第2話 千のカルマ
死んだ、と思った。
だが、意識は途切れなかった。何かに呼ばれた気がした。
*
気づいた時、俺は白とも黒とも言えない、奇妙な空間にいた。
自分の身体が見えない。手も足も、感覚としてはそこにある気がするのに、視認できない。意識だけがこの妙な場所にぽつんと浮かんでいるような感覚だった。上も下も遠いも近いもない。前世で薄れゆく意識の中に感じていた、あの闇とも違う。むしろ何もない空白そのものが、意識を包んでいるような感覚だった。
『目覚めたか、愚物よ』
声が響いた。人間なのか何なのか、まるで分からない。視線を巡らせても、それを発している存在の姿は、どこにも見えなかった。声には重さがあった。単なる音の響きではなく、こちらの意識そのものに直接染み込んでくるような質感を持っていた。
『愚物、あるいは外道と呼ぶべきか。汝の名は、もはやそう呼ぶに相応しい』
「……誰だ、お前」
平静を装って、そう返した。だが内心では、何が起きているのか、まるで理解できていなかった。生きてきた四十二年の間、こんな状況に置かれたことは一度もない。それでも動揺を表に出さない癖だけは、こういう場でも生きていた。
『汝らの世界にて、神、あるいは仏と呼ばれるもの。そう捉えるがよい』
その一言に、俺はさすがに黙るしかなかった。神も仏も、生きているうちは一度も信じたことがなかった。それでもこの理屈の通らない状況を前にして、他に受け入れられる説明もなかった。
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『汝の生前の行いは唾棄すべきものである。許されざる所業の連続であった』
存在は淡々とそう告げた。反論の余地はない。俺自身、それを一番よく分かっていた。四十二年の生涯を頭の中で駆け足で振り返る。金のために脅した数、殺した数、壊した家庭の数。数え切れるものではなかった。
『だが興味深いことがある。汝は、意図せず人を救ってきた』
「――は?」
思わず、声が漏れた。前世で誰かに感謝されたことなど記憶にない限りだ。この存在は何を根拠にそんなことを言っているのか。
『例えば、汝が潰した、あの児童を海外へ売り飛ばす組織。あれによって確かに救われた子供たちがいたであろう』
思い出す。組織同士の縄張り争いで、敵対する集団を潰した時のことだ。あれは人身売買を目的とした組織だった。潰した理由は、単に縄張りが被っていたからに過ぎない。子供のことなど、考えたこともなかった。あの時俺の頭にあったのは、縄張りと上納金の計算だけだった。
『借金を返せなかった男を、汝は追い込んで臓器を取った。結果、あの男に日常的に殴られていた女は解放された』
それは、前世の最後に、俺自身も思い出していた話だった。あの時も女の存在など目に入っていなかった。金を返せない男を契約通りに処理する。それだけの事務的な仕事だった。
『敵対する組織の資金源であった麻薬の密輸ルートを、汝は潰した。結果的に、麻薬に手を出したはずの人間が、大勢その道から外れた』
『何の能もない女を風俗で働かせたこともあったな。あの中には、あの仕事によって生きる道そのものを得た者もいた』
『汝が"処理"した男の中には、正当な裁きでは決して裁かれなかった、常習的な暴行犯もいた。その犠牲になっていた者たちも、汝が男を殺したことで初めて逃げ場を得た』
立て続けに並べられる話に、俺は何も言えなかった。どれも記憶にある。だが、いずれも俺自身が良かれと思ってやったことではない。金、縄張り、あるいはただの気分。動機はいつもそのどれかだった。それがたまたま誰かの救いに繋がっていたというだけの話だ。
『そして、何より』
存在は、そこで一段、声を落とした。
『汝のように、死ぬことでしか救われぬ者がいる。汝が殺した相手の中には、そういう人間も確かに含まれていた』
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『我の目から見れば、汝の生涯は悪行のみで塗り固められていたわけではない。そう見えておる』
その言葉に俺は複雑な感情を覚えた。慰めのつもりか。だとしたら見当違いだ。慰められて心が軽くなるような性分は、とうの昔に削ぎ落としてきた。
『勘違いするな。だからといって汝の罪が消えるわけではない。だが、我は汝に、ある提案をしたいと考えておる』
「提案?」
『我が管理する、ある世界に一つの国がある』
存在はそう切り出した。
『その国は、長年の権力者の腐敗により、民が搾取される存在に成り下がっている。生きるためには悪に手を染めることが、最も安易な手段となっておる。まっとうな人間が、極めて少ない』
『王にも、もはやそれを止める力がない。貴族どもの、やりたい放題だ。国全体が不幸に偏った状況が、長く続いておる。遠くない将来に、崩壊が迫っておる』
その説明を聞きながら俺は内心、既視感を覚えていた。腐りきった組織の内側で、権力を握る人間が下の者から搾り取る。似たような光景を俺自身、何度も見てきた。組織の名前が変わり扱う金の種類が変わるだけで、構造そのものはどこの世界でも同じらしい。
『悪をただ滅ぼすのでは意味がない。悪を管理し、コントロールし、まっとうな人間を幸福へ導く存在。不幸に偏った天秤を、中立に戻す存在が必要なのだ』
『その役目を、汝に試練として与えたいと考えておる』
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「断る」
俺は即答した。
「同じことを、もう一度やれって言うのか。ふざけるな」
『拒否反応も、当然であろうな』
存在は動じなかった。
『だがこの試練を果たした時、救済として、次は人としての幸福を得られる生を約束しよう。多感な少年時代に、周りの大人の行いに影響されて道を踏み外した汝が、そうならずに済む生を、だ』
その言葉に、正直、俺は大した魅力を感じなかった。人としての幸福。それが何なのか、俺には実感が持てなかった。
もう一度、同じことをやれというのか。人を陥れ、脅し、必要とあらば殺す。前世で、散々やってきたことだ。今度は、それを「善行」の体でやれと言われている。馬鹿にしているのか、とさえ思った。
だが、頭の隅で、別の考えが、じわじわと広がっていく。
――どうせ、断ったところで、待っているのは地獄だ。それは、最初から分かっていたことだ。
地獄なら、慣れている。前世でも、似たようなものの中で生きてきた。それでも、地獄という"何か"がある方が、まだマシだと、これまでは思っていた。だが目の前の存在は、地獄行きを確定させた上で、なお、役割を与えようとしている。それは、地獄の中でも、まだ何かをやれるということだ。
地獄行きだと確信していた自分に、役割がある。その事実だけは妙に俺の中に引っかかった。四十二年、誰かに何かを期待されたことなど記憶にない。死んだ後になって初めて、この理不尽な存在から役目を与えられている。その皮肉に少しだけ笑いそうになった。
人を幸せにする。そんな柄でもないことを、今さらやれと言われて、心から納得できるはずがない。それでも――何もやらずに地獄へ落ちるよりは、何かをやった上で落ちる方が、まだ、いくらか人間らしい。
「……受けてやる」
迷いを、完全に払拭できたわけではなかった。それでも俺はそう答えた。
*
『では、汝にカルマ値というものを与えよう』
存在は続けた。
『零が救世の聖人、千が世を滅ぼす悪党という基準だ。汝には試練として、千を与える。これを死ぬまでに零にすることで、救済が成立する』
「零から千まで、随分と差があるな。俺の行いは、そこまで酷くはなかったつもりだが」
『汝の生前の行いのみを測れば、実際には、せいぜい六百程度であろう。だが、試練とするには最大値から零まで成し遂げさせること、そして天秤を中立に戻すという功績が必要になる。ゆえに千だ』
「どうすれば、それが減るんだ」
『人間を幸せに導くこと。それ以上の説明は今は不要である』
あまりに粗い説明だった。前世でも、こんな杜撰な指示で仕事を任されたことはない。
「俺のような悪人も、幸せにしないといけないのか」
『まっとうな人間の幸福が優先される』
「――つまり」
『死ななければ世が幸福にならぬと判断すれば、殺すことに問題はない。ただし覚えておくがよい。ある者の存在そのものが、多くの者の不幸の根になっている場合がある。その根を断たねば、枝葉を幾ら刈っても不幸は生え続ける。そういう者を、然るべき形でこの世から除く。それだけの話だ。ただ殺すことに、救済としての価値はない』
理解も納得も、正直、できていなかった。それでも、地獄行きよりは役割がある生の方が、まだマシか。俺はそう己に言い聞かせるしかなかった。
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『汝を、十八歳の青年として、その国に転生させる』
「なぜ、十八だ」
『本来は誕生の時点からにすべきだ。だが、その国には、もうその猶予がない。すぐにでも行動に移せるようにするためである。その国では、成人と同時に"スキル"というものが授かる。才を明示し、世界に貢献させるための制度だ』
スキルという言葉に、俺は少し拍子抜けした。神だ仏だという大層な話をしていたはずが、急にゲームのような話になってきた。この理不尽な存在はこういう場でも妙に事務的な言い回しをする。
『どのようなスキルが欲しいか、聞いておこう』
「趣味の悪いゲームだな、それは」
思わず、そう零れた。だが、存在は、それに応じる気はないようだった。
俺は少し考えた。裏社会での日々、俺は常に襲撃、誘拐、暗殺、裏切りを警戒し、心の奥では常に怯えながら生きていた。眠る時も油断すれば命を取られる。そういう緊張の中で四十二年を過ごした。もしもう一度、誰かの下で生きるとしても、あの恐怖だけは、繰り返したくなかった。
「敵を跳ね返せるような力が欲しい」
『――良かろう』
その答えに応じ存在は「特殊:攻撃ダメージ反射」という力を俺に与えた。効果の詳細は語られなかった。ただ、この世界の傾いた天秤を戻すために、有用で強力なスキルだと、それだけ告げられた。
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『その世界は、汝の知る日本とは文化が異なる。文明は遥かに遅れておる。人間だけでなく、エルフやドワーフといった、地球にはいない種族もいる。魔物という、人間に害をなす生物も存在し、それを狩ることを生業とする者もいる。魔力、魔法という概念があり、科学というものは、ほとんど存在せぬ』
説明はそれだけだった。あまりに情報が少なかったが聞き返す気力も湧かなかった。どうせ行ってみれば分かることだ。前世でも詳細な下調べより、現場で判断する方が性に合っていた。
「最後に確認する。やらなかったら、どうなる」
『汝のカルマ値からすれば、未来永劫、意思ある存在に生まれることはない』
それだけか、と思った。
だが俺は生前、幸せを感じたことが一度もなかった。その事実を思い返せば、この機会に賭ける方がまだいくらか理があるように思えた。
「やってやる」
俺がそう答えた瞬間、視界が白く染まった。




