第12話 セラフィナ・リンハート
接触の前に、俺は一つ手を打っておいた。
この数日、集めた情報の中に、この一軒家の周辺で、ゴミの回収を担っている老人がいた。銅貨を数枚握らせ、頼み事をしておいた。もし、この家の周りで何か不審な人影を見かけたら、知らせてくれ、と。学者を守っているつもりの人間が、まだ他にいるとすれば、その反応を先に確かめておきたかった。
結果、反応はなかった。この家を見張っているのは俺一人だけらしい。孤立無援。それだけの事実を確認して、俺はある昼下がり、あの古い一軒家の扉を叩いた。
*
しばらく応答がなかった。もう一度扉を叩く。ようやく内側から、鍵を外す音が聞こえた。
扉が僅かに開いた。隙間から警戒するような視線が、こちらに向けられている。
「……何のご用でしょうか」
声は静かだったが、明確な拒絶の色が滲んでいた。
「セラフィナ・リンハート、で間違いないか」
その名を口にした瞬間、扉の隙間から見える目が僅かに鋭くなった。
「どちら様ですか。人違いでは」
「隠さなくていい。あんたの噂は、それなりに聞いてきた。禁術と契約魔法に詳しい、変わり者の学者だと」
「人違いです。お引き取りください」
扉が閉まりかけた。俺は咄嗟に手をかけて、それを止めた。
*
「一つだけ、聞いてくれ」
俺は扉の隙間に向かって、そう言った。
「契約紋について教えてほしい。ある女が悪質な高利貸しに、その紋を刻まれてる。解く方法を知りたいだけだ」
少しの沈黙があった。扉の向こうで、迷いのようなものが伝わってくる。
「……なぜ、私がそれを知っていると」
「知らないなら、それでいい。だが知っているなら、話をしてほしい」
「お断りします。私には関係のないことです」
その声には拒絶と同時に、微かな怯えが混じっているように聞こえた。この反応そのものが、俺の見立てを裏付けていた。何も知らない人間なら、こんな怯え方はしない。
「無理強いはしない。だが一つだけ伝えておく」
俺は扉の向こうに静かに言った。
「今日ここに来たのは俺一人だ。あんたの家を見張ってる奴がいないか、先に確かめてきた。近所のゴミ回収の老人に銅貨を握らせて、不審な人影がないか確認させてもらった。誰にも知られず、あんたと話すために、それなりに手間をかけた」
扉の向こうで僅かに息を呑む音が聞こえた。
「もし、あんたが誰かに怯えて、こうやって籍を潜めてるなら。少なくとも俺は、その誰かの手先じゃない。それだけは分かってほしい」
*
長い沈黙があった。俺はその場を動かず、扉の向こうの気配をじっと窺っていた。
やがて細く息を吐く音が聞こえ、扉がゆっくりと大きく開いた。
「……入って構いません。ただし、手荒なことはしないでください」
セラフィナはそう言って、俺を家の中へ通した。表情には、まだ警戒が色濃く残っている。それでも扉を開けたという事実そのものが、俺の言葉の何かが、彼女の中の僅かな隙間に届いたことを示していた。
室内は外観の荒れ具合とは対照的に整然としていた。壁一面に本棚が並んでいる。どれも古びた革張りの本ばかりだった。テーブルの上にも、開いたままの本と羊皮紙、そして何かの図式が描かれた紙が、几帳面に整理されている。
図式の一つに目を留めた。人の形を模した線画に、幾つもの記号が書き込まれている。おそらく契約紋の構造を図解したものだろう。この一枚だけでも、あの古書店で買った入門書とは比べ物にならない密度の情報が詰め込まれていた。
「随分と、本が多いな」
「学問以外に私にできることは、ありませんので」
その返答には皮肉と諦めが、同じくらいの重さで混ざっていた。
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「単刀直入に聞きます。あなたは何者ですか」
セラフィナは椅子に座るよう促しながら、そう切り出した。
「流れ者だ。この街に来て、まだそう長くない」
「その割には、私のような人間を探し出す手際が随分と良すぎるように思います。ゴミ回収の老人まで使うとは」
「情報を集めるのは、得意な方でな」
「それだけでは納得できません」
セラフィナはそう言って、まっすぐに俺を見た。学者らしい、理屈を積み重ねる目つきだった。感情に流されず事実だけを積み上げようとしている。
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「あなたが、なぜ契約紋について知りたいのか。それをまず聞かせてください」
「知り合いが、その紋で縛られてる。使い道がある人材だ」
「使い道、というのは、どういう意味でしょうか。あなた自身の利益のためなら、それはそれで構いません。ただ、正確な動機を知っておきたいのです」
妙に細かいところに拘る人間だった。単なる好奇心か、それとも慎重さの表れか。おそらく両方だろう。
「対価は二の次だ。今回に限っては」
「今回に限っては?」
「これから先、この街で似たようなことが何度も起こる気がしてる。その時どうすればいいか、知っておきたい」
その答えに、セラフィナは少し意外そうな顔をした。
*
「なぜ、そこまで他人のために動くのでしょうか」
「善意ではない。そう言えば聞こえはいいだろうがな」
俺は正直にそう答えた。
「じゃあ、何なんですか」
「まだ、自分でも、うまく言葉にできてない」
その答えに、セラフィナは少しの間、黙り込んだ。それから小さく息を吐いた。
「普通なら、そこでもっと立派な理由を口にするものだと思いますが」
「立派な理由なんて俺には似合わない。誰かを助けることが、俺自身の都合に繋がってる。それだけの話だ」
「都合、というのは」
「今はまだ話せない」
セラフィナはその返答に僅かに片眉を上げた。それ以上、深く追及することはなかった。
「あなたのそういう隠し事の多さは、正直好みません。ですが」
セラフィナはそこで一度、言葉を切った。
「先ほどの、老人を使った下調べの話。あれは正直、驚きました。私を怖がらせないために、そこまでする人間をこれまで見たことがなかった。多くの人は力か金で押し通そうとします。あなたは少し違うやり方を選んだ」
「たまたまだ。効率を考えた結果だ」
「そうかもしれません。それでも結果として、私は少しだけ警戒を緩めています。それは事実です」
その言葉には初対面の拒絶とは、明らかに違う色が混ざっていた。理屈を積み重ねる学者らしく、彼女は自分の中で起きた変化を、あくまで観察対象のように冷静に言葉にしていた。それでも、その奥に僅かな興味が確かに覗いていた。使える相手だ、と俺は判断した。
*
「契約紋について話す前に、一つ確認させてください」
セラフィナはそう続けた。
「私が知っていることをあなたに教えたと、どこかで知られれば、私自身が危険な立場に置かれます。それを理解していますか」
「危険、というのは」
「詳しくは、まだお話しできません。ただ私自身も、この街で自由な立場にはいないのです」
その言葉に俺は内心、興味を惹かれた。異端の学者が抱えているという負債。それが単なる借金ではなく、もっとこの国の"仕組み"そのものに深く関わっているのかもしれない。使える情報源が、思っていたより、大きな価値を持っている可能性があった。
「学者の家系だった、と聞いてる。なんで今は、こんな場所で暮らしてる」
「一族の負債の話です。詳しくは話せません」
セラフィナはそう言って僅かに視線を逸らした。今まで理屈で物事を語ってきた口調が、その一瞬だけ揺らいだ。
「負債の相手は、貴族か」
「……なぜ、そう思うのですか」
「この街の負債の話は大抵、貴族の誰かに繋がってる。それくらいはもう分かってきた」
セラフィナは少しの間、俺の顔をじっと見ていた。何かを測っているような目だった。
「あんたの事情も、聞かせてもらえるなら聞きたい」
「それは、まだ早いでしょう。まず、あなたがどういう人間なのか、私にも見極める時間が必要です」
セラフィナはそう言って、静かに俺を見据えた。
「では、どうすれば、その見極めが済む」
「行動で示していただくしかありません。言葉だけでは誰でも、都合のいいことを言えますから」
その物言いは理屈っぽく、そして正しかった。前世でも、口先だけの人間はいくらでも見てきた。信用は実績の積み重ねの上にしか成り立たない。この学者も同じ考えを持っているらしい。使い道のある相手ほど、こちらも手間を惜しまず、丁寧に扱う必要がある。
「行動、というのは、具体的に何を求めてる」
「今はまだ思いつきません。ただ、あなたが本当に、有用な人間なのか。それが分かる場面がいずれあるはずです。その時に判断させてください」
まだ互いに、手札を全て見せ合う段階ではない。それでも、この学者との間に何らかの取引の余地が確かに生まれ始めていた。




