09. 新たな婚約話
時は少し遡り、アヴィとフィーネの婚約が『最初から存在しなかったこと』になって、数日が経過した頃のこと。
学園で孤独な闘いと絶望の渦中にいるフィーネの与り知らぬところで、グランドール公爵邸の主であるジェラルドもまた、割り切れない困惑の霧の中にいた。
「リリアナ。少し、フィーネのことで話があるのだが」
執務机の書類から顔を上げたジェラルドの声に、傍らの長椅子で静かに刺繍を施していた妻のリリアナが、不思議そうに手を止めて首を傾げた。
「どうなさいました? あなた」
「そろそろ……いや、いい加減、あの子の婚約について本格的に考える必要があると思うのだ」
その言葉に、リリアナは小さく息を吐いて深く頷いた。
「……それは、私も最近ずっと考えておりましたわ。ただ、不思議でなりませんの。なぜ私たちは、あの子が十七歳になる今日まで、具体的な婚約話を一つも進めてこなかったのでしょう?」
「ああ。実は私も、それが妙でならないのだ。我が娘ながら、フィーネはどこに出しても恥ずかしくない、聡明で美しい立派な公爵令嬢に成長している。他家からの打診は山ほどあったというのに、なぜ私は今までそれを棚上げにしていたのか……」
ジェラルドはこめかみを押さえ、苦々しい表情を浮かべた。脳裏をよぎるのは、先日の夕食会で「アヴィ殿下と婚約していた」と悲痛な面持ちで訴えた娘の姿だ。
第一王子の婚約者がサラ・スレイヤー男爵令嬢であることは国の常識だというのに、あんなあり得ない妄想を口にするほど、娘の精神は追い詰められていたのだろうか。早くに良縁を結んでやらなかった親の不手際が、娘に過度なプレッシャーを与えていたのかもしれない。
「とにかく、これ以上遅れるわけにはいかない。少しでも早く、フィーネを任せるに足る最高の殿方を探してあげよう」
「ええ、あの子を心から愛し、幸せにしてくれる良いお相手を、ぜひ見つけてあげてくださいませ」
どこかちぐはぐな違和感を覚えながらも、公爵夫妻は愛する娘の未来のために、強く頷き合うのだった。
それからというもの、ジェラルドは取り憑かれたようにフィーネの婚約者選びに奔走した。
公爵家の権勢と彼女自身の人柄も相まって、机の上にはひっきりなしに上流貴族からの釣書や打診が舞い込んでくる。ジェラルドはそれらの一枚一枚に厳しく目を通し、家柄だけでなく、人柄や能力に至るまで精査を重ねていった。
◇◇◇
それからさらに数週間後。徹底的な選定を終えたジェラルドは、週末の休暇を利用してフィーネを学園の寮から呼び戻した。
「……お父様、お母様。急なお呼び出しでしたが、一体どのようなご用件でしょうか?」
応接室の扉を開けて入ってきた娘の姿を見た瞬間、向かい合って座っていた公爵夫妻は思わず息を飲み、目を丸くした。
そこにいたのは、先日帰ってきた時よりも、さらに痛々しくやつれ果てた様子のフィーネだったからだ。紫色の瞳の奥には、深い疲弊の色が澱のように沈んでいる。
「フィーネ……? どうしたのだその姿は……。また痩せたのではないか?」
「まあ、なんて酷い顔色をして……! ちゃんと眠れているの?」
たまらず席を立ったリリアナが、壊れ物に触れるような手つきでフィーネの痛々しい肩を抱き寄せた。だが、フィーネは痛みを隠すように、静かに首を振るだけだった。
「……いいえ。大したことはありません。少し、疲れているだけです」
「そ、そうなのか……?」
「はい。ご心配をおかけして申し訳ありません」
それ以上は何も語ろうとせず、心を閉ざしたように淡々と微笑む娘に、ジェラルドは一抹の寂しさと困惑を覚える。
……そんなにも、娘は殿下を想っていたのだろうか。
先日帰ってきた時の娘の様子を思い出す。殿下の婚約者はスレイヤー男爵令嬢なのだと言い聞かせようとした際に、泣きそうな顔で声を荒げた娘の姿。温厚でいつも優しい娘のあんな声を聞いたのは、初めてだったかもしれない。
……いや、だからこそ、早くこの状況を何とかしなければなるまい。
ジェラルドは居住まいを正して本題を切り出した。
「実はな、フィーネ。お前ももう十七歳だ。公爵令嬢として、将来を見据えた公的な婚約者候補を正式に選定した。まずはその報告と、近いうちに行う顔合わせの打診をしたくてな」
「……婚約者、候補……ですか……」
ジェラルドの温厚な声音が、今のフィーネには鋭い刃のように突き刺さる。アヴィ以外の誰かと結ばれる未来を突きつけられ、彼女の端正な顔が今にも泣き出しそうに歪んだ。しかし、両親はそれを「突然の縁談への緊張」と受け取ったようで、ジェラルドは安心させるように言葉を続けた。
「ああ。相手はシリウス・ローゼンベルク殿だ。ローゼンベルク侯爵家の長男で、御年二十二歳。現在は法務省の要職に関わっておられるのだが、城内でも若手随一の切れ者と評判でな」
「……」
「陛下の覚えもすこぶるめでたく、若輩ながら次世代の国政を担う出世頭と目されている。家柄も申し分ないが、何より実直で誠実な男だ。まあ、とにかく一度、お会いしてみなさい」
アヴィ以外の男との結婚など、考えるだけで全身の血が凍りつくような心地がした。しかし、公爵家の令嬢として、一度も会いもせずに縁談を撥ねつけるような我儘は許されない。フィーネは心の奥底で血を流しながら、従順に頷くしかなかった。
「……分かりましたわ、お父様。その方とお会いいたします」
◇◇◇
数日後の休日。顔合わせの舞台は、麗らかな陽光が差し込むグランドール公爵邸のサロンだった。
約束の時間丁度に、ローゼンベルク侯爵父子が屋敷を訪れた。
「初めまして、フィーネ嬢。私はシリウス・ローゼンベルクと申します。本日はお時間をいただき、大変光栄です」
「……お初にお目に掛かります。フィーネ・グランドールにございます。こちらこそ、ようこそお越しくださいました」
腰を落として美しい一礼を捧げた青年を見て、フィーネは内心で息を呑んだ。
シリウス・ローゼンベルクは、目の肥えたジェラルドが熱弁を振るうのも納得の、非の打ち所がない見事な青年だった。月光を溶かし込んだような艶のある銀色の髪は、片側ですっきりと結ばれて細い肩から胸元へと流れている。深海を思わせる深い蒼色の瞳は、知的でありながらも温和な光を湛えており、見る者の心を穏やかに包み込むような不思議な包容力があった。
両家を交えた談話が始まっても、シリウスの立ち振る舞いは完璧だった。法務省での難しい仕事の話になっても、まだ学生であるフィーネが退屈しないよう、専門用語を噛み砕いて優しく説明し、時には適度なユーモアを交えて場を和ませる。
もし、フィーネの心にアヴィという絶対的な存在がなければ――この完璧で優美な青年に、どれほど深く魅了されていただろうか。どんな令嬢であっても、彼が婚約者になるならば至上の幸福だと喜んで受け入れるに違いない。
けれど、フィーネの心は死んでいた。シリウスがどれほど美しい言葉を紡ごうとも、彼女の胸の奥にある冷たい空洞を埋めることはできなかった。
「若者たちだけで、少し庭園でも散策してきたらどうだね?」
ジェラルドの促しにより、二人は公爵邸自慢の薔薇園へと足を運ぶことになった。色とりどりの薔薇が咲き誇る東屋の傍まで歩いたところで、シリウスがふと足を止め、長い睫毛を伏せて柔らかく微笑んだ。
「今回は本当に、このような機会をいただきありがとうございました。グランドール公爵閣下から前向きなお返事をいただいた時、私は夢ではないかと思ったのですよ」
「シリウス様……? それは、どういう意味でしょうか」
「貴女はご存知ないと思いますが……実は私は以前、王城の回廊で貴女をお見掛けしているのです」
「私を、ですか?」
フィーネが目を瞬かせると、シリウスは少し照れくさそうに、しかし真摯な眼差しを彼女に向けた。
「ええ。とある高位貴族のご令嬢が、理不尽な理由で使用人に辛辣な言いがかりをつけていましてね。周囲の誰もが巻き添えを恐れて見て見ぬふりをし、私も割って入るべきか考えあぐねていた……その時です。貴女は迷いもせずにその間に割って入って行かれた」
「それは……そんな、はしたないところをお見せしていたなんて……」
記憶を辿るが、アヴィと過ごした幸福な記憶の影に隠れてしまったのか、明確には思い出せない。だが、みっともない諍いに加わっていた姿を見られていたのだと思い、フィーネは頬を微かに染めて俯いた。しかし、シリウスは慌てたように言葉を重ねる。
「滅相もない! 恥じることなど何一つありません。私はあの時、あまりの美しさに見惚れていたのです。立場の弱い者を迷わず守ろうと動ける高潔な姿に、その温かい心根に。これほど気高く美しい令嬢がこの世にいるのかと、深く心を打たれました」
「シリウス様……」
「あれからずっと、貴女のことが頭から離れませんでした。ですが、私などには到底手の届かない方だと思い、ただ遠くからお慕いしていたのです。……もし、私を選んでいただけるのなら。私はこの生涯を賭けて、貴女をあらゆる理不尽から守り、幸せにすると誓いましょう」
そう言って、シリウスは恭しく膝をつき、フィーネの震える右手を取って、その甲へそっと誓いの口付けを落とした。
その仕草はあまりにも絵になり、誠実な愛に満ちていた。
その後、一時間ほど互いの趣味などを語り合いながら庭を歩き、今日の顔合わせは一旦お開きとなった。
「本日は本当に楽しい時間をありがとうございました。フィーネ嬢、また近いうちにお会いできることを願っています」
「ええ、ぜひまた我が邸へいらしてください。いつでも歓迎いたしますよ」
言葉の出ないフィーネに代わって、ジェラルドが満面の笑みで答える。よほどシリウスのことが気に入ったのだろう。
客人を送り出し、静まり返った自室に戻ったフィーネは、ただ呆然と窓の外を眺めていた。
「……お嬢様?」
背後からかけられた声にハッとして振り返ると、そこには心配そうに眉をひそめた専属侍女のジーラが立っていた。
「いかがなさいました? 先ほどから何度かお声がけさせていただいたのですが、お耳に届いていないようで……」
「ごめんなさい、ジーラ。少し、ぼんやりしていたみたいだわ」
フィーネは慌てて取り繕うように、いつもの完璧な淑女の笑みを顔に貼り付けた。
「ローゼンベルク侯爵家のご子息様のことを、お考えだったのですか?」
「……まあ、そうね」
「その……差し出がましいことを申し上げますが、あまり気乗りされていないご様子に見えます」
「そんなことはないわ。あの方は本当に素晴らしくて、私には勿体ないほど誠実な方よ。何一つ不満なんてないわ」
そう、不満などあるはずがない。シリウスは何一つ悪くないのだ。それでもこの胸が鉛のように重く、前向きになれないのは、フィーネの心がずっと昔に、自身にとっての『唯一』を決めてしまっているから。
「ですが、公爵閣下はこの縁談を大変お気に召したご様子。このままお進めになるでしょうね」
「ええ。きっと、そうなるわね」
「よろしいのですか……? お嬢様は、本当にそれで……」
「……」
嫌だ、と。自分の婚約者はアヴィ様だけだと、大声で叫ぶことができたなら、どんなにいいだろう。
だが、自分はグランドール公爵家の娘だ。家の利益のため、領民のために最適な婚姻を結ぶのは、生まれながらに定められた義務。今更そこから逃げ出すことなど許されるはずがなかった。
「……仕方がないわ」
アヴィが隣にいてくれないこの世界で、自分がこの縁談を拒む正当な理由も、それを覆す術も持たない。グランドール領の民の幸せのため、両親の安心のために自分ができることがこれしかないというのなら。
(……アヴィ様に出会う前の自分に、戻るだけよ)
誰かを特別に愛することなど知らず、ただ公爵令嬢としての義務だけを果たそうとしていた、あの孤独で冷たい日々に。そう自分に言い聞かせる。元々、自分の存在価値に期待せず、諦めることだけは得意だったはずなのだから。何も望まず、ただ世界が用意した型に嵌まっていればいい。
「……お嬢様……っ」
ジーラの押し殺したような、泣き出しそうな声に弾かれたように顔を上げると、そこには痛ましさと悲痛さに顔を歪ませた侍女の姿があった。
「そんな……そんな風に、今にも死んでしまいそうなお顔で笑わないでください……っ! 泣くほどお辛い婚姻であるならば、どうか閣下にお時間をいただきたいと仰ってください!」
「泣く……? 私が……?」
ジーラの言葉に困惑し、フィーネはそっと自身の頬に指先を触れさせた。指先に伝わってきたのは、冷たくて、ひどく濡れた感触だった。
いつの間にか、大粒の涙がとめどなく溢れ落ちていた。
「私……泣いて、いるの……?」
自分が涙を流していることにすら気付けないほど、心が麻痺し、擦り切れていたのだ。その事実に、フィーネは激しい眩暈を覚えた。
「閣下はお嬢様の幸せを何よりも一番に願っておいでです! 正直なお気持ちをお伝えすれば、きっと無理強いはなさいません。ですから、どうか……!」
涙を浮かべて必死に訴えかけるジーラの言葉を聞きながら、フィーネはただ、濡れた指先を見つめて立ち尽くしていた。世界から拒絶された彼女の孤独な涙は、誰にも届かないまま、静かに床へと吸い込まれていった。




