第33話 執務室
三日後、俺はガロの案内で、本拠地の一階に足を踏み入れた。
地上部分は、ガロの説明通りまっとうな事務所そのものだった。書類を抱えた職員が忙しく行き交っている。誰も俺のような素性の知れない人間に、深く関心を払わなかった。
「隊長格の連れ、ってことにしてある。怪しまれる心配はない」
ガロが小声で、そう説明した。この男の緊張が、隣を歩くだけで伝わってくる。それでも、足取りに迷いはなかった。
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二階の執務室の前に立つと、ガロが扉を叩いた。
「バルド様。重要な報告があります」
少しの間の後、内側から応答があった。
「入れ」
扉を開けると、豪奢な調度品に囲まれた部屋の中央に、贅肉のついた小柄な男が椅子に腰掛けていた。バルド・グラハムだった。両脇には、剣を帯びた護衛が二人、立っている。
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「見ない顔だな」
バルドは俺を値踏みするような目で見た。指輪をいくつも嵌めた手で頬杖をついている。金と権力に長年浸かり続けてきた人間特有の視線だった。
この視線には覚えがあった。前世で何度も、相手にしてきた種類の人種だ。ヤクザの組長、政治家、大企業の重役。地位を持つ人間ほど、初対面の相手をこういう目で計る。この世界の五大貴族家の当主だろうと、その本質は変わらないらしい。特別な威圧感は、何も感じなかった。
「ガロ、これは誰だ」
「重要な情報を持ってきた人間です。どうか、話を聞いてやってください」
「忙しいのだ、私は。素性も知れない人間の話を、聞いている暇はない」
バルドは手を僅かに振って、そう言った。取るに足らない用件を追い払うような、実に慣れた仕草だった。
「バルド様、これは、無視できる話ではありません。少しだけ、時間をいただければ」
ガロが頭を下げながら、粘り強く言葉を続けた。
「……手短にな」
バルドはそう言って、渋々机に向き直った。
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俺は懐から契約書の写しを取り出し、机の上に置いた。
「これに、見覚えがあるはずだ」
バルドはその紙を一瞥し、表情を変えた。
「これは……。どこで、手に入れた」
「出所は関係ない。問題は内容だ」
俺は、要点だけを、簡潔に伝えた。
「土地の境界を定めた条項と、資源の権利を定めた条項。この二つが、同じ契約書の中で矛盾してる。境界に従えば、資源はあんたのものにはならない。だが権利の条項では、あんたのものだと書いてある。この契約は、最初から成り立ってない」
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「馬鹿を言うな。これは正式な手続きを踏んだ契約だ」
「手続きを踏んでいても、内容が矛盾してたら意味がない。急いで結んだせいで、こういう粗が出た。それだけの話だ」
バルドの顔が、みるみる赤くなっていった。
「お前が、何を知っているというんだ」
「知らなくても構わない。これが公になれば、どうなるか、あんたなら分かるはずだ」
「その程度で、私が動くと思うのか」
「あんたの商売は、契約という道具の上に立ってる。その道具に欠陥があると知られれば、誰もあんたの契約を信用しなくなる。信用のない契約書は紙屑と同じだ。財務家としての商売そのものが、根本から立ち行かなくなる」
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「それだけじゃない」
俺は続けた。
「貴族院にこの件が流れれば、他の四家がどう動くと思う。財務を預かるグラハム家が、自ら結んだ契約に瑕疵を作っていた。そんな話が広まれば、あんたの家の信用は、五大貴族家の中で一気に地に落ちる。今のあんたの立場を狙ってる家は、一つや二つじゃないはずだ」
その指摘に、バルドの表情が初めて、明確に変わった。
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「……何が、望みだ」
バルドの声には僅かな動揺が滲んでいた。それでも、まだ完全には余裕を失っていないようだった。
「二つ要求がある。一つは、ミラという女の契約紋の解除。もう一つは、ガロの家族を縛る契約の、完全な破棄だ」
「そんな要求を、受け入れる理由がない」
「勘違いするなよ。俺はお願いしに来たんじゃない。あんたが今の立場にいたければ、やれ、と言いに来たんだ」
「私の立場が、その程度のことで揺らぐとでも思っているのか」
「そうだな。じゃあ、この証拠を貴族院に流してみるか。他の四家が、どうあんたの足を引っ張り出すか、楽しみだな」
俺は、そう言って笑った。バルドの顔から、それまで残っていた強がりの色が、少しずつ消えていくのが見えた。
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その一言で、部屋の空気が明らかに変わった。バルドが護衛の一人に、視線を送った。合図だった。
「捕らえろ。この男の口を封じろ」
護衛二人が同時に剣を抜いて、こちらに踏み込んできた。俺は、それをあえて受けるつもりだった。相手が刃を選んだ以上、後はいつも通りに片付くはずだった。
だが、その瞬間、ガロが動いた。
「悪いが、バルド様」
ガロの手から、透明な鎖のようなものが放たれた。一人の護衛の足が、その場で完全に縛りつけられた。
「な……!」
護衛が身動きできないまま、驚愕の表情を浮かべた。
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俺は、その光景を冷静に見ていた。
ガロの「縛鎖」。あの鎖は恐らく、直接、対象に触れて発動する類の力だろう。もし、あれを俺自身に向けられたとしても、直接的な拘束である以上、反射の対象になる可能性は高い。だが、まだ実際に受けたわけではない。仮説の段階で確信を持つのは危険だった。
それでも、この街で初めて目にした、実戦で機能する支配系のスキル。ガロという人材は、思っていた以上に使い道のある駒だったらしい。
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残った護衛が俺に斬りかかってきた。俺は、それを正面から受けた。
刃が触れた瞬間、反射が発動し、護衛自身がその刃で、深い傷を負って崩れ落ちた。拘束された護衛は、まだ身動きが取れないまま、床に転がっている。
俺はバルドに向き直った。
「これで、状況が分かったか」
バルドは椅子の上で、完全に顔色を失っていた。護衛二人が、あっという間に無力化された光景を、目の前で見せられたのだ。
「今の立場をこれからも保っていたいなら、俺の言う通りに動け。これは今日一日の話じゃない。この先もずっとだ」
俺は、そう言い切った。今回の要求だけでなく、今後もこの男を都合よく使い続ける。その意図を、はっきりと言葉にしておく必要があった。
「答えは」
俺はバルドに向けて、そう促した。部屋の中は静まり返っていた。護衛の呻き声だけが時折、それを破っていた。バルドが机の上に置かれた契約書の写しを、もう一度見下ろした。その指先が微かに震えていた。長年、契約という武器で他人を追い詰めてきた男が、今、その同じ武器で追い詰められている。この構図の皮肉さを、俺は静かに楽しんでいた。




