12. 主のために
アヴィと世界がおかしくなってから、一か月近くが経とうとしていた。
ウィリアムはただ一人、誰もが正気を保っていない世界の中で、狂おしいほどの焦燥感に焼かれていた。どうにかしてアヴィを元に戻さねばならない。そのためには、あの忌まわしき『原初の魔女』の正体を突き止め、あの呪いを退ける術を見つける必要があった。
しかし、アヴィの側近であり護衛でもあるウィリアムが、不用意に主の傍を離れるわけにはいかない。記憶を改変された周囲の目を欺きながら、一人で動くには限界があった。
そこでウィリアムは、宮廷魔導師団の長であるクリスに秘密裏に調査を依頼していた。とはいえ、クリスもあの日の記憶を失っている人間の内の一人だ。
そのため、不審がられないよう、あくまで歴史的な興味や学術的な調査という名目で、「原初の魔女がかつて封じられた経緯」についての記録を洗ってもらっていたのである。
夜も更けた頃、ウィリアムがようやく寮の自室へと戻り、重い息を吐き出した時のことだった。
『――ウィリアム殿。今、よろしいですか?』
静寂に満ちた部屋に、不意に涼やかな声が響いた。
ウィリアムが鋭い視線で辺りを見回すと、空間の光がにわかに歪み、そこへ染み出すようにしてクリス師団長の姿が現れた。輪郭がわずかに小刻みに震えている。本人ではなく、高度な幻影魔法による通信だった。
「クリス殿」
『ええ。夜分に失礼します。例の、頼まれていた件についての調査結果がまとまりましたので、ご報告をと思いまして』
「……それで、首尾は?」
ウィリアムは張り詰めた身体をそっと宥めるように傍らの椅子に腰掛け、先を促した。幻影のクリスは手元にあるはずの資料に目を落とすような仕草を見せ、厳かに口を開く。
『原初の魔女が歴史の闇に封じられた経緯ですが……大変興味深い事実が分かりました。どうやら建国期、初代シルベスター王の陣営には、極めて稀有な光の魔力を持つ協力者が存在していたようです』
「光の魔力……ですか」
『ええ。文字通り、光を司る魔力です。原初の魔女が扱う闇の魔力の対極にあるものですから……唯一の対抗手段と言っても過言ではありませんね』
クリスはそこで言葉を区切り、ふう、と息を吐いた。透き通る幻影の奥の瞳が、思案げに揺れている。
「その魔力を持つ者は……現代にも存在するのでしょうか」
『さあ、それはどうでしょうね……。ですが、魔法の属性や特殊な変異能力というものは、基本的には血筋に遺伝するものです。当時の陣営で誰がその能力を保有していたのかが判明すれば、家名から子孫を辿ることは不可能ではないかもしれません』
気の遠くなるような、時間を要求される作業だ。しかし、一筋の光が見えたのも事実だった。
と、クリスの幻影がふと小首を傾げ、探るような視線をウィリアムに向けてきた。
『しかしウィリアム殿、なぜ今、このようなことを調べるのですか?』
「……クリス殿」
ウィリアムは拳を握りしめ、絞り出すようにその問いを告げた。
「貴方は本当に、覚えておられないのですか?」
『何を、ですか?』
「魔女が――あの『原初の魔女を騙る女』が、王城へと襲来した時のことを」
意を決したウィリアムの言葉に、クリスは完璧に虚を突かれたように目を見開いた。絶句したのち、困惑と深い憐れみの混じった眼差しを向けてくる。
『……ウィリアム殿。本気で仰っているのですか?』
「ええ。冗談でこんなことは言いません」
『失礼ながら、少し休息をとられた方がいい。あるいは、優秀な医師の診断を……』
クリスの反応は当然のものだった。ウィリアムの頭が激務のあまり狂ってしまったのではないかと、本気で心配しているのだ。だが、ここで引き下がるわけにはいかない。この狂った世界で、国最高位の魔導師であるクリスの頭脳と助力は、この先魔女と対峙するために絶対に欠かせない『切り札』なのだから。
ウィリアムは揺るぎない、真剣な瞳でクリスの幻影を見据えた。
「クリス殿。魔女が『闇の魔法』の体現者であることは、歴史的事実ですね?」
『それは、ええ……。彼女はあらゆる属性を操ったとされますが、特に本質としたのは闇の魔法――他者の精神を侵食し、記憶や心を都合よく操作する能力に長けていたと記録されています。……まさか、貴方は』
「その通りです。国中の人間が、例外なくその術中に嵌められ、記憶を書き換えられているのです」
ウィリアムが静かに、しかし確かな熱量を持って語り出すと、クリスは息を呑み、反論を忘れたように聞き入り始めた。
「陛下方が不在で、アヴィ殿下が臨時に政務を代行されていたあの日、魔女は突如として現れました。そして、シルベスターの血脈に復讐を果たすと宣言し、殿下に恐ろしい呪いをかけたのです。それだけでなく、その場にいた者、城にいた者、ひいては国中の人間にまで術を広げた」
『その……呪いとは、どのようなものなのですか?』
「誰も違和感を抱いていませんが、殿下の『大切な記憶』が丸ごとすり替えられています」
ウィリアムは悔しさに奥歯を噛み締めた。
「殿下の真なる婚約者であられたフィーネ様の記憶が、人々の記憶から綺麗に消し去られています。そしてその空席に、サラ・スレイヤー男爵令嬢という、本来なら交わるはずのない女が滑り込み、さも最初から婚約者であったかのように振る舞っているのです。万が一このままあの女が王妃になるようなことがあれば、この国は……」
『……それは、真なのですか……?』
「殿下への忠誠に懸けて、真実です」
到底信じられる話ではないはずだった。しかし、ウィリアムという男が軽々しく嘘を吐く人間ではないことを、クリスはよく知っている。嘘だと切り捨てるには、ウィリアムの瞳にある覚悟が重すぎた。クリスの顔に、深い困惑と戦慄が広がる。
『もし……もしも貴方の言うことが全て真実なのだとしたら、ウィリアム殿。他ならぬ貴方こそが、先ほど話した光の魔力の継承者なのかもしれません』
「私が、ですか……?」
『ええ。光の魔力を持つ者は、生まれつき闇の魔力による精神への干渉を極めて受けにくいという特性があります。国中で貴方だけが正気を保っているとすれば、それしか……』
自分が、魔女に対抗しうる血脈の末裔――。予想だにしなかった仮説にウィリアムが呆然としたのも束の間、すぐに一つの矛盾が脳裏を過ぎった。
「……いえ、クリス殿。実はもう一人、この大規模な記憶改変の影響を完全に免れていると思われる方がいるのです」
『何ですって? それはどなたですか』
「フィーネ様です。彼女もまた、歪められた現実の中で、正しい記憶を保持したまま苦しんでおられます」
一瞬期待に輝いたクリスの瞳が、ウィリアムの挙げた名前を聞いて、すぐに諦めに変わる。
『フィーネ・グランドール公爵令嬢ですか……。いや、しかし、彼女がもし光の魔力の血脈であったとして、それでは困ったことになりますね』
「なぜですか?」
『彼女は確か……魔法を使えないご令嬢でしたよね?』
その指摘に、ウィリアムは言葉を詰まらせた。確かにそれは、幼少期から貴族社会における周知の事実だった。
「それは……確かにそう言われていますが、現実に彼女の記憶は操作されていません」
『少し待ってください……グランドール家の魔力特性の記録を照合します……。奇妙ですね、グランドール家の血筋は基本的に地属性…だが、彼女は極めて珍しいことに、属性不明の魔力を保有していたようです』
「属性不明の魔力? しかし、魔力は血筋によると……」
ウィリアムの疑問に、クリスはハッとしたように目を見開く。
『っ、隔世遺伝というのがあります。確か先代のグランドール公爵夫人は、隣国の大公家のお血筋でしたね。当時のグランドール公爵令息と恋に落ち、この国へと嫁入りしたはず』
「……そういえば」
ウィリアムの脳裏に、フィーネの美しい白金の髪が過る。この国では珍しいあの色は、隣国に多い色彩だったはずだ。
『この国では火・水・地・風の四属性の魔力が主流です。稀に複合属性や特殊属性を持つ者も現れますが、いずれも四属性からの派生のようなもの。ですが、光と闇の属性はそれらと全く性質が異なります』
「……ということは、隣国の血を引くフィーネ様の中に流れている魔力は……」
『はい、大公家の血筋が四属性以外の魔力――光の魔力だった、のかもしれません』
「なら、フィーネ様であれば、殿下の呪いを解けるのでは?」
ウィリアムの瞳に希望が灯る。だが、クリスは眉を顰めてしばし逡巡するような表情を浮かべ、静かに首を振った。
『いいえ、ウィリアム殿。先ほども申し上げたとおりです。彼女は魔法を使えません』
「……」
『魔力とはあくまで、その属性のエネルギーを体内に保持しているという静的な状態を指します。それだけならば、同属性、あるいは相克(反発)関係にある属性の魔法効果をその身に受けてしまった際、その威力を著しく軽減・相殺する程度の受動的な防壁にしかなりません。魔法として発動するには、体内の魔力を能動的に練り上げ、術式として実体化させるという特別な回路が必要です。これが備わっているかどうかは、生まれ持った才能に左右されます』
「では、フィーネ様は……」
『回路自体は目に見えませんので、外部からその有無を明確に判断することはできませんが……。とはいえ、この国では魔法は幼い頃からの訓練によって開花させるもの。グランドール嬢もまた貴族である以上、訓練は実施されてきたはずです。それで魔法が使えなかったとなると……』
その先の結論を察し、ウィリアムが唇を噛んだ。
『豊かな光の魔力を宿しながらも、それを自らの意志で出力・操作することができないタイプなのでしょう。つまり、彼女自身は魔法を使えない』
「魔女の属性が『闇』であったからこそ、フィーネ様の持つ『光』の魔力が本能的にそれを相殺し、精神への侵食を防いだのみ……ということですか」
『恐らく、それが真相でしょう。魔力特性による絶対的な防御障壁――それこそが、彼女が正気を保てた理由です』
フィーネの中に眠る光の残滓が、図らずも彼女の心を魔女の毒手から守り抜いたのだ。だが、自らの意思でその力を外部に放出できないとなれば、他者の呪いを解くのは難しい。
ウィリアムはグッと拳を握りしめながらも、頭を切り替えて、別の方向性を探ろうと試みる。
「ですが、フィーネ様が光の魔力のお血筋なら、私が記憶を保持できた理由も、その関連と考える方が良さそうですね」
『そうですね……。ドルマン家とグランドール家には血縁関係はなかったはずですし。……何か、過去にグランドール嬢から受け取ったものなどはありませんか?』
「受け取った?」
『魔力は自然と体外に漏れ出しているものです。もしかしたら、グランドール嬢の魔力が何かに付与されていて、それが貴方の身を守ったのかもしれません』
……自分が、フィーネ様から貰ったもの?
ウィリアムは急いで自分の脳内を検索する。だが、自分が個人的にフィーネにもらったものなど思い当たらない。
……そもそも、そんな物を個人的に頂いたら、殿下の機嫌が――。
そこまで考えて、はっとする。そして、常に腰に差していた護身用の短剣を見下ろした。
「……あった」
『え?』
「これです、この、短剣です!」
ウィリアムは逸る気持ちを抑えるようにして、短剣を机に置いた。そう、これはかつて、自分がアヴィの侍従として、見習い期間を終えて正式な任命を受けた12歳の誕生日に、主であるアヴィと、その婚約者であるフィーネから賜った、ウィリアムにとって唯一無二の特別な短剣だった。
『……確かに、見たことのない魔力を感じますね、闇の魔力とは違って温かい魔力だ。それに、その柄に嵌っている藍色の石……かなり純度の高い魔石ですよ』
「これが、魔石?」
『ええ。純度の高い魔石は魔力を集めやすい。おそらくはこの魔石にグランドール嬢の魔力が籠もっていますね』
「……そういえば、これを頂いた時、殿下がこの石を視察先で見つけ、フィーネ様が守護の祈りを込めたのだと、仰っていました」
そう言って短剣をそっと撫でれば、二人からの温かい言葉を思い出す。
『これからも、私の一番の親友として、よろしく頼むよ。ウィリアム』
『アヴィ様をどうかお守りください。そして、どうぞ御身も大事にしてくださいね』
敬愛する主と、その伴侶に相応しい、優しさに溢れた婚約者。この二人を守ることが、自分にとってこの上ない誇りだった。
そんな二人に与えられたこの短剣が、自分の記憶を守ってくれたのだとしたら。
(ならば、やはりフィーネ様こそが、殿下を救う鍵になるかもしれない……)
そんな一縷の望みが、ウィリアムの身体の中を熱く駆け巡るのだった。
今夜21時以降、第13話から第15話まで一気に連続投稿したいと思います!
ついにウィリアムが反撃へと動き出し、アヴィの心にも決定的な異変が……。
物語が加速する夜の部を、ぜひお楽しみに!




