第83話 閃光の狩人
ルーシャは旧兵舎の、入り組んだ建物の間を駆け抜けていた。
背後から次々と矢が放たれてくる。狙撃手はこの地形を知り尽くしているのだろう。柱の陰、壁の隙間、あらゆる遮蔽物を巧みに利用しながら、確実に狙いを定めてきた。
神域が矢の軌道を事前に知らせてくる。それでも気を抜けば当たる。集中を切らした瞬間が命取りになる。この緊張感はこれまでのどの戦いとも違っていた。
思えば、自分は元々強かった。それでも"神域"を授かってからは、どんな強い相手にも、どんな凶暴な魔物にも、苦戦した記憶すらなかった。――トーアを除いては。
だが考えてみれば、これまで遠距離から一方的に攻撃を仕掛けてくる相手と、まともに戦ったことは一度もなかった。近づいて叩き潰す。それが自分の戦い方の全てだった。
まさかこんな形で苦戦することになるとは思ってもみなかった。これが経験不足、というものか。
「くっ」
一本の矢が頬を掠めた。僅かな油断が招いた結果だった。
*
ルーシャは走りながら、必死に頭を働かせていた。
――相手に実力を発揮させない状況を作ることを考えろ。
あの助言を思い出す。だが具体的にどうすればいい。狙撃手の実力とは何だ。
考えろ。距離か。遮蔽物か。それとも狙いを定める、あの一瞬の隙か。
背後からまた矢が飛んでくる。神域がその軌道を知らせる。ルーシャはそれを紙一重で躱した。考えている暇などない。それでも考えなければ、この鬼ごっこは終わらない。
トーアなら、こういう時どう考える。あの男はいつも、相手の得意なことをさせない。相手が嫌がることをする。それだけを繰り返してきたはずだ。
狙撃手の得意なこと。それは遠くから一方的に狙い撃つことだ。ならば。
また矢が来る。ルーシャは身を捻り、辛うじて躱した。頬に熱い痛みが走る。掠っただけだ。それでも次は当たるかもしれない。焦りが思考を鈍らせようとする。
落ち着け。落ち着いて考えろ。あの男ならこんな状況で絶対に焦ったりしない。
――距離を詰めればいい。
ようやくその答えに辿り着いた。距離を詰めれば、狙撃という力そのものが機能しなくなるはずだ。
その結論に辿り着くまで、随分と時間がかかった。それでもようやく見えた。頭の中にはっきりとした、道筋が浮かんだ。
*
ルーシャは覚悟を決めた。今までのように、ただ逃げ回るだけでは埒が明かない。むしろ自ら危険に飛び込む必要がある。
視線を巡らせると、少し先に遮蔽物の少ない広場のような区画が見えた。あそこまでたどり着ければ、真っ直ぐに距離を詰められるはずだ。
ルーシャはその区画に向かって、一気に走り出した。
最初の矢が来た。神域が軌道を知らせる。頭を低くして、紙一重で躱す。すぐに二本目が追いかけてくる。今度は身体を横に投げ出すようにして避けた。地面を転がり、すぐさま体勢を立て直す。
三本目、四本目。矢は途切れることなく、次々と放たれ続けた。躱すたびに確実にシェリルとの距離が縮まっていく。それでもまだ遠い。
柱の陰から、また矢が飛んできた。今度は複数同時だ。神域がそれぞれの軌道を瞬時に示す。ルーシャはその全てを、頭の中で組み立て直した。左の矢は跳んで躱す。右の矢は伏せて躱す。真ん中の矢だけは避けられない。ならば腕で防ぐしかない。
「くっ」
腕に鋭い痛みが走った。だが致命傷ではない。それよりも今は前に進むことだけを考える。
息が上がってくる。それでも足を止めるわけにはいかなかった。一歩、また一歩。着実に間合いが詰まっていく。矢の密度も次第に増していく。相手の方も、距離が縮まっていることに焦りを感じているのだろうか。
あと少し。あと少しだけ。ルーシャはそう自分に言い聞かせながら、最後の距離を一気に詰めていった。
「随分と思い切った動きね」
初めて狙撃手の声が聞こえた。距離が詰まったことで、ようやく会話ができる範囲まで来ていた。
「あなたが狙撃手ね。名前は」
「シェリル」
感情のほとんど感じられない、平坦な声だった。
「随分とこの建物の地形に詳しいのね」
「ここが私たちの拠点だもの。当然でしょう」
「なるほどね。道理で逃げ場がなかなか見つからなかったわけだ」
「そうね。でももう終わり」
「何で終わり」
「あなたのような身体能力の持ち主にここまで接近されたら、もう私の負けってこと」
「随分と落ち着いてるのね。追い詰められてるのに」
「戦いの最中に動揺しても、良いことなんて何もないでしょう」
*
「せっかくだし、少し話をしましょう」
シェリルは平坦な口調でそう言った。
「あなた強いわね。この仕事を始めてからこんなに追い詰められたのは初めて」
「そう。ありがとう」
「あなた、今の生き方が楽しい?」
シェリルからこんなことを聞かれるが、ルーシャにはその意図が掴めない。
「ここ一年ほどは楽しいわ」
「そう。いいことね。私はもう何年も、生きていて楽しいと感じたことなんてないわ」
「どうして」
ルーシャはそう尋ねた。
「成人した時、このスキル"狙撃"を授かった。すぐにアーヴィング家に買われて、黒鴉に入れられた。それから殺し屋としての教育を受けたの」
「そうなの」
「もう何人殺してきたかも覚えてない。数えることすらやめた」
その淡々とした口調で語る言葉を、ルーシャは興味深く聞いていた。
「あなたは黒鴉に入る前はどうしてたの」
「昔はただの村娘だった。おもちゃの弓で遊ぶのが好きなだけの」
「今は違うの」
「こんなスキル、殺しにしか使えない。私自身も殺しにしか使えない人間になった」
その言葉には諦めにも似た、静かな絶望が滲んでいた。
ルーシャはそのあまりにも乾いた声に、僅かに言葉を失った。目の前の女は、既に戦意を失っているようにも見えた。だが、それは油断だった。
シェリルの目に一瞬、鋭い光が宿った。会話でこちらの警戒を緩ませる。それも、殺し屋としての計算の一つだったのだろう。
「油断したわね」
シェリルはそう言うと、近距離から素早く弓を構えた。だがその動きは既に、ルーシャの神域に捉えられていた。
「そこまでよ」
ルーシャは瞬時に間合いを詰めると、シェリルの弓を正確に蹴り砕いた。木の砕ける乾いた音が辺りに響く。
「……あ」
シェリルは失った弓を、呆然と見つめていた。
*
「終わりね」
「そうね。武器がなければ私はただの無力な女」
シェリルはそう言って、力なく両手を下ろした。
「一つ提案があるんだけど」
ルーシャはそう切り出した。
「あなた強いわ。トーアに口を利いてあげてもいい。こっちに来ない」
「なぜ」
「あなたみたいな腕を、ただ殺すのはもったいない」
シェリルはその提案に、しばらく沈黙していた。
「私は自分の、このスキルが嫌い」
「それでも」
「殺ししかできない自分に、もう期待してない。あなたのお仲間のところに行っても同じことの繰り返しでしょう」
その言葉と共に、シェリルは隠し持っていたナイフを抜き放った。
「私はあなたに負けた。だったら、ここで私に勝ったあなたに殺されて終わりたい」
シェリルはそう言うとナイフを握りしめ、ルーシャに向かって突進してきた。
ルーシャはその一撃を冷静に見切り、シェリルの腕を掴み、そのまま地面に叩き伏せた。
「がっ」
シェリルは短く呻くと、そのまま意識を失った。
*
ルーシャは倒れたシェリルを、静かに見下ろした。幾分か自分より年上に見える、その顔。それでも、その人生の選択肢のなさを思うと、複雑な感情が込み上げてきた。
もし自分がトーアに出会っていなければ。もしあのまま薬に縛られ続け、ファーレン家の言いなりになり続けていたら。
きっと自分の心も疲弊して、このシェリルと同じ心境に至っていたのかもしれない。彼女は、トーアと出会わなかった未来の自分であるような気がしていた。
自分は自由と、好きなことをできる環境を手に入れた。彼女はその生き方を選ぶための道がなかった。彼女も良い巡り合わせがあれば、違う人生もあったのだろうか。そんなことを考えてしまう。
*
だがルーシャには、達成感とも言える感触もあった。
初めて戦う遠距離攻撃の使い手。その中でもおそらく相当な強者に分類されると思われる敵。それを自分の考えで相手を追いつめて打倒した。
「トーア。ちゃんと応用できた」
誰にともなく、そう呟く。あの助言が確かにこの勝利に繋がった。それでもこの勝利には単純な喜びだけでは済まされない、何かが残っていた。
屋根の上から下の様子を見渡すと、まだあちこちで戦いが続いていた。
「こっちは片付いたわよ」
ルーシャはそう大きな声で、下に向けて伝えた。
*
閃光のような狩人。その力の裏には、選択肢を奪われた一人の女の悲しい人生があった。ルーシャにとって、これは単なる勝利以上の何かを残す戦いになった。




