第36話 積み重ね
数日後、セラフィナの負債契約も、バルドの署名によって無効化された。
「これで私は完全に自由です」
セラフィナはそう言って、静かに息を吐いた。長年、彼女を縛ってきた鎖が、ようやく外れた瞬間だった。
台帳に記されていた記録も、セラフィナが真如を使って一部を確認し、他の被害者たちの状況を、少しずつ洗い出していく作業が始まっていた。
「台帳に記された債務者は、思っていたより多かったです。これから一人ずつ確認していく必要があります」
全員をすぐに救済することはできない。それでも、この街にミラのような境遇の人間がまだ大勢いるという事実だけで、この一件の重みを改めて実感させられた。
この街の底辺には、まだ掘り出すべき不幸がいくらでも埋まっている。それは裏を返せば、まだカルマ値を減らすための材料が、いくらでも残っているということでもあった。
*
その夜、宿の寝床で目を閉じた。頭の中に、あの数字を思い浮かべる。
904
千から大きく動いていた。ミラの解放、ガロの家族の解放、セラフィナ自身の解放。そして、デズモンドの排除による、この街の均衡の変化。それら全てが、この数字に反映されているらしかった。
――随分と減ったな。
その実感に俺は少し驚いていた。まだこの街に来てそう長くない。それでも確かな成果として、数字が動いている。
前世では、こういう明確な評価軸を持ったことがなかった。仕事の成果は金や、組織内での地位という曖昧な指標でしか測れなかった。それに比べれば、この数字はあまりに直接的で分かりやすかった。
同時に、別の実感も頭の中で膨らんでいった。
グラハム家という五大貴族家の一角を屈服させただけで、この国の天秤がこれだけ大きく動いた。裏を返せば、この国の歪みの大部分は、この五つの家系に集約されているということだ。残る四家を落とせば、この国そのものの均衡が根本から変わることになる。
前世で、一つの組織を潰しても、別の組織がすぐにその穴を埋める光景を何度も見てきた。だが、これほど長く歴史に根付いてきた家系となると、話が違うのかもしれない。この五つの柱を確実に折れば、それだけで、この国の均衡が保たれるようになるのかもしれないな。
カルマ値という数字が、その裏付けになっていた。一つの家を屈服させただけで、千から百近く動いた。もし、この規模の変化が残る四家でも繰り返されるなら、あの存在が語っていた"天秤を戻す"という試練の意味も、少しずつ、輪郭を帯びてくる。抽象的な理屈だと思っていたものが、こうして数字という動かぬ証拠を伴って、目の前に示されている。
*
翌日、セラフィナの家に、ガロも招いた。
「これで、あんたも完全に自由だ」
俺はそう言って、ガロに確認した。
「感謝してる。ただ正直、まだ実感が薄い」
ガロはそう答えながら、それでも以前より、幾分表情が柔らかくなっていた。
「これから、どうする気だ」
俺の問いに、ガロは少し考え込んだ。
「形式上はこのまま紋官隊にいることになるな。だが、あんたに恩がある。俺を使いたいなら使ってくれ」
その言葉に俺は内心、満足した。恐怖と恩。両方で繋ぎ止めた駒が、こうして正式にこちら側の戦力になった。
「あんたの"縛鎖"、これからも頼ることになる」
「望むところだ。あんたに、まだ返しきれてない借りがある」
ガロはそう答えた。以前の怯えを含んだ表情とは明らかに違う、真剣な目だった。
「一つ、聞いていいか」
ガロが、そう切り出した。
「あんた、これから他の貴族家も、同じように潰していく気か」
「そのつもりだ」
「だったら、俺の"縛鎖"も、無駄にはならなそうだな」
ガロはそう言って、僅かに笑った。以前は見せなかった表情だった。恐怖から始まった関係が、今は確かな協力関係に変わり始めている。前世でも、こういう変化を何度か見てきた。最初は恐怖で従わせた人間が、いつしか自分の意思で、こちら側に留まるようになる。それが本物の忠誠かどうかは、まだ分からない。それでも使える駒であることに、変わりはなかった。
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「これから、どうしますか」
セラフィナがそう尋ねてきた。
「グラハム家は、一先ず片付いた。次は、どこに手をつける」
バルドはもう、名ばかりの当主だった。表向きはまだグラハム家の座に座っているが、紋官隊の人事も闇金融の運営方針も、今後はガロを通じて、俺の意向を確認してから動くことになる。この街の金の流れの一つが、事実上、俺の手の中に収まったということだった。
「私から、一つ提案があります」
セラフィナはそう切り出した。
「ファーレン家という家系があります。王家の祭祀を司る一族ですが、裏で麻薬の製造と流通に、深く関わっているという噂です」
「麻薬、というのは」
「緑葉という比較的無害な薬草由来のものと、深紅という依存性の高い危険な薬物があります。ファーレン家は両方を裏で管理していると言われています」
*
「なぜ、そこを次の標的に」
「理由は二つあります。一つは、あなたの前世の知識が最も活かせる領域だという点です。もう一つは、冒険者ギルドの健全化にも繋がる可能性がある、という点です」
「冒険者ギルド、というのは、この街の連中とは、また別の組織か」
「はい。魔物討伐や、素材収集を主な生業とする独立した組織です。貴族に見出されなかった、あるいは見出されることを拒んだ者たちの集まりでもあります」
「それが、なぜ麻薬と関わってくる」
「緑葉も深紅も、原料は魔物の素材や、特定の薬草から作られると言われています。それを採取できるのは、冒険者ギルドに登録した人間くらいでしょう。もし、ファーレン家が原料の調達をギルドに依存しているなら、ギルド側にも何らかの取引関係があるはずです。恐らく正規の依頼とは別に、裏の仕事として原料採取を担わされている者がいるのではないかと」
その推測に俺は頷いた。麻薬の流通も、その原料の調達も、結局はこの街の人材を、どこかで使い潰す仕組みの一部なのだろう。
セラフィナの説明に俺は内心、頷いた。前世で闇金や詐欺だけでなく、薬物の売買にも深く関わってきた経験がある。この分野なら、これまでとは違う形で力を発揮できるはずだった。
「悪くない話だ」
「ただ、グラハム家より規模も複雑さも、大きくなる可能性があります。相応の準備が必要でしょう」
*
この街に来てまだそう長くない期間で、五大貴族家の一角を確実に屈服させた。セラフィナという有能な参謀。ガロという実戦で使える駒。この二人を手に入れたことは、この先の戦いにおいて大きな意味を持つはずだった。
まだ四家が残っている。その一つ一つが、グラハム家より規模も複雑さも増していくだろう。だが今回確立した"型"――協力者を見つけ、証拠を掘り出し、確実に追い詰める、この一連の手順は、そのまま次の相手にも通用するはずだった。焦る必要はない。一つずつ確実に、潰していけばいい。
次の標的は、ファーレン家。麻薬という、前世で散々扱ってきた領域。この国の歪みに、もう一歩深く踏み込む時が、来ていた。




