第3話 異世界での目覚め
目を開けると、見知らぬ天井があった。
木の板を打ち付けただけの粗末な天井だ。隙間から細い光が漏れている。俺はしばらく、その光の筋をただ眺めていた。頭の中はまだ、あの空間での対話の残響でいっぱいだった。カルマ値、試練、そして与えられたスキル。荒唐無稽な話ばかりだったが、今、この目で見ている天井は、少なくとも、夢の続きではないらしかった。
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身体を起こそうとして違和感に気づいた。手足の長さが微妙に違う。関節の動き、筋肉のつき方、そのすべてが前世の身体とは明確に別物だった。四十二年かけて馴染んだ身体の感覚が丸ごと、別のものに入れ替わっている。想像していた以上に奇妙な感覚だった。
近くに割れた鏡があった。手に取って自分の顔を見る。
黒い髪、黒い瞳。見知らぬ若い男の顔がそこにあった。だが目の奥に残る鋭さのようなものだけは、どこか前世の自分と繋がっている気がした。目つきというのは環境が作るものなのだろう。器が変わっても、そこに刻まれた警戒心までは簡単には消えないらしい。
――これが、転生というやつか。
実感は驚くほど薄かった。ただ、あの空間での対話の記憶は、はっきりと残っている。夢でも幻覚でもない。前世で薬物中毒者の錬乱を何度も見てきた。あれとは質が違う。妄想には、こんなにも整然とした理屈は伴わない。
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周りを見渡す。狭い部屋。ベッドと呼べるかどうかも怪しい、藁を敷いただけの寝床。壁のあちこちに隙間風が入る穴。空気には埃と湿った木材の匂いが混じっていた。前世の日本で言えば廃屋に近い部類だろう。それでも、ここがこれから生きていく場所らしい。
外から声が聞こえてくる。子供の笑い声、荷車の軋む音、何かを値切っているらしい老人の掠れた声。
その声は、確かに日本語ではなかった。だが意味はすんなりと頭に入ってきた。
――言語が違うと言っていたはずだが。
あの存在が何らかの形で対応してくれているのだろう。細かい原理までは考えても仕方がない。今必要なのは、状況の把握だ。原理の解明より先に、生き延びる算段を立てる方が今は、はるかに重要だった。
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部屋を出ると、狭い通路に他にもいくつかの部屋があるのが分かった。共同の宿らしい。壁は薄く、隣室の物音がはっきりと聞こえる。
通路の先、外に出ると、そこは貧しい街並みだった。
崩れかけた石造りの建物が密集して並んでいる。道は舗装されておらず、泥とゴミの入り混じった臭いが鼻を突いた。行き交う人々の服は、どれも薄汚れている。目つきの鋭い連中が、路地の陰からこちらを値踏みするように見ていた。
スラム。そう呼ぶのが一番しっくりくる場所だった。
前世でも似たような場所を、何度も見てきた。人が生きるためだけに必死になっている場所。そこには必ず、それを利用しようとする人間も蠢いている。世界が変わっても貧困の匂いだけは、不思議なほど変わらないものらしい。
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「おい、そこの新入り」
声をかけられた。振り返ると、この宿の主人らしい初老の男が立っていた。
「お前、記録所には、もう行ったのか」
「記録所?」
「なんだ、聞いてねえのか。この街に住む以上、身元の記録がなきゃ、まともな仕事にもありつけねえぞ」
男は面倒くさそうに、そう説明した。この世界にも身分証明のようなものが存在するらしい。国が違えば言葉も文化も違うが、身分を管理したいという発想だけはどこの世界の権力者も同じらしかった。
俺は懐を探った。何も持っていないと思っていたが、内側の隠しポケットのようなものに、一枚の板状のものが入っていた。金属でも木でもない、見慣れない材質の板に、何らかの文字と絵のようなものが刻まれている。
「トーア。名前だけか。まあ、スラム育ちなら珍しくもねえ」
男はその板を眺めながら、そう言った。それから少し驚いたように、片眉を上げた。
「おいおい、記録所には、もう行ってたのか。随分と、手回しがいいじゃねえか」
板には、すでにこの宿の裏で、去年から住んでいた孤児という扱いで、記録が刻まれていたらしい。あの存在の言う"最低限の準備"は、思っていた以上に丁寧に整えられていたということだ。
――トーア。
あの存在が俺に用意した名前だ。峰岸透亜という前世の名前から、下の名前だけを取っただけの、安易な名付けだった。あの存在なりの洒落のつもりか、それとも単に都合が良かっただけか。どちらにせよ、大した意味はないのだろう。
姓については、何も感じなかった。前世でも、家族という繋がりは、とうの昔に断ち切っていた。名字がある方が、むしろ余計な詮索を招きかねない。ない方が性に合っている。
「一応、聞いとくが。親のことも、故郷のことも、覚えてねえのか」
「覚えてない。物心つく前のことだ」
嘘ではない。この身体には、そもそも生まれてから今までの記憶自体が、初めから存在していないのだろう。俺の中にあるのは、峰岸透亜という別の男の記憶だけだ。
「よくある話だ。気にするな」
男はそれ以上、深くは追及しなかった。この世界では、身元の曖昧な人間が珍しくないらしい。都合が良かった。前世の裏社会でも、素性を詳しく尋ねてこない人間ほど付き合いやすかったことを思い出す。
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「ここは、何て国の、何て街だ」
俺が尋ねると、男は少し呆れたような顔をした。
「ヴァルディア王国の、王都ヴァルディシアだよ。よっぽど遠くから流れてきたのか、お前」
「まあ、そんなところだ」
適当に答えながら、俺は頭の中で、あの存在から聞いた話を思い出していた。腐敗した貴族、搾取される民、崩壊が迫っている国。
目の前に広がる、この貧しい街並みが、その説明の生きた証拠だった。抽象的な話として聞いていたものが、こうして実際の匂いや音を伴って目の前に転がっている。
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「宿代は、どうする気だ」
男が、そう聞いてきた。当然の質問だった。この世界で金がなければ、何もできない。それは前世とまるで変わらない、当たり前の摂理だった。
「働けばいいんだろう」
「口の割に余裕だな。まあ、腕っぷしがあるなら、いくらでも仕事はある。裏の仕事も含めてな」
男はそう言って、含みのある笑みを浮かべた。
裏の仕事。その言葉に、俺は内心、少しだけ笑いそうになった。
前世で散々やってきた領域だ。この世界の裏側がどんな仕組みになっているのか、まだ何も分からない。だが少なくとも、その世界の"歩き方"については、俺には誰よりも心得があった。どんな世界であれ裏の道というのは、大抵同じ理屈で動いている。金、暴力、そして情報。この三つを押さえた人間が最終的に上に立つ。
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宿を出ると、路地の入り口で子供たちが数人、蹲っていた。年齢は十歳前後だろうか。一人は頬が腫れていた。
「おい、坊主。何やってんだ、そこで」
声をかけると、子供たちは警戒するように俺を見上げた。
「関係ねえだろ、余所者」
一番年上らしい少年が、そう吐き捨てた。頬の腫れた子供が、その後ろに隠れるように身を縮めた。
事情は聞かずとも、大体察しがついた。この街で庇護者のいない子供が、どういう扱いを受けるか。前世でも似たような光景を、腐るほど見てきた。弱い者は必ず、より弱い者を見つけてその上に立とうとする。子供の世界でも、それは同じらしい。
俺は何も言わず、その場を離れた。今の段階で、余計な波風を立てる理由はない。だが頭の片隅に、その光景は確かに残った。使える場面があれば、いつか思い出すことになるかもしれない。
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通りを歩きながら、俺はこの街の空気を、じっくりと嗅ぎ取っていった。
物売りの声、酔っ払いの怒鳴り声、遠くから聞こえる乾いた鞭の音。人々の目つきは、どれも余裕がなかった。生きることに必死な人間の目だ。
時折、明らかに周りより身なりの良い人間が、護衛らしい男を連れて通りを横切っていく。その周りだけ、他の人間が露骨に道を空けた。
貴族か、あるいはそれに準ずる立場の人間だろう。あの存在から聞いた話が、早速、目の前で実際の光景として裏付けられていた。この街には、はっきりとした境界線がある。それを誰もが当然のことのように受け入れて生きている。
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外に出て、改めて街を見渡す。
貧しさと荒みが、そこら中に染みついていた。それでも、前世で見てきた日本のスラムとは、また違う種類の絶望があるように見えた。
あそこでは、少なくとも生活保護だとか、最低限の制度だとかが、形だけでも存在していた。この街には、そういう安全網がまるで見当たらない。さっきの子供たちのように、庇護者を失えば、そのまま弱者として食い物にされるだけだ。
――随分と、分かりやすい世界だな。
俺はそう思った。良いか悪いかは、まだ判断がつかない。ただ、少なくとも前世で身につけた"生き延びる術"は、この世界でも、そのまま通用しそうだった。腕力と知恵、そして他人の弱みを見抜く目。それだけで、この街の食物連鎖の上に立てるだけの土台は、すでに揃っている。
問題は、あの存在から与えられた試練の方だ。
人を幸せにする。それがどういうことなのか、俺にはまだ実感が持てない。前世で、俺が誰かを踏み台にして生き延びてきたのと、同じやり方で、それが成し遂げられるとは到底思えなかった。むしろこれまで積み上げてきた生き方の真逆を求められている。そういう意味では、この試練そのものが前世でどんな仕事より難しい仕事なのかもしれなかった。
だが、悩んだところで答えが出るわけでもない。まずは生き延びること。この身体で、この世界で、どこまでできるのかを確かめることだ。
まずは、自分の身体で、この世界の"ルール"を直接確かめてみるべきだろう。
あのスキルが実際に、どういうものなのか。まだ何一つ分かっていなかった。




