第一章 南京、昭和十二年十二月
最初に異変に気づいたのは、双眼鏡を覗いてる伍長だった。
「佐伯。あそこを見ろ」
源蔵は、伏せた姿勢のまま、伍長の指さす方向へ目を向けた。
崩れかけた土壁。その向こうに、屋根の落ちた建物がある。瓦礫と土煙に覆われ、少し前まで人が暮らしていた場所とは思えなかった。
その陰に、男が一人いた。
中国兵だった。
男は身を低くし、瓦礫の隙間からこちらを見ていた。銃を構えているわけではない。ただ、じっと見ている。
「敵だな」
伍長がつぶやいた。
「はい」
「ずいぶん落ち着いた野郎だ」
源蔵は答えなかった。
男の様子が気になった。
戦場で敵を見つけたとき、普通なら身を隠す。こちらの位置がわからなければ、なおさらだ。ところが男は、まるでこちらの人数を数えるように、時折、顔を上げていた。
源蔵は三八式改狙撃銃の照準を男に合わせた。
引き金に指をかける。
まだ撃たない。
男が何をしようとしているのか、確かめたかった。
そのとき、男の右手が動いた。
手にしていたのは、小さな銃だった。
拳銃。
源蔵は一瞬、自分の目を疑った。
男はそれを両手で扱い、身体の前に構えた。拳銃の後ろには、木製の部品が伸びている。肩に当てるためのものらしい。
そして、銃の上には奇妙な照準器が立っていた。
拳銃にしては、あまりに大げさな造りだった。
男は照準器をのぞき込み、こちらへ銃口を向けた。
「おい。あれは何だ」
伍長の声が、わずかに低くなった。
「拳銃のようです」
「そんなものが届く距離じゃないだろう」
「……そう思います」
源蔵は狙撃銃を構えたまま、男を見ていた。
距離はある。
こちらには狙撃銃がある。
向こうは拳銃だ。
普通に考えれば、勝負にならない。
だが、男は逃げなかった。
その目は、こちらを見ていた。
いや、見ているだけではない。
こちらの位置を探り、何かを測っているようだった。
男が引き金を引いた。
弾丸は源蔵の位置から外れ、土壁の手前に落ちた。
乾いた発砲音が、遅れて届いた。
男は銃を下ろさなかった。
着弾した場所を確かめ、再び照準器をのぞいた。
源蔵の背中に、冷たいものが走った。
こいつは、もう一度撃つつもりだ。
拳銃で。
こちらの狙撃銃を相手に。
源蔵は照準を修正した。
引き金にかけた指に、わずかに力がこもる。
撃てば終わる。
そう思った。
しかし、男が再び銃を構えたとき、源蔵はすぐには撃てなかった。
男の銃の上に、細長い金属の照準器が見えた。
その小さな部品が、なぜか気になった。
男は何を信じて、あんな銃を構えているのだろう。
源蔵には、それがわからなかった。
そして、わからないものを前にしたとき、人間は時として、わかっているものよりも強い恐怖を覚える。
男の指が、再び引き金にかかった。
今度は、源蔵の番だった。




