第7話 均衡の女神像
スラムを抜け、初めて王都の中心部に足を踏み入れた。
景色が一変した。
石畳は丁寧に敷き詰められ、汚れひとつない。並ぶ建物は彫刻の施された柱を持ち、道行く人々の服装も明らかに一線を画していた。スラムで嗅ぎ続けた泥と腐臭の代わりに、花の匂いと焼いたパンの匂いが風に混じっていた。
同じ王都のはずなのに、まるで別の国に来たようだった。
行き交う人々の顔つきも違う。スラムで見た、生きることに必死な目つきとは、まるで別物だった。ここでは誰もが、ある程度の余裕を持って日常を歩いている。子供たちは綺麗な服を着て、無邪気に走り回っていた。
境界線ははっきりしていた。ほんの少し歩いただけで住む世界そのものが変わる。この落差が、あの存在の言っていた"腐敗"の一つの現れなのだろう。金は確かに、この国のどこかにある。ただそれが行き渡るべき場所に、まるで届いていない。この手の格差は前世でも珍しくなかったが、ここまで露骨に境界線が引かれている様は、なかなか見たことがなかった。
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通りを歩きながら、俺は思わず足を止めた。
広場の中央に巨大な像が立っている。石造りの女神が、両手で大きな天秤を掲げていた。左右の皿は、今はちょうど水平に保たれている。
装飾には金がふんだんに使われている。周りには、花を捧げに来ている人々の姿も、いくつか見えた。
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「あの像は、何だ」
近くにいた行商人らしい老人に、そう尋ねてみた。老人は少し驚いた顔をしたが、快く答えてくれた。
「知らんのかい、坊主。あれは均衡の女神像だよ。建国の頃から、ずっとあそこに立ってる」
「何を意味してる像なんだ」
「言い伝えだと、あの天秤が完全に傾いた時、この国は滅びるんだと。だから、みんな花を捧げて、天秤が傾かないように祈るんだ」
老人は、そう言って少し寂しそうに笑った。話しながら老人の視線は、何度も像の天秤に向いた。長年、この場所を通り過ぎてきた者の、染みついた癖のように見えた。
「まあ、今のこの国を見てりゃ、とっくに傾いてるんじゃねえかって、思う奴も多いけどな」
その一言に、俺は内心、ぴくりと反応した。
「昔は、そうじゃなかったのか」
「昔は豊穣の国、なんて呼ばれてたらしいよ。俺が生まれる、もっと前の話だけどな。今じゃ貴族様が、好き放題やってるって話ばっかりだ」
老人はそう言って肩をすくめた。それ以上深くは語らなかった。おそらく貴族の悪行について、あまり大声で話すのは危険なのだろう。この場所でさえ、周りを気にするような素振りが見えた。恐怖による沈黙というのは、どこの国でも同じ匂いがする。
老人が去った後、俺はしばらく、その像を見上げていた。
天秤。傾けば国が滅ぶ。
あの空間で聞いた話が、頭の中で、この像と重なった。腐敗した国、不幸に偏った民、崩壊が近い未来。あの存在が語っていたことは、決して抽象的な比喩ではなかった。この国では、はっきりと"天秤"というモチーフが、建国の頃から根付いている。
そして、俺自身にも、もう一つの天秤がある。
カルマ値。零が聖人、千が大悪党。あの数字も結局は、この均衡の女神像と同じ発想の上に成り立っているのだろう。
あの存在が、なぜこの国を選んだのか。今なら少し分かる気がした。天秤という発想が、すでにこの国の根底に深く根付いている。だからこそ"天秤を戻す"という試練の舞台として、都合が良かったのかもしれない。単なる偶然ではなく、あの存在なりの計算の結果なのだろう。
この国の天秤と、俺自身の天秤。二つは無関係ではないはずだ。あの存在は、俺にこの国の均衡を取り戻す役目を与えた。だとすれば、俺のカルマ値が動くことと、この国の天秤が動くことは、きっと地続きの現象だ。
*
像の前で、幼い子供が花を一輪、供えていた。母親らしい女が、その隣で静かに手を合わせている。
二人の身なりは、決して豊かではなかった。それでも、この像に真剣に祈りを捧げている。
――こいつらの祈りは、届いてるのか。
そう思うと少し皮肉な気分になった。前世でも似たような光景を何度も見てきた。神社の賽銭箱に、最後の小銭を入れる貧乏人。祈るだけで現実が変わることなど、ほとんどない。祈りというのは、無力な人間が自分を慰めるために作った、最後の逃げ道でしかないのだろう。
だが今の俺は、その"祈り"の対象になり得る側にいる。神に選ばれた身だろうと外道だろうと関係ない。この国の天秤を実際に動かせる立場にいるのは、この場にいる誰でもなく俺自身だった。これほど滑稽な巡り合わせもない。
妙な感覚だった。前世で、俺は誰かに何かを祈られる側になったことなど、一度もなかった。むしろ俺の存在そのものが、誰かの不幸を祈られる対象だったはずだ。今、この場で無邪気に手を合わせている子供が、もし俺の正体を知ったら、どんな顔をするだろうか。
そんな想像に大した意味はなかった。今の俺にできることは、この子供が抱いている祈りに、多少でも実質的な意味を持たせることだけだ。祈りそのものに価値はない。だが、その祈りが届く先に俺という存在がいるなら話は変わってくる。利用できるものは、感情であろうと信仰であろうと利用すればいい。それだけの話だった。
*
「随分と、熱心に見てるじゃないか」
不意に、後ろから声をかけられた。
振り返ると、質の良い外套を着た男が、興味深そうに俺を見ていた。護衛らしい人間は、周りに見当たらない。身なりからすると、貴族というほどではないが、それなりに裕福な人間なのだろう。
「この像に、何か思うところがあるのか」
「別に。ただ、この国の話を色々聞いたばかりでな」
俺はそう答えながら内心、この男を値踏みしていた。表情、口調、佇まい。ただの通行人ではない、何かの気配がある。前世で嫌というほど嗅いできた、探る側の人間の匂いだ。
「聞いた話、というのは、いい話か悪い話か」
「決まってるだろ」
男は、その返事に、なぜか少し愉快そうな顔をした。
「面白い流れ者だな、お前」
それだけ言うと、男は俺の返事を待たずに、その場を離れていった。振り返ることもなく、人混みの中に、あっという間に姿を消していった。その足取りには迷いがなかった。まるで、この後どこへ向かうか、最初から決まっていたかのようだった。
*
男の背中を見送りながら、俺は小さな違和感を覚えた。
あの目つき。ただ興味を持って声をかけてきた、というより、まるで何かを確かめに来たような、そんな探るような視線だった。
偶然か、それとも何かの前触れか。今はまだ判断がつかない。前世でも、こういう正体の読めない相手には慎重に対処するのが常だった。下手に警戒しすぎれば、こちらの動きが逆に相手に読まれる。だが無視するのも危険だ。今は記憶の片隅に留めておくしかない。もし、あの男が再び目の前に現れるようなことがあれば、その時正体を突き止めればいい。
ただ、この街の中心部には、スラムとは、まるで違う種類の"目"が、いくつも存在しているらしい。俺は、その事実だけを頭に刻みつけて、その場を後にした。
まだ俺は、この国の"歪み"の、ほんの表層しか見ていない。
もっと深く踏み込む必要がある。




