第38話 地盤
バルド――グラハム家を屈服させてから、数ヶ月が経った。
この間、俺は台帳に記された被害者たちを一人ずつ、丁寧に処理していった。ミラのように身柄を担保に取られた者。オーウェンのように家族を人質にされた者。手口は様々だったが、根っこにある構図はいつも同じだった。
弱みを握り、離れられなくする。前世で俺自身が使ってきた手口と、驚くほど似ていた。
被害者一人ひとりの契約書をセラフィナが真如で解析し、法的な瑕疵の有無を確認する。瑕疵が見つかれば、ガロを通じてバルドに解除を命じる。この流れ作業を数ヶ月かけて、繰り返し続けた。
台帳に記された名前は思っていたより、多かった。老いた行商人、若い職人、子連れの寡婦。境遇は様々だったが、誰もが似たような手口で、身動きの取れない状況に追い込まれていた。この街の底辺には、これほど多くの不幸が静かに埋まっていたのかと、俺は改めて実感した。もっとも、それを憐れむ気持ちより、まだ手をつけていない案件の数を数える方に、頭は動いていた。
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この作業を通じて、俺はこの街の闇金融の全体像を、初めて明確に把握できるようになった。
ザガンのような末端の窓口は、この街にまだ何軒も存在していた。それぞれが独自の顧客を持ち、独自の手口で金を搾り取っていた。バルドが表向きの当主のままである以上、これらの窓口を一つずつ直接潰していく必要はなかった。
代わりに、俺は別のやり方を選んだ。窓口の運営方針そのものを、少しずつ書き換えさせたのだ。
悪質な取り立てを禁止し、契約紋の濫用を制限する。表向きはバルド自身が定めた新しい方針、という体裁を取らせた。実際に指示を出しているのはガロを通じた俺自身だったが、それを知る者はごく一部に限られていた。
この手法には、前世の経験がそのまま活きた。買収した会社の経営方針を、表向きは元の経営陣の名前で発表させながら、実質的な決定権だけを吸い上げる。裏社会の資金洗浄でも似たようなやり方を、何度も使ってきた。名義と実権を分けておけば、外から見た時に権力構造の変化そのものが、目に見えにくくなる。
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バルドという男は、今のところ大人しく従っている。それでも、この状況がいつまでも続くとは限らなかった。契約という道具に絶対の自信を持っていた男だ。時間が経つほど、あの動揺も薄れ、状況を打開できる手立てを、密かに探り始めるかもしれない。他の四家に密かに助けを求めるという手も、まだ完全には潰していなかった。
だからこそ、今のうちに地盤を確実に固めておく必要があった。この街の闇金融の実権を、名実ともに俺の手の届く範囲に収めてしまえば、たとえバルドが後になって、反抗の動きを見せたところで、もう覆せる状況ではなくなる。
焦って次の標的――ファーレン家に移り、この足場を固め切らないまま動けば、思わぬところで足元をすくわれる。前世でも、目先の成果を焦って既に手にした地盤の管理を疎かにした人間が、いずれその隙を突かれて失脚するのを何度も見てきた。今回は、そういう失敗をするリスクを極力、下げておきたかった。
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「最近、街の空気が少し変わってきた気がします」
セラフィナが、ある日そう報告した。
「悪質な取り立てが減ったという話を、あちこちで聞くようになりました。ザガンの店でも、以前のような無茶な条件を突きつける客は、いなくなったようです」
「効果が出てるなら、悪くない」
俺はそう答えたが、内心ではもう少し複雑な感情があった。
街の反応をセラフィナから聞くたび、俺はこの変化をどう受け止めるべきか、まだはっきりとした答えを持てていなかった。かつて俺自身が、こういう仕組みを利用して人を追い込む側にいた。今はその仕組みを、少しだけ穏やかな方向に書き換える側に回っている。立場が逆転しただけで、根本にある構図――弱い者を仕組みの中で管理し続けるという構造そのものは、何一つ変わっていない。
前世では、こういう"改善"を自分の手で行ったことは一度もなかった。むしろ誰かを追い詰め、搾り取ることの方が俺の本業だった。今はその真逆のことをやっている。それでいて動機は善意ではない。あくまで、街の空気を変えることでカルマ値を減らし、この街全体を俺の手の中に、確実に収めるための実利的な計算だった。
結果として、街の連中の暮らしが多少良くなっているとしても、それは俺が"良い人間"になったことの証明にはならない。ただ悪の管理者として、以前よりも効率的な運営方針に切り替えた、というだけの話だった。
この街には、まっとうな福祉も、まっとうな法治も、初めから存在しない。あるのは、貴族の都合と、それを支える暴力だけだ。俺がやっているのは、その暴力の使い方を、少しだけ、自分に都合の良い方向へ調整しているに過ぎない。前世の会社経営で言えば、劣悪な労働環境を改善したのが、経営者の善意ではなく、離職率を下げて利益を上げるための計算だった、というのと同じ理屈だった。
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その夜、頭の中で、あの数字を確認した。
842
904から、さらに動いていた。台帳の被害者たちを一人ずつ救済していく地味な作業が、まとまった数字の変化として積み重なっているらしかった。
派手な一件よりも、こういう地道な繰り返しの方が、実は大きな効果を持つのかもしれない。デズモンドを晒した時の恐怖による支配と、この数ヶ月の地味な救済作業。どちらも、この街の均衡を動かす手段として、それぞれの役割を果たしているようだった。
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「そろそろ、次に動くべき頃合いかもしれません」
セラフィナが、そう切り出した。表情には、以前とは違う、明確な意欲が見て取れた。この数ヶ月、被害者救済という地味な作業に、黙々と向き合ってきた彼女にとっても、次の段階に進むことは、待ち望んでいた展開なのだろう。
「グラハム家の地盤固めも、一通り済みました。ファーレン家について、改めて調べを進めましょうか」
「頼む」
俺はそう答えながら、頭の中でこれまでの数ヶ月を振り返った。
地道な救済作業を経て、俺のこの街のスラムでの立場は、以前よりも遥かに強固なものになっていた。ガロという実戦の駒、セラフィナという知恵の駒。そして、バルドという表舞台に立つ傀儡。この三つが揃った今、次の標的――ファーレン家に手をつける準備は、整っていた。
思えば、この街に転生した直後は、たった一つの契約紋の解き方すら分からなかった。今は五大貴族家の一つを実質的に、支配下に置き、その仕組みそのものを都合よく動かせるようになっている。積み重ねというのは、こういう形で確実に力へ変わっていくものらしい。前世でも、地位を築くまでの過程は決して、一夜で成し得るものではなかった。だが、その分一度築いた基盤は簡単には崩れない。
麻薬、そして冒険者ギルド。前世で扱ってきた領域とは、少し勝手が違うだろう。だが、それもまた新しい駆け引きの始まりに過ぎなかった。




