第八幕 七海の秘められし熱意
放課後――というにはまだ少し早い、昼下がり。
校門を出た制服姿の少女たちが、答案用紙の束を手に連れ立って歩いていた。
この日は半日授業。中間テストの返却のみで下校となり、街にはまだ強い日差しが残っていた。
「……はぁー……つかれたー!」
ひのりが両手を上に伸ばして、大きくあくび混じりに叫ぶ。
「てかね、理科32点、英語31点、社会35点――
でも! 奇跡のギリ合格! “全部ギリギリ”って感じだけど、生還したー!」
「……よく“誇らしげに”言えるね、それ……」
七海が少し呆れながらも、苦笑をこぼす。
「七海ちゃんは何点だったの?」
みこが控えめに問いかけると、七海は用紙を揃えながら答える。
「全体平均92点ちょうど。2位だったらしい」
「すごっ! それ“ちょうど”って言い方していい点数じゃないからね!?」
紗里が笑いながら肩をすくめる。
「私は~……うん、普通? 英語と数学が死んで、国語と美術で稼いだって感じ」
「……私は、音楽と国語がちょっと高め……」
みこが小声で言うと、最後に唯香が答案を軽く胸元で揃えながら言う。
「98.2。計算間違いで2点落としたのが悔しい」
「もはや“人間国宝”……」
ひのりがひっそりと呟いた。
信号待ちで一旦足を止め、夏の匂いを孕んだ風が制服の裾を揺らす。
「……せっかく昼上がりなんだしさ」
紗里がふと、ポケットからスマホを取り出して画面を覗きながら言う。
「駅前のファミレス、今なら空いてるっぽいよ。パフェでも食べて、“試験終了ご褒美”ってことで!」
「はいっ、ひのり、行きまーす!!」
と即答したのは、もちろんひのり。
「……私も、ちょっと甘いの食べたい気分」
「うん、いいと思う」
七海も静かに同意し、唯香もうなずく。
「私はバナナ抜きのチョコパフェがあれば、それで」
「うわ出た“指定型”……」
軽口を交わしながら、5人はにぎやかに坂を下る。
その先――昼の陽を浴びて、白くきらめくファミレスの看板が見えていた。
――午後1時過ぎ。
駅前のファミレスに入った5人は、案内された窓際のボックス席に自然と着席した。
「うわ〜、甘いものの香りがする〜……ここ、天国?」
と、メニューを開いた瞬間、ひのりが歓喜の声を上げる。
「“ご褒美パフェ”って、名前がすでに優しい……!」
「名前で選ぶの、ひのりっぽい」
七海は苦笑しながら、メニューを端から順に読んでいた。
「私は……季節のフルーツミニパフェかな。ドリンクはアイスティーで」
「私はチョコバナナパフェ! 絶対はずれないやつ〜、あとコーラかな」
「……私は抹茶系かな。あと、ホットミルクティー……」
「私はドリンクバーの炭酸水で十分よ。糖分は計算に入れる」
唯香が言いながら、何かのアプリでカロリー計算を始めるのを見て、ひのりが小さく震える。
「そ、そこまで厳密にしないでよ……! 楽しむ日って決めたのに!」
「楽しくても数値は誤魔化さない。それが管理よ」
「こっわ!!」
やがて注文が済み、ドリンクバーへ向かう流れに。
「じゃあ、あたしが取ってくるよ〜。みんなの飲み物、覚えてるから!」
ひのりは元気よく立ち上がると、店の奥へ駆けていった。
――数分後。
「ただいま〜! はい、順番に置いてくよ〜!」
そう言って戻ってきたひのりが、まずみこにホットミルクティーを、紗里にコーラを、唯香に炭酸水を手際よく配っていく。
そして、最後に七海へ。
「はい、七海ちゃんのぶん! ……って、アイスティーしかなかったんだけど、いいかな?」
「……変なもの、入れてないでしょうね?」
「えっ、入れてないよ!? っていうか、入れるとしたら何を!?」
一瞬で場の空気に微妙な間が生まれ、全員がひのりを見る。七海、唯香、みこ、紗里――全員が同時に気まずそうに沈黙。
「えっ、何!? なんか今の、妙な空気じゃなかった!?」
「いや〜、なんでもないなんでもない!」
紗里が変な笑いで流しながら、話題をそらすように言った。
「それよりさ、七海が“変なもの入れないで”って真顔で言うの、なんか既視感あったわ~。もしかして、ひのりの過去に何かあったの?」
「……あるよ」
七海がアイスティーにストローを差しながら、小さく溜息をついた。
「中学のとき、私の水筒にメントス入れようとしたことあったでしょ」
「えっ、あれ未遂だからセーフでしょ!? ちゃんと入れてないし!!」
「その“未遂”が既にアウトなのよ……。あと、“エアピンポンダッシュ”とか」
「うわっ、あれは……! って、何それ?」
みこが不思議そうに首を傾げると、七海が苦笑しながら続ける。
「ひのりが、友達みんなに『今押した!逃げろ!!』って叫んで全力で走らせたのよ。でも、実はインターホン押してなくて。走りきったあとに『実は押してませーん☆』って言って、めっちゃ怒られてた」
「うわ、それは怒る!!」
紗里がテーブルを叩いて爆笑する。
「ていうか、走ってるときの罪悪感と焦り、何だったんだろってなるやつじゃん!」
ひのりは両手を合わせて小さくなりながら言う。
「いや〜……あれは“青春の一幕”ってことで、どうかお許しを……」
「“一幕”とか言って正当化するな!」
「てか修学旅行のアレもあったじゃん?」
七海が思い出したように指を立てる。
「そう、“深夜のゾンビ襲撃事件”!」
「えっ!? なにそれ……!?」
みこがビクッと身を引きながら聞くと、七海が淡々とした口調で答えた。
「夜、就寝時間過ぎたころ。廊下のカーテンがちょっと揺れてて、何か来たと思ったら……ゾンビマスクかぶったひのりが、“うぉぉ〜…”って呻きながら覗き込んできたのよ」
「きゃああああ!!」
「寝ぼけた子が本気で泣いて、担任の先生がすっ飛んできて、“おまえは何を考えてるんだ”って怒鳴られてた。あの時はさすがに私もフォローできなかった」
「いやあれはね、演劇的演出のつもりだったんだけど……若気の至りってことで!」
「まさか“恐怖の舞台演出”を本番より先にやってたとはね……」
「マジで“舞風ホラー演劇部”爆誕しかけたから」
笑いが絶えないテーブルの上、ひのりはパフェをつつきながら、なぜか誇らしげな顔。
「でもさ! 今はもう反省してるよ。いたずらより演劇! 笑わせるなら台本通してやるって、ね!」
「その台詞がすでに“台本くさい”のが逆に信用ならない」
七海がそう言ってスプーンを口に運びながら、微かに笑った。
「いやーでも、今こうしてパフェ食べられるなら全部チャラよ」
ひのりが運ばれてきたチョコパフェを前に手を合わせながら言った。
「本当に……反省してる?」
七海が疑わしげに聞き返すと、ひのりは満面の笑みで答えた。
「してるってば! ……たぶん!」
「……たぶん、かぁ」
七海は溜息をつきながらも、どこか嬉しそうにスプーンを手に取った。
笑いの中で始まった、ちょっと遅いランチタイム。
だけど――
この後、七海が静かに打ち明ける“もうひとつの顔”が、仲間たちに新しい一面を見せていくことになる。
パフェと笑いに包まれるテーブル。
ひのりがチョコを口元につけながら「しあわせ〜〜」と頬を緩める横で、七海は静かにアイスティーの氷をかき混ぜていた。
ふと、そんな様子に気づいたひのりが首を傾げる。
「……どうしたの? 七海ちゃん、静かだよ?」
「いや、なんでもないよ」
と笑い返したその表情はどこか曇っていて、ひのりはスプーンを止めた。
「……本当に?」
しばらくの沈黙の後、七海はゆっくりと視線を上げた。
七海はアイスティーを一口だけ飲み、少し間を置いてから、静かに話し始めた。
「……こうしてみんなとパフェ食べてるのも、不思議な気分なんだ」
「え?」
ひのりがスプーンを持ったまま、首を傾げる。
七海は窓の外をちらりと見て、そして小さく笑った。
「昔からずっと、頭の中で物語を考えてばかりいたの。現実より、そっちのほうが楽しくて……。だから、こうやって誰かと笑ってる時間って、私にとっては“非日常”だったのかもしれない」
紗里が一瞬きょとんとした後、冗談めかして言った。
「何それ、七海ちゃんってば案外“隠れぼっち”だったとか?」
「隠れぼっちって何……」
みこが小声で突っ込む中、七海は苦笑しながらも頷いた。
「うん、まあ……そうかも。放課後、一人で図書室行ったり、部屋にこもって小説読んだり、映画の脚本ノートとか書いたりしてた。“こうだったら面白いのに”って、いろんな話を自分で作ってた」
「……えっ、それって……」
ひのりが驚きと尊敬が入り混じった声を上げる。
「七海ちゃん、そんなに書いてたの?」
「うん。でも、誰にも見せたことなかった。“物語”って、私にとってはすごく“個人的な逃げ場”だったから……それを笑われるのが怖かった」
一瞬、ファミレスの喧騒が遠ざかったように感じた。
七海は続ける。
「でも、ひのりを見てて思ったんだ。好きなものに素直でいいんだって。バカみたいにまっすぐなところもあるけど……それが、ちゃんと人の心を動かすんだって」
「え、なんか今ほめられた!? けどちょっと傷ついたぞ今!」
笑いながら返したひのりに、七海も小さく笑い返す。
「……ありがとう。ひのりたちと出会ってから、少しずつだけど、自分の“好き”を表に出せるようになってきた気がする」
「うれしいよ。だって、七海ちゃんって“しっかり者”ってイメージだったけど、そういう“自分の物語”持ってるの、かっこいいもん」
みこがふわりと優しい声で添える。
「で、で! でた!! これってつまり、“七海の頭の中にあるその物語”を、舞台にすればよくない!? 演劇部なんだからさ!」
紗里が一気にテンションを上げて叫ぶと、七海は一瞬目を見開き――それから、静かにうなずいた。
「……実は、既に書いてあるんだ。中学の頃から少しずつ、書きためてたものがあって」
鞄から取り出されたのは、ホチキスで綴じられた十数枚のプリント。
「これはその、最初の章だけ……でも、よければみんなに読んでもらいたい」
七海がそう言って差し出したその紙の束に、ひのりがそっと手を伸ばす。
「……じゃあ、今ここで読もうよ。ファミレスで原稿読み合わせなんて、絶対楽しいって!」
「えぇ……ここで!?」
「うん。お店には迷惑かけないようにするから! な? みんな!」
「もちろん!」
「読みたい……!」
「賛成」
それぞれの言葉が重なり、パフェの横で、物語が静かに始まる。
ひのりがページを捲る。
その一文目が、テーブルの空気を変えた。
「白い制服を着た少女は、窓の外を見ていた。魔法がまだ信じられていた時代――」
舞台は、七海の中で育ち続けてきたもう一つの世界。
演劇部の“次の物語”が、今ここから始まっていく。
テーブルの上、読み終えたプリントの束が一つずつ重ねられていく。
最後のページを読んで、ひのりがふーっと深く息をついた。
「……すごい……ほんとに、すごいよこれ……!」
目を輝かせたまま、ひのりは身を乗り出す。
「てかさ、この“魔法使いの学園”って設定! 絶対舞台映えするって! 照明とか衣装とか、ワクワクしかしない!」
「私も思った。幻想的なのに、人物の心理がしっかり描かれてて、引き込まれた」
みこが柔らかい声で感想を述べると、紗里がすかさず乗っかる。
「ちょっと待って、あたし“風の魔法”とかめっちゃやりたいんだけど! エフェクトとか考えよ! 演出も派手にしてさ!」
「そうね。舞台装置次第では、十分再現可能だと思う。発光パネルやスモークなら学校にも予算申請で何とか……」
唯香はすでに現実的な機材案を脳内で組み立てていた。
「みんな……ありがとう……」
七海は、口元を少し震わせながら視線を落とした。
「こんなふうに……誰かに“読んでもらえる日”が来るなんて、思ってなかった……」
「そっか……今まで、誰にも見せたことなかったんだもんね」
ひのりが優しく言って、七海の肩をぽんと叩く。
「でも、これからは舞台として“見せる”んだよ! 七海ちゃんの“物語”が、私たちの“演劇”になるんだね!」
「……うん。よろしくね、主演さん」
七海の笑顔に、ひのりが満面の笑みで返す。
そしてそのとき――
唯香が、ふと視線を落としながらぽつりと呟いた。
「……“魔法”って、いいわね。……今でも、信じたいと思うことがあるの」
その声はかすかに揺れていて、けれどどこか芯のある響きを帯びていた。
「え?」
ひのりが問い返そうとしたが、唯香はすぐに笑って言い換えた。
「……ごめんなさい、ちょっと詩的になっただけ。たまには、そういう気分の日もあるのよ」
「えー、気になる〜! 唯香さんのそういうの、もっと聞きたい!」
紗里が身を乗り出すと、唯香はスプーンでパフェをすくいながら言った。
「それはまた、今度ね。物語の続きを読んでから」
その笑みはいつものように静かで、でもどこか“秘密”を孕んでいた。
七海の物語が、新たな舞台を照らし始める。
けれど同時に――
あの時、魔法のような言葉で救われた誰かの記憶も、静かに呼び起こされようとしていた。
そしてこの“魔法の物語”は、演劇部にとっても、唯香にとっても――
まだ知られざる“過去と未来”を結ぶ鍵になるのだった。
ファミレスを出る頃には、空はすっかり夕焼けに染まっていた。
帰り道を5人で歩くその足取りは、昼間の喧騒とは違って、どこか穏やかで柔らかい。
「いや〜満足満足! ご褒美パフェって名前、偽りなしだったね!」
ひのりが両手を伸ばして空に向かって伸びをする。
「甘さのバランス、食感、ビジュアル。全て理想的なスイーツだったわ」
唯香が淡々と評したかと思えば、スマホを取り出してアプリを操作しはじめる。
「……ちなみに、私が食べたチョコパフェは487キロカロリー。ドリンクバーで取った炭酸水は0キロカロリー。トータルバランス、ギリ合格圏内」
「ちょ、今カロリー計算してんの!? さっきまであんな幸せそうだったのに!」
「楽しくても管理は忘れない。それが習慣」
「出たよ……ストイックの極み……」
紗里が呆れたように笑いながら、駅の改札へと差しかかる。
「私たち、こっちの路線だね」
唯香が言うと、他の4人もうなずく。
「気をつけて帰ってね〜」
「また明日!」
唯香は静かに手を振って、反対側のホームへ向かっていく。
残った4人は同じ方面のホームへ移動し、電車に乗り込む。
車内には穏やかな空気が流れ、話題は自然と今日のことに移る。
「……なんか、今日はすごく良かったね」
みこがぽつりとつぶやくと、ひのりもうなずいた。
「うん。七海ちゃんの小説、すっごく面白かった!」
「てかさ、絶対舞台化アリでしょ? 配役どうしよっか、私ちょっと脇役に回ってもいいかも〜」
「まだ決まってないから!」
七海が苦笑しつつも、頬を少し染めながら言う。
やがて、電車が最寄り駅に到着。
「じゃ、私と七海はここで!」
「お疲れ〜!」
「またLINEするね〜!」
ひのりと七海が降り、車内には紗里とみこだけが残る。
⸻
帰り道、夕焼け色の坂道を二人で並んで歩く。
「……なんかさ」
ひのりがふと立ち止まり、夕空を見上げながら言った。
「七海ちゃんって、“クールでしっかり者”ってイメージだったけど、今日の小説でなんか……別の七海ちゃんを見た気がした」
「……そう?」
「うん。なんかね、“熱”がある人なんだなって思った。……静かな火が灯ってる感じ?」
七海は一瞬だけ黙り込んでから、ぽつりと答えた。
「……うまいこと言うね、ひのりは」
「えっ、そう?」
「……うん。嬉しかった。ありがとう」
そのまま小さく笑って、七海は前を向いた。
「今度は、“その火”を舞台の上で灯したいなって思ってる」
「じゃあ、やっぱりやろう! 七海ちゃんの物語、絶対おもしろくなるよ!」
「ふふっ。頼りにしてる、“主演候補”さん」
「ひえ〜〜〜〜っ!」
ひのりの悲鳴が夕暮れの町に溶けていった。
⸻
七海の家。誰もいない静かな玄関。
「ただいま……」
靴を脱ぎ、階段を上がって自室へ。制服のまま、机に座る。
ゆっくりと引き出しを開けると、中には綴じられた原稿用紙や、表紙の擦れたノート、走り書きのプロットメモが詰まっていた。
その一つひとつに、七海が積み重ねてきた“物語”が息づいている。
静かにそれらをめくりながら、七海は心の中で呟いた。
(ずっと、しまってた。誰にも見せられなかった。見せたいけど、見られるのが怖かった)
ふと、ファミレスでの笑顔が浮かぶ。
ひのり、紗里、みこ、唯香――
あの時間のあたたかさが、七海の胸を優しく包んでいた。
(……でも、今なら)
そっと手帳の間に挟まれていた一枚のしおり――
中学時代に受けた“児童文学コンクール・優秀賞”の証明書を取り出す。
(もう一度、書いてみよう)
七海はページを閉じ、そっと机に手を置いた。
窓の外、茜色から藍色へ変わりゆく空の下。
一つの物語が、再び静かに動き出そうとしていた。