10. 小さな違和感
学園の喧騒の中で、第一王子アヴィと男爵令嬢サラの噂を耳にしない日はなかった。
しかし、その二人が誰からも祝福されているかと言えば、決してそうではない。学園といえども身分制度の影響はあるため、男爵家という低い身分から王子の婚約者にまで上り詰めたサラに対する周囲の視線は、冷ややかで辛辣なものも多かった。
高位貴族の令嬢たちは、陰で度々「身分を弁えない娘」と彼女を貶め、蔑む発言を繰り返していた。
「いっそ、グランドール公爵家のフィーネ様のような、高貴な方がお相手であれば納得もできましたのに……」
今朝も廊下の向こうから聞こえてくるそんな囁きを耳にして、フィーネの胸の奥には、ドロリとした苦い泥のような感情が溢れ返る。
(……何も、知らないくせに)
つい数週間前まで、本当にアヴィの隣にいたのは自分だったのだ。それが突然、歴史の糸を無理やり引き抜かれたかのように消えてなくなってしまった。理由も、原因も、何一つ分からないまま。
そもそもそういった悪意ある噂を流している令嬢たちは、フィーネが婚約者だった頃も、裏で似たような陰口を叩いて蔑んできた者たちだ。「魔法も使えない無能のくせに」、と。そんな人間を相手にするだけ無駄だと思いながらも、やりきれない思いが溢れる。
また、フィーネにとってはそんな自分を引き合いに出してサラの身分を容赦なく叩く彼女たちの、悪意に満ちた噂話を聞くこと自体、たまらなく苦痛だった。自分からアヴィを奪った人間を庇うほど、聖人君子なつもりはない。それでも、公爵家の令嬢としての矜持が、目の前の光景を許容できなかった。
この令嬢たちだけでも、毅然と窘めるべきか――そんなことを考え、一歩踏み出した時だった。
「……そこまでだ」
静かだが威圧感のある声がその場に響いた。聞き覚えのありすぎる声に、フィーネは全身を強張らせてその場に立ち止まる。噂話をしていた令嬢たちもまた、弾かれたように振り返り、その先にいた人物を見て、驚愕に目を見開いた。そう、そこにいたのは、第一王子殿下たるアヴィその人だった。
これだけ噂話が広まっていれば、アヴィの耳にも入っていないはずがない。低位貴族であるサラへの、容赦のない蔑みと陰口。当然それらはアヴィにも、不快なノイズとして届いていた。
そして、たまたま渡り廊下をウィリアムとともに歩いていた所で、その噂話の現場に遭遇してしまったのだ。
アヴィの鋭い眼光が、噂話をしていた令嬢たちに向けられる。
「サラは私の、唯一の婚約者だ。彼女を侮辱することは、私への不敬と同義だと心得よ。……次はない」
アヴィの冷徹な言葉に、令嬢たちは「も、申し訳ございません!!」と怯えたように頭を下げて走り去っていく。アヴィは彼女たちの背中を冷ややかに見送った後、少し離れた場所に立ち尽くしていたフィーネへと、射抜くような視線を向けた。
「……グランドール嬢。君も、あのような低俗な噂話を黙認していたのか」
「え……?」
アヴィは蔑むような冷たい眼差しを隠そうともせず、一歩、フィーネへと詰め寄る。
「君はこの学園において、最も高貴な血筋を引く一人だ。周囲の令嬢たちが、これほど品性を欠いた振る舞いをしているのを、ただ傍観していてよいと思っているのか? 君のような立場ある者が沈黙を守ることは、時に彼女たちの悪意を肯定しているのと同じだ」
「っ、殿下、お待ちください、フィーネ様にそれを求めるのはあまりに――!」
明確にフィーネを責める発言に、後ろで控えていたウィリアムが、慌てて制止の声を上げる。
「口を出すな、ウィリアム。私は何か間違ったことを言っているか?」
「それは……ですが!」
アヴィの厳しい視線に、ウィリアムは唇を噛む。アヴィはサラのことだけを言っているのではない。貴族としての心構え、礼節を説いているのだ。それは確かに、一般論としては間違いではない。だが、それを今、フィーネに求めるのは、決定的に間違っていると言わざるを得ないのだ。
ウィリアムが、どう言えばそれが伝わるのかと迷っている間にも、アヴィの言葉は止まらない。
「……次にこのような場に居合わせる時は、公爵令嬢としての責任を持って、彼女たちを正しく導いてくれることを期待している」
それは、正論ゆえに反論の余地がない、残酷な突き放しだった。
婚約者であった自分を責め、サラを……婚約者の座を奪った娘を庇えと。他でもないアヴィにそれを言われることが、どれほどフィーネを追い詰めるかも知らずに。
「……心得……ました」
今はきっと何を弁明しても、彼の心には届かない。そう察したフィーネは、俯き震える声でその言葉だけを何とか絞り出すと、アヴィと目を合わせることなく走り去った。
「あ、フィ……グランドール嬢!」
ウィリアムの焦って呼び止める声に、振り返ることはできなかった。
◇◇◇
その日の午後、アヴィはウィリアムと共に食堂で昼食を取っていた。朝の出来事の後から、ウィリアムの様子がおかしい。酷く不機嫌というか、表情が強張っているというか――
「ウィリアム? どうかし――」
「アヴィ様――!」
訝しんだアヴィが従者に声をかけようとしたタイミングで、彼を呼ぶ明るい声が割って入った。
二人が振り返ると、薄桃色の髪を可憐に靡かせた少女が、周囲の冷ややかな視線など意にも介さず、嬉しそうに駆け寄ってくるところだった。
「やあ、サラ」
アヴィの唇から、自然と慈しむような甘い微笑みが溢れ出た。それを見たサラは、一層花が開いたような満面の笑みを浮かべる。
「アヴィ様、私もお隣でご一緒させていただいてもよろしいですか?」
「もちろん構わないよ。おいで」
当然のように自分の隣の席を空け、彼女を迎え入れる。
アヴィの頭の中にある『記憶』では、サラこそが命に代えても守るべき最愛の婚約者だ。愛する女性がこうして休み時間を共に過ごしたいと求めてくれることを、嬉しいと思いこそすれ、拒む理由などどこにも存在しなかった。
他愛のない会話で時間は瞬く間に過ぎ、やがて午後からの授業の始まりを告げる予鈴の鐘が、高く鳴り響いた。
「ああ……残念。そろそろ教室へ戻らなくてはいけない時間ですね」
「そうだね。少し名残惜しいな」
「ふふ、また放課後にアヴィ様のところへ伺いますね!」
「楽しみに待っているよ」
愛らしく手を振って去っていくサラの後ろ姿を、アヴィは細めた目で見送った。彼女が完全に食堂を出たのを見届けてから、自分も席を立とうとした、その時だ。
「……殿下」
不意に、向かい側に座っていたウィリアムから、低く硬い声で呼び掛けられた。アヴィは怪訝そうに首を傾げる。
「うん? 何かな、ウィリアム」
「……不躾な質問であることは重々承知の上でお伺いします。殿下は、スレイヤー嬢の『どこ』にそこまで強く惹かれ、お気に召されているのですか?」
「? 何を突然言い出すんだ?」
「答えていただきたいのです。直感ではなく、明確な言葉として」
いつになく真剣で、どこか焦燥すら孕んだウィリアムの眼差しに気圧され、アヴィは困惑しながらも「そうだな……」と己の胸中に問いかけてみた。
優しいところ、ひたむきで頑張り屋なところ、一見すると儚げで弱そうなのに、実は一本芯の通った強さを持っているところ――。頭の中に用意されている『婚約者を愛する理由』を引っ張り出そうとするが、どういうわけか、その言葉は喉の奥でつかえて出てこない。
「……不思議だな。挙げようとすればいくらでも出てくるはずなのに、上手く言葉として形にできないんだ」
「殿下……」
ウィリアムは痛ましそうに、テーブルの下で拳を硬く握り締めた。
「……では、もう一つ。今、殿下が口にしようとしたその『スレイヤー嬢の美点』を、いま目の前にいた彼女に対して、心から実感できていますか?」
「……どういう意味だ?」
「ご自身の胸に、深く問いかけてみてください」
ウィリアムの射るような視線に微かな苛立ちと焦りを覚えながらも、アヴィはサラの姿をその心に思い浮かべてみた。
薄桃色の髪を靡かせた、愛しい自分の婚約者。その微笑みはいつも穏やかで優しく、見る者の心を包み込み、深く落ち着かせるような効果をもたらしてくれる――。
脳裏に浮かぶ賛美の言葉の数々。だが、それを並べれば並べるほど、つい先ほどまで隣で無邪気に笑っていたサラの『実際の雰囲気』と、どうも綺麗に合致しないのだ。まるで、別人の説明書を無理やり彼女に当てはめているかのような、奇妙なズレ。
「違和感が……あるのではないですか?」
「あ、ああ、いや……そんなはずは……」
核心を突かれたアヴィの顔に、明らかな困惑の色が広がった。自分の心が信じられなくなるような不気味な感覚に襲われ、彼はそれ以上言葉を紡ぐことができず、ただ口を噤むしかなかった。
◇◇◇
その日の放課後のことだった。
「アヴィ様、今日はカフェテリアではなく、アヴィ様のお部屋へ行きませんか?」
「ん? ああ……それは構わないけれど……」
珍しくサラが「アヴィの寮室に行きたい」と言い出したことに、アヴィは僅かに困惑した。いくら婚約者同士とはいえ、未婚の男女が私室で二人きりで過ごすことは、貴族の嗜みとしてあまり褒められたことではない。彼女はいつもなら、そうした礼儀作法を誰よりも気にする『控えめな少女』だったはずだ。
だが、愛しい彼女の頼みを無下に断ることもできず、アヴィは寮母の許可を取って彼女を私室へと招き入れた。
侍女に淹れさせた紅茶の香りが部屋に広がる中、二人は並んで豪奢なソファに腰掛けた。部屋の扉は少し開けさせたまま、すぐ隣の部屋には侍女を控えさせておく。
だが、サラはそんなアヴィの配慮をよそに、信じられないほど大胆に距離を詰め、アヴィの肩にすり寄るようにしてその頬を押し付けてきた。
「やっと二人きりになれましたね、アヴィ様……」
上目遣いで甘える彼女の吐息が肌に触れる。
「サラ……」
アヴィは驚きながらも男としての本能のままに、彼女の華奢な肩を引き寄せようとして……ふと何か、虫の知らせのようなものに襲われる。
(……何かが、違う?)
反射的に、アヴィは伸ばしかけた手をパッと離し、ソファから立ち上がった。
「アヴィ様?」
驚きに目を見開くサラ。その姿を視界に捉えながら、アヴィは激しい自己嫌悪に苛まれる。
(何を……自分は、愛する彼女に対して、今何を思った?)
「……すまない、サラ。君があまりにも愛らしくて、理性を失いそうになったみたいだ」
アヴィは呪いによる『記憶』の命令を強引に実行し、歪んだ微笑みを顔に貼り付けた。今度こそ彼女を抱き寄せ、その桃色の髪を優しく撫でる。しかし、腕の中にある感触は、彼の心が求めている温もりとはどこか一致しないままだった。
サラはそんな彼の動揺を見透かすように、あるいは既成事実を作って逃げ道を断とうとするかのように、大胆に指先でアヴィの首筋をなぞった。
「いいのですよ、アヴィ様? 誰の目もない場所なのですから。ここで……」
彼女の瞳に宿る、貪欲なまでの光。彼女はこんなことを言う女性だっただろうか。隣の部屋には侍女が控えているというのに、それをいないもののように扱う……そんな女性だっただろうか。
「……いや。やはり、いくら婚約者とはいえ、こうした場所で過ごすのは淑女である君の名誉を傷つけてしまう。……そうだ、カフェテリアへ行かないかい? 美味しい紅茶を飲みながら、君の話をゆっくり聞かせてほしいな」
それとなく、けれど拒絶を感じさせない柔らかな物腰で彼女の手を取り、アヴィは部屋を後にした。サラは最初こそやや不満そうな表情を浮かべていたもの、アヴィの優しいエスコートに次第に満足げに頬笑む。
だが、そんな彼の優雅な歩みの裏側で、先ほど感じた小さな違和感が、昼間のウィリアムの言葉と合わさって、抜けない棘のように疼き続けていた。
◇◇◇
翌日の魔法の実技授業でのこと。
訓練場に集まった生徒たちの前で、魔法の担当教官がアヴィを指名した。
「では殿下、皆様の手本として、あちらの的に向かって魔法を放ってみてください」
「分かりました」
前方に設置された的は、高位の防御魔法によって何重にも強化されており、並大抵の攻撃では傷一つ付かない代物だ。前に進み出たアヴィがすっと右手を前に突き出し、体内の魔力を練り上げると、彼の固有属性である鮮烈な『紅蓮の炎』が掌の上に噴き出した。
アヴィは卓越した魔力制御によって、その炎を極限まで圧縮していく。周囲の生徒たちが感嘆の声を漏らす中、荒ぶる炎は直径10センチほどの完璧な球体へと収斂され、恐ろしいほどの熱量を内部に閉じ込めた。
「はっ――!」
鋭い呼気と共に放たれた火の玉が的に着弾した瞬間、凄まじい爆音と共に炎が弾けた。反動で生じた巨大な火柱は、訓練場の天井――3階の高さにまで達し、周囲の空気を一瞬で焼き尽くす。
「さ、さすがは殿下でございますね……! 見て分かる通り、魔力は拡散させるのではなく、研ぎ澄ますほどにその威力が増します。さあ、皆も殿下を見習って、各々の的で練習を始めてください!」
予想以上の破壊力に冷や汗を流しながらも、教官が慌てて生徒たちに指示を出した。
「殿下、相変わらず見事な魔力収束です」
「……ありがとう、ウィリアム」
周囲に合わせ、口ではそう告げながらも、ウィリアムは拭えない違和感を感じていた。
(……見事ではあるが……いつもとは違うな)
幼い頃から特等席でアヴィの魔法を見てきたウィリアムには、分かってしまう。アヴィの魔法の中に迷いがあることが。
いつものアヴィなら、教官たちを驚かせないような威力に精密に調整ができたはずだ。
(昨日の出来事のせいか……?)
偶然にもサラへの陰口の現場に出くわし、そこでここの所ウィリアムがずっと探し求めていたフィーネにようやく相まみえることができたというのに、会話をすることもできずに逃げられてしまった昨日の事件。
その際にアヴィからフィーネに対して向けられた、残酷な正論。それが本当に赤の他人の高位令嬢であったならば、ウィリアムとて受け入れられたかもしれない。
だが、相手はフィーネだった。アヴィから突然一方的に拒絶され、サラという身も知らぬ令嬢にすべてを奪われた側の人間。彼女に対し、サラを守るように動けと命じるなど、ありえない。
その憤りと焦燥感を抑えきれず、昼食の席でウィリアムはアヴィに詰問した。サラのどこが好きなのか、本当に今のサラを見て、そう感じているのか、と。
記憶を奪われたアヴィに対して、酷なことを言った自覚はある。困惑した表情を浮かべ、口を噤んだ彼の表情。だが、このまま見て見ぬふりを続ける方が罪深いと思った。
隣の打席に入ったウィリアムは、迷いを振り切るように何度か首を振ると、己の風の魔力を練り始める。彼の掌に現れた小さな竜巻は、力を込めるに従って回転数を極限まで増し、やがて音を置き去りにした透明な『真空の刃』へと研ぎ澄まされていった。
必ず二人の幸せをこの手で取り戻すという決意を胸に、それを的に向かって放つ。
そんなウィリアムの横顔を見ながら、アヴィは、己の手元に残る魔力の残滓のように、心にこびりついた違和感を拭えずにいた。




