27.キロヒ、出会いを思い出す
キロヒは、入園後初めて教室に居残りをした。
授業が終わる時間になっても、精霊の息吹が成功しなかったからである。
「夕食の時間まで、この教室は開放しておく。一人の方がうまくいくと思う者は、この教室で。スミウやイヌカナがいても構わない者は、寮の自室でやるといい」
キロヒは一人でやりたい派だったので、イミルルセにそう告げてサーポクと部屋に帰ってもらうことにした。ニヂロも残るようだ。
「僕たちは寮に戻るよ、またね」と、クロヤハがうなだれながら挨拶をしてくれる。彼とシテカは、残り二人の成功組に腕を掴まれて連行されていった。
精霊との円滑な対話は、残り二人の方が上手そうだ。特に壊滅的な対話能力のシテカは、たくさん助言をもらった方がいいだろう。
そういう意味では、ニヂロもイミルルセの助言をもらった方が、早くうまくいくだろうとキロヒは思った。だが、大半の人ができていることができないのは、彼女にとっては心底屈辱のようだ。完全に意固地になっているように見えた。
教室に残ったのは、二十人ほど。
普段、二百人が詰まっている教室が、がらんとして見える。
おかげで距離を取って座ることができるので、キロヒは一番壁際の席に移動した。そして、身体をやや壁側に向けて膝の上に亜霊域器を載せた。こうすると、この空間に自分とキロヒだけがいるような気分になれるからだ。
「可愛い精霊さん、初めまして。キロヒです。お友達になってください」
「ぴゅう?」
大きな声を出す必要はない。小さな声で、キロヒは語り掛ける。
「ふふ、クルリ、忘れちゃった? おばあちゃんの家の裏で初めて会った時、私、さっきみたいにちゃんとご挨拶したでしょ?」
「ぴゅういぃ!」
クルリも思い出してくれたようだで、瓶の中でぴょんぴょんと上下に跳ねる。
「出会ったのは、いまくらいだったよね。クルリは木の上から飛び降りて、くるくる回りながら枯葉の上に舞い降りて。また風で木の上に戻って、また舞い降りて。何回も何回も遊んでたよね。私、びっくりしたんだよ……えへへ」
「ぴゅぷー」
お互い笑い合う。
キロヒは六歳。妹たちは四歳と三歳。母親の病気の間、祖母宅に預けられていた時のことだった。
妹たちがようやく寝付いてくれた晩秋の午後。へとへとになりながら、キロヒは裏庭に出て石の段差に座って外を見ていた。
裏庭の低い垣根の向こうは、林だった。裏庭にも落葉樹のロウバイが植わっており、黄色い葉がはらはらと落ちていく向こう側で、林の葉たちも色とりどりに舞い落ちていた。
美しいけれど、肌寒く少しもの悲しい光景を、キロヒはいまでもよく覚えている。家や母が恋しく心細さでいっぱいになって、泣きそうになていた。
「ぴゅうっ」
そんな時、風の音が聞こえた。その時のキロヒは、そう思った。
落ちかけていた視線を上げて、彼女は思わず風を探した。風そのものは、目で見えるわけではない。しかし木々の揺らめきや、落ち葉の流れで見つけることができる。
そんなキロヒの目に留まったのが、あきらかにロウバイの黄色とは違う茶色い落ち葉だった。
ロウバイの枝から、ひらりはらり、くるりくるりと絶妙な回転と揺らぎを見せながら、その葉は地上へと向かう。
たまには違う色の葉も混ざっているのかなと思っていると、葉っぱが時間を巻き戻すように風に乗って木に戻って行く。
キロヒは、ぽかーんとその口を開けて、戻る葉を見送った。再び、ひらりはらりくるりくるり。
何度も行われるその枯葉の動きは、彼女にとって不思議であり、そしてまた楽し気でもあった。
楽し気と言っても、手放しでの元気さがあるわけではない。目を見張る華やかさでもない。
一人でこっそり楽しむ小さな幸せ──そんなものをキロヒは目にしていた。その時の彼女の心には、それこそが一番必要なものでもあった。
ただただその枯葉を見つめ続けていると、枯葉ではない部分が少しずつ現れていくる。それは不思議な感覚だった。合っていなかった目の焦点が、正しい距離でだんだん整えられていく感覚。
現れたのは、枯葉のドレスを着た小さな女の子の人形。初級精霊の頃のクルリだった。
「……せいれいさんだ」
父親に見せてもらったことがある。絵本で見たことがある。だから、それが精霊だと分かった。
キロヒはそぉっと立ち上がった。胸が高鳴る。木に戻って行く精霊に、一歩一歩近づく。そして空に両手を差し出した。
精霊が、自分に舞い降りてくれるように祈りながら。
精霊が木から飛び降りる。
ひらりはらりと、くるりくるりと。
キロヒは動けなかった。精霊を追いかけて右に左に移動したかったのだが、小さい時の彼女はもっとのろまだった。妹たちの方が、よほど素早かった。
だから、どうしたらいいか分からないまま、手を差し出して動けなかった。
キロヒの代わりに、精霊が右に左に舞う。風で流され、回転で戻り──キロヒの少し曲げた指に引っ掛かって、ぽてりと手のひらに落ちた。
「ぴゅうい?」
そっと手を下ろすと、不思議そうに見上げて来る小さな種の目。この時はまだ、どんぐりの目ではなかった。
「かわいせいれいさん、はじめまして……キロヒです。あの、おともだちに、なってください」
精霊教により作られている絵本は、子供が初めて精霊に出会った時の作法が、物語で描かれていた。だからキロヒもちゃんと覚えていた。いつか、自分にも精霊の友達ができすようにと祈っていたから。
「ぴゅるるー!」
嬉しそうに、小さな精霊は両手を上げてみせた。キロヒにもそれが伝わって嬉しくなった。
「あ、おなまえ……おともだちのやくそくの、おなまえをきめないと。ええと……くるりくるりがたのしかったので、クルリでいいですか?」
「ぴゅういー」
こうして、キロヒとクルリは友達になった。
そんな思い出の記憶をたどり、一人と一霊は放課後の楽しい時間を過ごす。瓶の中で、思い出の中と同じように、クルリがぴゅるぴゅると笑い続けた。
気が付いたら──蓋が開かなくなっていた。きっとこの瓶の中には、たくさんの友達の笑い声が詰まっているのだろう。そう思うと、嬉しくなってクルリを瓶ごと抱きしめていた。
「ありがとう、クルリ。またいっぱいお話しようね」
「ぴゅうー」
キロヒは亜霊壁器を抱えて、椅子から立ち上がった。
そう言えば、ニヂロはどうなっただろうと、そぉっと肩越しに振り返る。
ニヂロは瓶の中のツララと、にらみ合っていた。
もうしばらく、彼女には対話の時間が必要なようだった。




