月明かり、まほろば
ユイトと婚約者になってしまってから早数日。私は自室に隣接する書斎で、書類仕事を請け負っていた。
魔王……とは言っても、代理だけれど。そのお仕事の量は本来の魔王と遜色ない。しかも、本来ならば、母様や父様の担うはずの仕事ですら。私のところへと舞い込んでしまっているのだから……余計に手を付けられない。手が回らない。本当に、二つ返事で仕事を受けてしまう私もどうかと思うけれど。ユイトやサクラお姉様、アランさん、アイクさんと関わる暇などすでにないに等しかった。
「もう…いやだなぁ……」
この忙しさなんて、一ヶ月前なんて考えられもしなかったのに。同盟関係を結んだからか、やけに忙しくなってしまった。こんなことなら……やらなければよかったのでは……?とか。思わなくもないけれど。国民のためを思うとなると話は別。私の利益なんかを優先する理由なんて――スプーン一匙分もないのだから。
積み重なった書類の山を避けるように。机の上に伸びてみる。無駄に広さのある机は、父様ならちょうどいいのかもしれないけれど。私には、荷も……机も重すぎることには変わりない。それとは相対するように、一枚の紙がはらり、と舞った。あ、と思う間もなく、床へと滑り込んだ書類は、とある報告書だった。
「……通信機器研究の第一人者の失踪」
アメジアが開発した、件の通信機器。遠方にいる人と連絡を取ることができるそれは、とある研究者が持ち込んだものだった。そもそも、誰が魔法でそんな道具を作れると思ったのか。頭の柔らかい人がいるものだと、尊敬の念を抱いたのは記憶にも新しい。
私なんか、そんなことはできないと視察に訪れたときに言ったことも。全部、ぜんぶ覚えているのに。第一人者の――綺麗な桃色の髪を持った彼女は、私には私にしかできないことがある、とぎこちない笑みを浮かべていたというのに。掬い取った水が指の間から抜けていってしまうように、無力感に襲われてしまう。
「……なんでかなぁ…?」
抱いた疑問は案外簡単に口から零れ落ちた。技術面などは既に量産段階に入っているのだから問題はない……のに。案じたのは、研究者の彼女のことだった。これからの研究はどうするのかだとか。そういうものではなくて、ただの心配。視察で会ったのはたった一度きりだとしても、私の心の奥深くには残っているのだから。
落ちた紙を見つめながら、頬をふくらませる。自身の不甲斐なさが刺さってしまって。痛くないのに痛い。そんな、矛盾した気持ち。考えようなんて、いっぱいあるものだと笑えてしまう。第三者から見た、私なんて……ちっぽけすぎる存在に変わりがないのに。
煌々と私の頬を照らしていた照明はとっくに落としてしまった。今は、微かな月明かりだけが頼り。サリア様と出会ってから既に一週間経過したことも分かってしまった。日付感覚なんて、とっくに狂ってしまっている。
「……今日は寝よう」
大人しく。最近庶務に追われて眠れていなかったから。理由を並べてベッドに向かおうとした時だった。月明かりに照らされた私の部屋を一つの影がよぎった。思わず、窓の外を振り返れば、満月の前を横切るひとつの――影が。
は、と息を吐いた。信じられないものでも見たかのように、目を擦る。……見間違いなんかじゃ、なかった。
今の魔法の技術的に、長く空宙を飛ぶなんてことは不可能なのは確かで。魔族一の魔法の使い手と呼ばれた母様ですら、数分が限界だというのに。それならば、彼女は……一体何者なのだろうか。
そう感じたときには、既に転移魔法を使っていた。駆けていくよりも、断然速く追いつくことができるからだとか。そんな、理由は今はどうでもいい。とにかく、知的好奇心だとか、御託の並べようのある理由で詠唱していた。
「………――待って!!」
こんなに大声を出したのはいつぶりだろうか。もう、数えることなんて諦めてしまった。でも、私の無様な必死さを感じたのか、彼女は私の方を振り向いた。
「あら。月が綺麗な夜なのに……そんなに急いでどうされたんですか?」
明るすぎる月明かりが逆光となって、彼女の顔が見えない。でも、綺麗な桃色の髪が風に揺れた。
「あなたは…!どうして……!」
「……とりあえず息を整えてください。私は逃げませんから。」
「ありがとう……?」
優しさに縋って。この優しすぎる優しさに既視感を覚えた。どこかで、感じたというか……受けた。それと同じ系統だ。
そう思って、顔を上げると、眼鏡越しに彼女のシャンパンガーネットと目が合った。その瞳は動揺に揺れることはなく、ただ私だけを見つめている。その異常性にか、分からないけれどゾクリ、と背筋に嫌なものが伝った。知らない感覚だと、体全体が訴えかけてくる。
次の瞬間、私は思わず息を呑んでしまった。それは、罪悪感からか、運命を感じたからかは確かではないけれど。
「……私のことを覚えていますか?――姫様」
たしかに、目の前には。遠いあの日、研究所で出会った通信機器の第一人者――ロゼの姿があったのだった。
とある、桜の雨。愛を取り零した少女の間。




