11. ひび割れる心
シリウスとの顔合わせやアヴィとの廊下での遭遇から数日後、相変わらずの学園内での貴族令息たちの猛攻も相まって、極度に疲弊したフィーネは、重い足取りで学園の裏庭の湖へとやってきていた。
ここは学園の中心部からかなり離れており、ひんやりとした冷気が漂う寂しい場所であるため、普段は滅多に生徒が寄り付かない。しかし、フィーネはこの場所に満ちる清廉で静謐な空気が気に入っており、心が疲れた時に訪れる秘密の場所だった。
(……いつもなら、アヴィ様も当たり前のようにご一緒してくださったのに)
かつて、この湖のほとりにある古びた木製ベンチに二人で腰掛け、食堂で作ってもらった軽いランチを分け合って笑っていた。そんな温かい日々の記憶が蘇るたび、涙が込み上げて視界が歪んでいく。
湖へと続く木漏れ日の道は、相変わらず静かで、今のフィーネには以前よりもずっと、冷たくて長いものに感じられた。
『君のような立場ある者が沈黙を守ることは、時に彼女たちの悪意を肯定しているのと同じだ』
静寂の中を黙々と一人で歩いていると、不意に先日浴びせられたアヴィの冷徹な声が、フィーネの頭の中に響いた。
自分から婚約者の座を奪った女性を、今度は公爵令嬢として、彼女を貶める周囲の悪意から守れという言葉。フィーネにとってあまりにも理不尽で、あまりにも残酷な命令。
けれど、彼が口にしたそれは、貴族としては反論の余地もない「正論」だった。ずっと、アヴィの隣に立つのに相応しい令嬢であることを行動の指針としてきた。そうであるならば、今回も自分は、血の涙を流してでもその期待に応えるべきなのだろうか。
そんな葛藤を抱えたまま、懐かしい思い出の詰まったベンチへと近づくにつれ、静寂に満ちていたはずの空間に、何やら男女の楽しげな話し声が混ざり合って聞こえてきた。
(……珍しいわ。こんな場所に、先客がいるなんて)
今は誰の顔も見たくなかった。自分の情けない顔を見られるわけにもいかない。引き返そうかと思い、フィーネが足を止めかけたその時、遮る木々が途切れ、開けた湖畔の景色が目の前に飛び込んできた。
そして――そのベンチに仲睦まじく腰掛けている二人の人影を見た瞬間、フィーネは完全に呼吸を止めた。
「やだもう、アヴィ様ったら。意地悪をおっしゃらないでくださいな」
「はは、ごめんよ、サラ。君の反応があまりにも可愛くて、ついね」
後ろ姿であっても、一瞬で分かってしまう。
太陽の光を浴びて輝く、見慣れた美しい金髪。そして、世界で一番大好きだった、鼓膜を優しく震わせるあの低い声音。
かつては自分だけに対して向けられ、自分だけの名前を呼んでいたその特別な優しさが、その温かい声が、今は隣に座る桃色の髪の少女のためだけに注がれている。
「……ア……ヴィ……さま……」
思わず漏れた声に、フィーネは慌てて両手で口を塞いだ。幸い、風の音にかき消されて彼らには届かなかったようだが、気配を察したのか、サラの視線が微かにこちらに向けられた。
フィーネは心臓を激しく脈打たせながら、咄嗟に大きな太い木の陰へと身を隠した。そっと息を殺し、木の隙間から二人の様子を窺う。サラは気のせいだと思ったのか、すぐにアヴィの方へと向き直った。
「ねぇ、アヴィ様」
「うん?」
サラがクイッとアヴィの制服の袖を引き、甘えるように顔を近付けていく。その距離は、もはや唇が触れ合いそうなほどに近い。
(……嘘。やめて……お願いだから、見せないで……!)
その仕草が何を意味するのかなど、疎いフィーネであっても痛いほど理解できた。向けられたアヴィは、一瞬だけ驚いたように目を丸くしたが、すぐに隣の少女を愛おしそうに見つめ直すと、細い指先で彼女の桃色の髪を優しく撫で、その顎をそっと持ち上げた。
「サラ……」
これ以上ないほど甘く、熱を孕んだ声で彼女の名を呼ぶと――アヴィは静かに顔を傾け、その唇をサラの唇へと重ねた。
――ピシリ。
フィーネの胸の奥で、何かが決定的にひび割れる音が響いた。今まで、どんなに世界から拒絶されても、心のどこかでまだ信じていたのだ。この狂った状況は一時的な何かの間違いで、いつか彼は自分を思い出してくれるはずだと。
だが、目の前で繰り広げられたあまりにも残酷な光景は、彼女が縋りついていた最後の希望を木端微塵に打ち砕くには、十分すぎる威力を持っていた。
――ガサッ。
絶望のあまり無意識に一歩後退したフィーネの足元が、乾燥した落ち葉と草を踏み締め、静かな湖畔に場違いな音を鳴らしてしまった。
「――っ!?」
フィーネが息を呑んだのと同時に、音のした方を鋭く振り返ったアヴィ、そしてサラの二人の瞳と、フィーネの涙が滲んだ紫色の瞳が、真っ向から視線を交錯させた。
「っ……!」
見られた。その恐怖と、張り裂けんばかりの悲鳴をあげる心を隠すように、フィーネはくるりと踵を返し、その場から全力で走り出していた。溢れ出る涙が、冷たい風にさらわれて後ろへと幾筋も流れていた。
◇◇◇
「あれは……確か、グランドール公爵家の方でしたっけ」
「ああ……だが、なぜ彼女がこんな場所に」
不思議そうに小首を傾げるサラの肩をそっと抱き寄せながら、アヴィはフィーネが去っていった木々の奥を睨みつけ、怪訝そうに眉を顰めた。せっかくの最愛の婚約者との甘い逢瀬を邪魔されたことに、不快感を滲ませる。
頭を過ぎるのは先日感じた小さな違和感。だが、アヴィにとって、サラは誰よりも大切な女性であり、守るべき対象だ。だからこそ、アヴィはあってはならない違和感を無理やりに押さえつけ、もう二度とサラを不安にさせまいと、理想的な婚約者であり続けることを改めて心に誓っていた。
……それなのに。
あの日から彼の胸の奥に刺さったまま息を潜めていた棘は、たった今走り去っていったプラチナブロンドの少女の悲痛な表情を見た瞬間、なぜか再び鈍い痛みを伴うものに変わっていた。
「アヴィ様? そろそろ次の授業の鐘が鳴りますわ。校舎に戻りましょう?」
「……ああ。そうだね、戻ろうか」
思考を振り払うように立ち上がると、アヴィはサラに向かってそっと右手を差し出した。サラはそれを当然の権利のように受け入れ、二人は手を繋いで歩き出す。
しかし、アヴィの繋いだ手の温もりは、彼の冷え切った心の違和感を消し去ることは決してなかった。
鬱展開はようやく終了……。
次回はあの男が動き出します!




