第34話 決断
バルドは長い間、俺を見上げていた。それからようやく口を開いた。
「一つ、聞いておきたい。この証拠を、他に誰が知っている」
「今のところ、俺と、もう一人だけだ」
もう一人、というのはセラフィナのことだった。実際には、この場に同行させていないが、バルドにその事実を確認させる術はない。この手の交渉では相手が確認できない情報ほど便利な武器になる。前世でも、こういう嘘はいくらでも使ってきた。
「本当に、それだけか」
「疑うなら疑えばいい。ただ、あんたに時間の余裕はない」
*
「デズモンドを覚えているか」
俺はそう切り出した。
「あんたの副隊長だ。忘れたとは言わせない」
「デズモンドが、どうした」
「もう、この世にいない。数日前、俺が始末した」
その一言に、バルドの顔から完全に血の気が引いた。
「……何だと」
「街の連中も、大体噂で知ってる。紋官隊の副隊長を、たった一人の人間があっさり葬った。その事実は、もう、この街のどこにでも広まってる」
バルドは机の縁を強く握りしめた。指が僅かに白くなっていた。副隊長という、組織の中核を担っていた人間があっさりと消された。その事実の重みを今、目の前の男が実感として受け止め始めているのが分かった。
*
「お前は……何のつもりだ」
バルドの声が震えていた。
「デズモンドを片付けたのと、同じことをあんたにやる理由もある。ただ今は、それより、ある提案の方が、あんたにとって都合がいいはずだ」
「提案、というのは」
「今、ここで俺の要求を受け入れれば、あんたの命は保証する。拒めば次に、その椅子に座るのはあんたじゃなくなる」
*
「……ガロ」
バルドはそう、ガロの名を呼んだ。
「お前は、この男の味方をするのか」
その声には、まだ僅かな期待が滲んでいた。長年、自分の下で働いてきた部下が最後には、自分の側に付くはずだという根拠のない確信のようなものが見て取れた。
ガロはしばらく答えなかった。それから静かに口を開いた。
「バルド様には、これまで世話になりました。ですが、俺の家族を、いつまでも人質のように扱い続けたのは、あんたです。今、この状況で、俺が、あんたの味方をする理由が、どこにあるんですか」
その言葉にバルドは、何も言い返せなかった。長年、絶対的な立場から部下を見下してきた男が初めて、部下から正面から拒絶されていた。その顔には怒りよりも、むしろ当惑の色が濃く浮かんでいた。自分の支配がいかに脆い土台の上に成り立っていたか、この瞬間初めて思い知らされたのかもしれない。
*
「……分かった」
バルドは長い沈黙の後、そう呟いた。
「お前の要求を、受け入れる」
「ミラという女の契約紋を解除する。ガロの家族を縛る契約も、完全に破棄する。それでいいな」
「……いい」
その返答に俺は内心、満足した。証拠を突きつけ、デズモンドの死を脅しの材料に加えた時点で、この男に抵抗の余地はもう残っていなかった。
前世でも、こういう追い込み方を何度も使ってきた。相手の権威の源泉を一つずつ削っていけば、最後には必ずこういう返答しか出てこなくなる。
これでこの男は、実質的に俺の傀儡になる。グラハム家という五大貴族家の一角そのものが、表向きの体裁を保ったまま、俺の意向で動く駒に変わる。前世で言えば、表舞台の顔役を残したまま、裏の実権だけを握るやり方だ。組織を潰すより、乗っ取る方が、後々の使い勝手が良い。それは前世の裏社会でも、この世界でも、変わらない理屈だった。
*
「今すぐ、書面で、それを確認させてもらう」
俺はそう言って、バルドに机の上の紙とペンを差し出した。
「口約束だけでは信用できない。あんたも契約という言葉の重みを、よく知ってるはずだ」
その皮肉にバルドは、僅かに顔を歪めた。それでも抵抗する力は、もう残っていなかった。震える手でペンを取り、要求された内容を書き記していった。
*
「これで、いいか」
バルドが書き終えた紙を、机の上に押し出した。
俺はその内容を一通り確認した。契約紋の解除、そしてガロの家族を縛る契約の破棄。要求した内容が確かに記されている。文字は震えていたが、内容そのものには抜け道になりそうな曖昧さは見当たらなかった。この状況で下手な小細工を仕込む余裕すら、この男には残っていなかったのだろう。
「これで、決着だ」
俺はそう言って、紙を懐にしまった。バルドはそれをただ黙って見ていた。反論する気力すらもう残っていないようだった。
この男が今夜、この一件をどう処理するのか。紋官隊内部への説明、貴族院への報告。それらはもう俺の関与する範囲ではなかった。あとはこの男自身の問題だった。
*
部屋の外に出ると、ガロが深く息を吐いた。
「終わったのか」
「まだ、完全には終わってない。この書面を実際の効力に変える必要がある。セラフィナに確認してもらおう」
ガロはそれに小さく頷いた。長年、彼を縛っていた鎖が、ようやく外れる日が近づいていた。その表情には安堵と、まだ実感の持てない戸惑いが同時に浮かんでいた。長い年月諦めていた未来が急に現実として動き始めたことに、まだ心が追いついていないのだろう。
振り返ると、バルドはまだ椅子に座り込んだまま、放心したような表情で机の上を見つめていた。
「一つ、覚えておいてくれ」
俺は部屋を出る前に、そう言い残した。バルドが僅かに顔を上げた。
「この書面を、あんたが後になって反故にするようなことがあれば。次は、この程度の話では済まさない。あんたの首も、デズモンドと同じように、スラムの十字路に、晒すことになる」
その一言に、バルドの顔から最後に残っていた、僅かな色すら消え失せた。何も言えないまま、ただ小さく頷くだけだった。長年、他人を契約という鎖で縛り続けてきた男が今、自分自身をその言葉の重みで縛られている。
今日一日で、この男がこれまで築き上げてきたはずの絶対的な権威が、根本から揺らいだ。この様子を見る限り、しばらくはまともに次の手を打つ余力もないだろう。それだけの時間があれば、ミラの解放もガロの家族の解放も、確実に完了させられる。
この街に来て、まだそう長くない。それでも五大貴族家の一角を、正面から屈服させるところまで辿り着けた。前世の経験と、この身体の若さ、そして少しずつ積み上げてきた駒たち。全てが噛み合った結果だった。悪くない成果だと俺は内心、素直にそう思った。次に潰すべき相手が、この国にはまだ四つ残っている。




