28.キロヒ、理解できない
夕食の時間になっても、ニヂロは屋根裏部屋に戻ってこなかった。
あのニヂロが夕飯を抜くとは思えないし、教室は夕飯の時間には閉めるとラエギーが言っていた。
「一応、教室に寄ってから食堂に行った方がよいですわね」
「そうですね」
「おなかすいたとよ。でも、よかとよー」
イミルルセの言葉に頷いて、三人で階段を下りる。二階まで下りて、教室に向かう扉に手をかけたが、それが開くことはなかった。
「一人で食堂に行ったのかしら」
とりあえず、階段を挟んで反対側の扉に向かおうとした時、二階の部屋の女子たちが四人と、ちょうど鉢合わせた。彼女たちも食堂に行くところなのだろう。
こちらはザブンを背負ったサーポクがいる。ザブンの幅があるし、サーポクの動きはゆっくりめだ。階段を先に行かせようと「お先にどうぞ」と、扉を譲る。
「……あなたたち、屋根裏部屋の子でしょ?」
彼女たちの先頭。部屋の中で主導権を握っていそうな、しっかり者を絵に描いた少女が、足を止めてそんな聞き方をしてきた。残り三人が、小さく笑いながら振り返っている。
何を振り返っているのか。キロヒはそちらへ視線を向けたが、扉の前から見えるのは、外に向かう扉とその左右に伸びる、大きな窓から見える景色だけ。景色といっても、暗くなりかけた空と、ほとんど見えなくなろうとしている遠景だけ。
「ええ、そうでしてよ」と、イミルルセが代表として答える。サーポクという目立つ存在がいるので、わざわざ確認するような内容ではない。それをあえて口にしたということは、何か強調して言いたいことがあるのだろう。
「そう、じゃあスミウとして注意してきたらどう?」
しかし、少女は意味の分からない言葉を投げかけてくる。
「どういうことですの?」
くすくすと後ろの女の子たちの笑い声が増える。
「自分で見たら? 私だって、あれが何なのか分からないもの。頭おかしいんじゃない? じゃあね」
彼女は、さっきから少女たちが振り返っている方向を指差し、話は終わったとばかりに扉をくぐって食堂へと降りていった。
「どう……いうこと、ですの?」
「さあ……」
彼女たちが、何か苦い味の忠告をしてきたことは分かったが、その意味はさっぱり分からない。とりあえず三人は、窓辺に近づいて外を見ることにした。
「え?」
「……ああもう、一体何をしてるんですの」
「ニヂロおったとよー」
キロヒは茫然と。イミルルセは頭を抱え、サーポクはスミウを見つけて喜んだ。
窓の外。見下ろすと、そこには確かにニヂロがいた。
両手で瓶を抱え、地面に座り込んでいる彼女は──肌着姿だった。
慌ててキロヒたちは、外に出ようとした。けれど扉は閉ざされている。一体どうやってニヂロは外に出たのか。
窓は開かない。扉も開かない。どうやって外のニヂロに、奇行をやめさせられるのか。
焦るキロヒだったが、その現状を打破してくれたのは、サーポクだった。
「開けて欲しかとよー。外のニヂロを迎えに来たとよー」
彼女がそう言って扉を押すと、さっきまでの拒絶が嘘のように開く。キロヒは納得した。
ここの扉には、意思がある。初めて来た時、「一年生です」と言わないと開かなかったこと。ニヂロが怖すぎて屋根裏部屋から出ようとしたら、勝手に閉じて開かなくなったこと。
開くことは許可であり、開かないことは拒否である。その拒否を許可に変えるには、扉の意思に訴えて了承されなければならないのだ、と。
いままさに、サーポクは訴えた。ニヂロもそうしたのかもしれない。
扉の気が変わらない内に、急いでキロヒたちは外に出た。途端、寒風が容赦なく顔を殴って来る。キロヒは首を震わせた。
薄暗い階段は危険だ。イミルルセは、サーポクの手を握り下りて行く。キロヒも何かあったらサーポクを支えようと、気にしながら階段を慎重に降りた。
「ニヂロー、ご飯とよー」
そんな二人の気遣いに守られているサーポクは、この三人の中で唯一大声を出せる人間でもあった。
階段の途中から放たれる、遠くの人に声を伝えるための喉の力は強い。常に繰り返される潮騒の中で、距離のある人との会話に慣れ切っている。
いま言うべき最優先事項は、食事のことではない。しかしニヂロの注意をひいたたことには、意味があった。
誰が来て、誰に見られているかをニヂロに知らせることができたのだから。
「あー……うるせぇな。分かってるから帰れよ」
袖のない生成りの肌着は、この学園で支給されたもの。スラックスははいているが、膝上までまくりあげているし裸足だ。近くに上着とシャツ、靴下に靴が放り投げられているのが見える。全て学園の支給品だ。
振り返ったニヂロは、鬱陶しそうに手を振って彼女たちを追い払おうとする。
「何て格好をしてるんですの……早く服を」
「うるせぇっつってんだろ! ぬるいんだよ、あの中は!」
イミルルセの当然の指摘に、ニヂロは怒鳴り返す。その手が大きく払うような動きを見せた後、いら立った動きで学園を指す。
「部屋も教室も食堂も。どこだってぬるすぎる! 腹が減って震えて眠ることもできやしねぇ!」
キロヒは、ニヂロの言っている意味が何も理解できなかった。
「ニヂロ……本当に寒い思いをする必要はなくてよ? 精霊と思い出の共有ができればそれで……」
「うるせぇ! 思い出したくねぇんだよ! みんながみんな思い出とやらを口にして、楽しいと思うんじゃねえ! そんなことをするくらいなら、いま! 同じ思いをしてやる! いま! ツララに寒さとひもじさを伝えてやる! あの頃と同じなら! ツララが勝手に思い出すだろ!」
全身からの、いや心の底からの叫びに、キロヒは硬直する。精霊の圧ではない。ニヂロそのものの圧だ。
最初から、彼女はどこかぶっ飛んでいた。壊れかけの椅子みたいに、ギィギィと軋んで不安定だった。だが、椅子は勝手に壊れない。乱暴に扱われ、修理もされなければ、壊れかけても当然である。
キロヒには分からない、ニヂロのここまでの人生。それにどう同情したらいいかも、彼女は分からなかった。
けれど、ニヂロは一人ぼっちではなかったはずだ。寒い世界でも、寒さをものともしない友人がいたのだから。
「きゃうん」
心配そうに、ツララが鳴き始めたのだ。きゃうん、きゃうんと、亜霊壁器の壁を前足でかいて、ニヂロに何かを訴えている。
その前足が──瓶の壁にめりこんだ。
亜霊壁器は、座ったニヂロに片腕で抱えられていて、身体と密着していた。後ろ足で立った状態のツララは、うーんと前足に力を入れて踏ん張る顔をする。
「きゃうんっ!」
それは抗議の声だった。
「あぁ?」
意味が分かっていないニヂロが、視線を瓶に移す。
キロヒは、その気の抜ける光景にふふっと笑ってしまった。さっきまでの、痛々しい緊張感が、ぷっつりと切れた気がして、口元が緩んだのだ。
「うふふ、ニヂロ……うふふ」
イミルルセも、気が抜けたように笑い出す。笑いながら、彼女の脱ぎ捨てた服を拾い始めた。
「何笑ってやが……うおっ」
「きゃうん!」
どんっと、ツララが瓶の壁に両前足を打ち付ける。その衝撃は確実にニヂロの腹に届いたようだ。その勢いで瓶が彼女の手から遠ざかり、ゆっくりと倒れていく。
ニヂロの腕に残ったのは、ツララだけ。
亜霊域器はニヂロの足の上から転げ落ち、地面に倒れた状態で止まった。
その蓋は、落ちることなく綺麗に閉まっていた。




