持ってきて豪快に玄関前にぶん撒いた。こういうのって食塩でもいいのかな。
我に返った俺は、作業の遅れを取り戻すべく猛スピードでトラックに野菜を積み込んだ。
今日は昨日より三十分も出発が遅れてしまった。販売担当の俺と那須くんは、持ち物の不備を確認する余裕もなく、慌ただしくトラックに乗り込んで出発した。
走行中、俺は助手席に座っているだけなのだが何となく気が急いてそわそわしていた。
「豊作さんが作ってる野菜って、そんなに評判いいのかな」
「さあな。ただ味がしないことだけは確かだ。そのくせ夏場の販売の時『お前んとこのトマトよりうちのトマトの方が美味そうだ』とか上から目線で喧嘩売ってきやがったから、その場で首の骨へし折ってやろうかと思った」
運転席の那須くんもかなりのストレスを溜めこんでいるようで、眉間にしわを寄せてクレイジーな発言をかましてきた。当時の那須くんは頭に来て、トマトの試食を配ることでお客さんの舌をつかみ味の違いを証明してみせたそうだ。
たしかに、食品を売る時は試食販売ほど効果的なものはないだろう。外見がどうあれ美味しいと分かれば買うし、いまいちなら買わない。単純明快ですっきりする。
「いいなあ、俺も早く赤根農園のトマト食べたいなあ。夏の始めにはさくらんぼも採れるし、楽しみがたくさんあっていいね」
「気楽だなてめーは。六月入ったらさくらんぼ地獄だぞ。食欲失せるほど作業場中に溢れかえるかんな」
軽い脅しによって楽観的な思考がわずかに薄まった。さくらんぼ地獄。かわいらしさと狂気を同時に内包した禍々しき響きである。
俺は自分がさくらんぼの大海原で溺れる妄想にとらわれて震えた。のどに詰まって窒息死とかしたらどうしよう。
「けどそろそろ樹の植え替え時だから、来年は採れねーかもな。あの地獄がなくなると思うと気が楽だけどよ」
「え、そうなんだ。残念……」
「そんなにさくらんぼが気になるなら、『果樹担当になりたいです』っつって立候補しろよ。赤根さん、稲作と果樹は性に合わねーってぼやいてたし。喜んで樹の管理とか任せると思うぞ」
「俺はどちらかと言えば花担当がいいな……あ、来年からは『かきのもと』育てようよ! 売れるよきっと」
「なんだよそれ」
「菊だよ菊! 俺、菊のお浸し大好きでさー。毎年十一月にある弥彦の菊まつり観に行って、夜ご飯に菊食べるのが天見家の恒例行事なんだよ。あのシャキシャキした歯ごたえと何とも言えない風味、いいよねー」
「山形だと『もってのほか』って呼ぶんだよ。次に新潟の話したら、指を一本ずつ折るぞ」
「なして!? 俺は過激派新潟県民だから、禁止されても新潟の文化を布教していくからね!」
その後もポッポ焼きやら笹団子やら新潟のおいしい物について滔々と語っていくと、那須くんから「うるせーな、そんなに帰りたいならさっさと帰れ!」と怒られた。
「ごめんごめん。俺、まだ山形の美味しい物とかあんまり食べたことないから……」
「なら今度どんがら汁作ってやるよ。あと、ウコギの天ぷらと、ヒョウ干しの煮物」
「ヒョウってなに?」
「スベリヒユ。雑草。山形の内陸民は山に生えてる物なら何でも食うからな。夏に採ったやつを乾燥させて、正月に食うんだよ。『ひょっとしていいことがありますように』っていう意味でな」
「へえー、初めて聞いた……」
スベリヒユ自体は農業高校の授業で習ったが、まさか山形県民の食糧になっていたなんて。ちなみに『ウコギ』は家の垣根に使われる植物で、米沢が誇る偉人・上杉鷹山公が栽培を推奨していたらしい。
芋煮は作ってくれないんだ、とつい零すと、
「那須家は庄内風の芋煮だから、スタンダードな芋煮が食いたけりゃ赤根さんに頼め」
と返された。どうやら、山形県内でも芋煮の派閥があるらしい。庄内風は野菜に豚肉が入った味噌仕立てで、九条さんが作る仙台風の芋煮と似ているそうだ。俺は別に、美味けりゃなんでもいいけどね。
お腹の空く話であれこれ盛り上がっている内に、トラックは昨日と同じ道を辿って仙台市内に入った。
しかし出発時間が遅くなったためちょうど朝の通勤ラッシュにつかまり、思うように進まない。運転する那須くんは舌打ちして脇道に入り、遠回りのルートでどうにかパーキングに車を停めた。
赤根農園で育てているさくらんぼは、紅さやかです。早生品種なので、収穫が遅れると黒っぽい色になります。
六月になると山形の直売所には紅秀峰、佐藤錦、紅てまり、月山錦、大正錦など様々な品種のさくらんぼが並ぶので、「か、かわいい~!」と見惚れてしまいます。




