第9話 救えない現実
その日、俺はいつものように、賭博場の裏でゴブと話していた。そこに一人の女が駆け込んできた。
「頼む、助けてくれ……!」
女は二十歳前後だろうか。頬に殴られたような跡があった。着ている服も、あちこち綻びている。
「どうしたんだ」
ゴブがそう声をかけると、女は涙を堪えながら事情を話した。
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女の名はミラという。妹と二人でスラムに暮らしていたが、去年、体調を崩した妹の薬代のため、金を借りたのだという。相手は街の高利貸しだった。よくある話だ。前世でも、この手の相談は、いくらでも持ち込まれた。金の切れ目が、人間の弱みそのものになる。
「最初は、少しの額だったの。でも利子が、どんどん膨らんで……」
返済が滞ると、貸主は契約書を持ち出した。そこには、ミラが読んでいなかった小さな条項があったという。
「返済が三度遅れたら、私自身の身柄が、"担保"になるって書かれてて……」
ミラはそう言って、右手の甲を見せた。そこには複雑な紋様が赤黒く刻まれていた。
「これが、契約の紋。今も、体が勝手に動かなくなることがあるの。あの人の言うことに逆らおうとすると……」
「今は、その男の下で、何をやらされてるんだ」
俺が尋ねると、ミラは一瞬、言葉を詰まらせた。
「……色々よ。使いっ走りだったり、時には、他の借金取りの手伝いをさせられたり。逆らえば、この紋が勝手に痛みを起こす。もう何ヶ月も、こんな生活……」
妹の姿を尋ねると、ミラは目を伏せた。妹の病状はあまり良くないらしい。金があれば、まともな治療を受けさせられる。だが返済に追われる今の状況では、それすら叶わないという。この街には、こういう話が、山ほど転がっているのだろう。ミラは、たまたま、俺の目の前に現れた、その一つに過ぎない。
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「その紋、どうにかならないのか」
俺はゴブに尋ねた。ゴブは渋い顔をした。
「契約紋ってやつだ。俺も詳しくは知らねえが、簡単には解けねえ代物だって聞いてる」
「解く方法は、あるのか」
「あるらしいが、専門の術者に頼むしかねえ。それも法外な金がかかるって話だ。あるいは、契約を結んだ相手自身が解除するって言えば別だが……そんな殊勝な高利貸しは、まずいねえよ」
「その専門の術者は、どこにいるんだ」
「知らねえよ、そこまでは。この街で堂々と、そんな仕事をしてる奴がいるとは思えねえ。裏でひっそりやってる連中を、探し出すしかねえだろうな」
ゴブはそう言って首を横に振った。この手の話に、これ以上深く関わるつもりはないらしい。彼にとって契約紋というのは、この街の日常に転がる、数多くの不幸のうちの一つに過ぎないのだろう。それは、俺にとっても、大差ない話だった。
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俺はミラに向き直った。
「その高利貸しの名前は」
「グラハム家の、下請けをしてる商会の人よ。名前は、確か……」
その名前を聞きながら、俺は頭の中で算段を立て始めた。
高利貸し本人を痛めつける。あるいは殺す。前世で何度もやってきた、単純な"処理"だ。相手が悪党であることは、もう疑いようがない。始末することに、罪悪感はなかった。むしろ、こういう小物を消す作業は、前世では、日常の一部でしかなかった。
だが、それだけでミラの紋は消えるのか。それが分からない限り、動く価値の判断ができない。
俺はミラの右手の紋を、もう一度見た。
「その紋を刻んだ相手が死んだら、どうなるんだ」
「分からない……。聞いた話だと、契約書自体が無効になれば紋も消えるらしいけど……相手が死んだだけで消えるかどうかは……」
その、はっきりしない答えに、俺は内心、舌打ちしたくなった。せっかくの処理対象が、成果に繋がるかどうかも分からない。効率の悪い話だった。
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殺せば終わり、というわけではないらしい。この紋が貸主の生死とは無関係に、独立して機能する魔法的な仕組みであるなら、貸主を消したところで、ミラの体には、この紋がそのまま残り続ける可能性がある。
むしろ、下手に貸主を殺せば、契約の解除方法そのものが永久に失われるかもしれない。生きている本人からしか、解除の言葉を引き出せないとしたら、殺すという選択は、この場では、最も損な一手になる。
――厄介だな。
前世なら、こんな悩みは必要なかった。相手を排除すれば、それで事は済んだ。金の問題も人間関係の問題も、最終的には力で解決できた。だが、この世界の"契約"は、単純な力関係だけでは覆せない。魔法という、俺の知らない理屈がそこに介入している。目に見える相手を殴り倒すことはできても、目に見えない仕組みそのものには拳が届かない。
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「今すぐには、どうにもできない」
俺はミラに、そのまま伝えた。
「悪いが、俺にはまだ、その紋を解く方法が分からない。時間をくれ」
「……本当に、なんとかしてくれるの?」
ミラの声には疑いと、それでも僅かな期待が混じっていた。
「約束はできない。だが、材料が揃えば、俺の得にもなる話だ」
それだけ言って、俺はその場を離れた。この一件を片付けられれば、契約紋という仕組みの弱点が、一つ、俺の手札に加わる。それだけの価値が、この女には、まだ残っていた。
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宿に戻る道すがら、俺はこれまでにない種類の苛立ちを感じていた。
前世で培った脅し、暴力、殺し。それらは、この世界でも有効な手段のはずだった。だが今回のように"契約"という、目に見えない縛りが絡んだ瞬間、俺の経験は途端に通用しなくなる。使える道具の少なさに、苛立っていた。
力だけでは解決できない問題がある。この事実を、俺はこの時、初めてはっきりと理解した。
カルマ値を減らすには、人を幸せにする必要がある。だが殺すことでは救えない相手が、この世界には確かに存在する。ミラのような人間を、これから何人、材料として目にすることになるだろう。この街には、声を上げることさえできず、同じように紋に縛られている人間が、まだ大勢いるはずだ。それだけの数がいるなら、この仕組みの弱点を突く価値は、十分にある。
相手を排除するだけでは決着がつかない。もっと根本的な"仕組み"そのものを理解しなければならない。前世で積み上げてきた経験は、確かにこの世界でも通用する場面が多かった。だが、それだけでは通用しない壁が、はっきりと目の前に現れた。
この街に契約や魔法について、詳しい人間はいないのか。俺はそう、頭の中で次の目標を切り替えていった。この歪みの根本を掴めれば、ミラという駒だけでなく、この街に転がっている、似たような不幸の全てを、まとめて利用できるようになる。




