第五話:水晶の令嬢、初めての自発的な行動
1. 感情の芽生えと老執事の洞察
離宮での生活に慣れ、エララの肉体は完全に回復し、心にも静かな安息が訪れていた。日々の安寧の中で、彼女は長く押し殺していた感情の小さな芽生えを感じていた。それは、ダリウスへの「感謝」だった。
(この方は、わたくしを「解明の対象」と呼んだ。けれど、その目的のために、わたくしにこれほどの安寧と、心の自由を与えてくださった……)
このまま無機質な物として高待遇を享受するだけでは、彼の「公正な好奇心」に応えられない。そう考えたエララは、生まれて初めて、自分から何かをすべきだと決意した。
彼女は、離宮のすべてを完璧に管理している老執事、アルフレッドに声をかけた。アルフレッドは、四人もの王子を見守ってきた、穏やかで細やかな気遣いの持ち主だった。
「アルフレッド様。ダリウス殿下は、いつお一人で書斎にいらっしゃいますか。わたくし、殿下にお伝えしたいことがございます」
アルフレッドは、無表情だが決意を秘めたエララを見つめた。彼は、エララが書庫で夢中になって本を読んでいることも、ダリウスが彼女の衣食住に異常な熱意を注いでいることも知っていた。
(殿下は「解明」だと仰せですが、あれはすでに「独占」と「庇護」に近い情熱です。そして、このお嬢様も、ついに心を開き始めた)
アルフレッドは静かに微笑み、協力することにした。
「エララ様。殿下は毎夜、日付が変わる頃に書斎で書類仕事に集中されます。その時間が、よろしいかと存じます」
2. 感謝の言葉と、ダイヤモンドの動揺
その夜、エララは、アルフレッドに教えられた時間を見計らって、書斎の扉をそっとノックした。
「失礼いたします。エララでございます」
ダリウスは、報告書に目を通していた手を止めた。彼のダイヤモンドの瞳には、彼女が自発的に行動を起こすという、計画外の非合理的な事実が映っていた。
「入りなさい、エララ嬢。何か問題があったのかい?」
エララは、書斎の中央まで進み出ると、優雅な淑女の動作ではなく、心からの感情を込めて、深く頭を下げた。彼女は、無機質な仮面を、この時ばかりは少しだけ緩めた。
「殿下。わたくしは、この離宮での厚遇に、心より感謝申し上げます。伯爵家にいた頃には考えられなかった、静かな安息をいただいております。特に、殿下の私的な書庫で、好きな本を読めることが、わたくしの何よりの喜びです」
彼女は、これまでの生存本能ではなく、純粋な感謝と喜びの言葉を口にした。
ダリウスのダイヤモンドの眼は、即座に、彼女の言葉の真実性を解析した。
(真実……。言葉の裏に、打算や恐怖、偽り、屈従の意思が一切ない。純粋な感謝の感情だけが、彼女の魂から発せられている)
ダリウスは、王太子として、褒め言葉や感謝の言葉を幾千と受け取ってきた。それらの言葉はすべて、「利得」という黒いシミを伴っていた。しかし、エララの言葉は、一点の曇りもない透明な光だった。
彼の完璧な理性は、激しく動揺した。
「感謝、だって? 僕は君を解明するためにここに置いたのだぞ。君はただ、僕の好奇心に応えているに過ぎない」
ダリウスは、いつもの冷静な口調を保とうとしたが、声にわずかな動揺が滲んだ。彼は、エララの無垢な感謝が、非論理的に心地よく、そして、この感情を失いたくないという衝動に駆られていることに気づいた。
(この感情はなんだ? これが、孤独を埋めるという感覚なのか……)
彼の視線は、もはや「解明の対象」としてではなく、「守りたい、汚したくないもの」として、エララを捉え始めていた。




