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忘れられた公爵令嬢  作者: 結城 洋乃
第一部

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13/31

13. 想いのかけら①

 卒業を数ヶ月後に控えたこの時期、学園では学生の親を招いた『進路相談』が行われていた。


 ウィリアムもまた、アヴィの侍従として卒業後すぐに王城に入るかどうかの意思確認のため、ドルマン伯爵とともに教官との面談に臨んでいた。


「……それでは、失礼します」


 特に問題もなく面談を終え、一礼とともに教官室を後にする。そのまま、ウィリアムは父親の見送りのため、馬車乗り場へと向かう廊下を、近況報告のような会話をしながら並んで歩いていた。

 だが、窓から差し込む午後の光を浴びながら、父が何気なく口にした王城内の噂話に、ウィリアムは心臓を冷たい手で掴まれたような錯覚に陥った。


「……は? 父上、今、なんと仰いましたか?」

「うん? 聞こえなかったか? グランドール公爵家のご令嬢と、ローゼンベルク侯爵家のご子息が、近々ご婚約されるそうだという話だよ」


 聞き間違いであってくれという祈りは、無惨にも打ち砕かれた。父の口から返ってきたのは、全く同じ残酷な現実だった。

 ローゼンベルク侯爵子息――シリウス・ローゼンベルク。ウィリアムも当然知っている。次期法務大臣の筆頭候補と目され、若手官僚の中でも群を抜いて頭角を現している、極めて優秀な男だ。


(フィーネ様が、あのシリウス殿と婚約……?)


 脳が急速に血の気を失っていく。それは、ウィリアムが最も恐れていた事態の始まりだった。

 国中が、そしてアヴィ自身までもが忘れてしまった、王子と公爵令嬢の婚約。今の歪んだ社会の認識において、フィーネは「婚約者のいない、国内最高峰の一角という家柄を持つ結婚適齢期の令嬢」に過ぎない。

 グランドール公爵家には幼い弟君がおられるとはいえ、彼女を妻に迎えることができれば、公爵家との強力なパイプを得られる。万が一その跡取りに不測の事態があれば、公爵家の権力を丸ごと手にする可能性さえゼロではない。

 野心溢れる貴族令息たちにとって、彼女はこれ以上ない至上の獲物だった。


 現に、アヴィが記憶を失ってからこれまで、彼女の周囲には羽虫のようにアプローチをかける輩が急増していた。かつてアヴィが正気だった頃は、彼女に害が及ばぬよう裏で懸命に手を回し、不届きな連中をことごとく抑えていたのだ。

 その絶対的な『守護』が消え失せた途端、この有り様である。ウィリアムも陰ながら牽制に動いてはいたが、アヴィの護衛とサラの監視という本来の任務がある以上、学園内での彼女の盾になり続けることには限界があった。


 アヴィの記憶を取り戻すため、必死に文献を漁り、あらゆる伝手を辿って魔女の呪いを解く手がかりを探していた、まさにその最中に。よりによって、最悪のタイミングで縁談が具体化してしまった。


「……父上、それは、既に確定した事実なのですか?」

「いや、まだ表沙汰にはなっていない、内々の打診段階のようだがね。だが、家格の釣り合いも申し分ないし、双方の親族にとっても、国にとっても悪くない縁談だ。遠くないうちに、正式にまとまるだろうな」


 淡々と語る父の言葉を聞きながら、ウィリアムは手足の先からじわじわと感覚が消えていくようだった。激しい眩暈が彼を襲う。


(もし……もしも殿下がご記憶を取り戻されたその時、最愛のフィーネ様が、他の男のものになってしまっていたら――)


 想像するだけで、背筋に冷たい戦慄が走った。

 普段はどこまでも穏やかで、思慮深く、非の打ち所がない『完璧な王子』と称されるアヴィだからこそ、その底なしの愛が裏返り、悲しみと怒りが限界を突破してしまった時、どうなってしまうのかが予測できない。

 アヴィの心が完全に壊れてしまうかもしれないという恐怖が、ウィリアムを突き動かした。


「父上、申し訳ありません。急用を思い出しました」


 ウィリアムは怪訝な顔をする父に短く告げると、脱兎のごとく踵を返し、廊下を駆け出した。目指すはフィーネのいる教室だ。

 正しい記憶を持っているはずのフィーネが、自ら進んでそんな婚約を受け入れるとは到底思えない。だが、孤立無援の彼女が、公爵家や周囲の圧力に一人で抗い続けるのがどれほど過酷なことか。まずは彼女の真意を確かめ、その盾にならねばならなかった。


 息を切らせてフィーネの教室の前にたどり着いたウィリアムは、衣服の乱れを整え、小さく深呼吸をしてから扉を開けた。

 室内を見渡すと、窓際で他の令嬢たちと会話を交わしている彼女の姿がすぐに目に留まった。優雅に微笑んではいるものの、その深い紫色の瞳には、かつてアヴィの隣で見せていたような温かな光は微塵も存在していない。ただ義務感だけでそこに佇んでいるような、痛々しいほどの憔悴と陰りがあった。


「フ……――グランドール嬢」


 いつもの癖で名前を呼びそうになり、慌てて厳格な余所余所しさを装って声をかける。

 その呼びかけに、フィーネが僅かに肩を揺らし、入り口の方へと視線を向けた。ウィリアムの姿を認めた瞬間、彼女の瞳に微かな動揺が走る。


「……ドルマン様」


 それは、懐かしさと、今の状況への戸惑い、そして深い諦念が入り混じった、何とも形容しがたい複雑な表情だった。

 ウィリアムはただごとではない気配を全身から発しながら、「お話があります」と視線だけで強く訴えかけた。フィーネは周囲の令嬢たちに小さく会釈をして会話を切り上げると、困惑を滲ませながらも、静かにウィリアムの元へと歩み寄ってきた。


「お呼び立てしてしまい、申し訳ありません」

「いえ……。どのようなご用件でしょうか」

「ここでは少々、人目が多すぎます。どうか、こちらへ」


 ウィリアムは周囲の聞き耳を立てる貴族たちの視線を遮るように身を翻し、人気のない中庭へと向かって歩き出した。フィーネは微かにため息を吐くような気配を見せながらも、拒むことなく、その背中に静かに従った。少し離れて歩く彼女の足音が、ウィリアムの耳にどこまでも重く冷たく響いていた。


◇◇◇


 生い茂る木々の影が落ちる中庭へ到着すると、ウィリアムは少し距離を取った位置で足を止め、静かに振り返った。

 追ってきたフィーネは、困惑の表情を浮かべたまま立ち尽くしている。視線の置き場に困った様子で、そのまま彼女は居心地悪そうに顔を伏せた。


「ローゼンベルク侯爵のご子息との縁談が持ち上がっていると、噂でお聞きしました。……それは、真なのですか?」


 重苦しい沈黙を引き裂いたのは、ウィリアムの低く通る声だった。

 唐突に切り出されたその内容に、フィーネは僅かに目を見開いた。しかし、すぐに込み上げる感情を押し殺すように薄い唇を強く噛み締めると、小さく溜息を吐き出す。


「……なぜ、ドルマン様がそのような話をお気になさるのですか?」


 フィーネはかつての婚約者の侍従を真っ直ぐに見つめ、覇気のない声で問い返した。

 以前のように親しみを込めて「ウィリアム様」と名前を呼ぶ気には、どうしてもなれなかった。あの愛に満ちた婚約も、アヴィと紡いだ幸福な関係も、すべてが自分の頭の中の狂った妄想だったのだとしたら……殿下の侍従である彼が、自分のような娘に関わる理由など何一つないはずだ。

 ならば、なぜこの人はわざわざ他人の縁談に首を突っ込んでくるのだろうか。


 頭の中で理由を探そうとして、しかしすぐにフィーネは思考を放棄した。全てが分からないことだらけで、もう何も考えたくなかった。だから、自分自身をこれ以上傷つけないように、冷めた言葉を口にする。


「……私は公爵家の娘です。政略結婚など、貴族の間ではよくある話でございましょう?」


 あの日以来、何度自分に言い聞かせたか分からない言葉が、乾いた音となって唇から零れ落ちた。

 本来、有力貴族同士の婚約はもっと幼い頃に結ばれるのが通例だ。17歳になった今になって決まるなど、遅すぎると言ってもいい。あのすべてが変わってしまった日から、両親はまるで急に深い眠りから目が覚めたかのように、各地の有望な独身貴族を探し始めたのだ。「なぜ今まで婚姻の手回しを何もしていなかったのだろう」と、不思議そうに首を傾げながら。


 ウィリアムはそんな生気のないフィーネの瞳を見て、胸を締め付けられるような痛ましさに顔を顰めた。かつて誰よりも仲睦まじく、互いを想い合っていた二人を一番近くで見ていたからこそ、アヴィに完全に拒絶された彼女の絶望が痛いほど伝わってくる。

 それでも――フィーネ以外に、アヴィを救える者はいないのだ。ここで彼女に諦められてしまえば、すべてはきっとあの邪悪な魔女の思い通りになってしまう。


『フィーは真面目で優しいから……何かあれば、一人で諦めて身を引こうと考えかねないんだ』


 不意に、かつてアヴィが口にした言葉がウィリアムの脳裏を過ぎった。

 それは彼らが学園に入学して間もない頃。いつものように日当たりの良いサロンで、アヴィと共に昼食を取っていた時のことだった。


◆◆◆


「また他家のご令嬢に呼び出されていらっしゃったのですか」

「はは、まあね」


 困ったように苦笑いを浮かべながら、アヴィは器用にスープを口に運ぶ。

 容姿端麗で文武両道、次期国王たるアヴィには、学園内でも毎日のようにどこぞの令嬢からの熱烈なアプローチが絶えなかった。隣に控えるウィリアムは、主人の身を案じるあまり憮然とした表情を隠せない。


「いっそ放っておいたらどうですか。いちいち大真面目に相手をしてやる必要など……」

「そんなことをして、下手に誤解されて纏わりつかれても困るだろう?」


 ウィリアムの苛立ち混じりの発言を、アヴィは宥めるように受け流す。


「それは確かにそうですが、だからと言って、第一王子である貴方がわざわざ一人一人を呼び出して説得して回るなんて、効率が悪すぎます」

「いいんだよ。それが一番、自分のためになるからそうしているだけさ」

「……フィーネ様のためでしょう」


 フィーネに余計な心配をさせたくない、嫌な思いをさせたくない。そのためにアヴィは、自身に好意を寄せてくる女生徒たちの所に自ら赴き、丁寧に線を引いている――ウィリアムはそう思っていた。


「確かに、令嬢たちが殿下に群がっていたら、フィーネ様も不快な思いをされるかもしれません。ですが、それは殿下を想うが故の可愛らしい嫉妬というやつで……」

「違うよ、ウィリアム」


 ウィリアムの言葉を、アヴィがやや強い口調で遮った。その碧色の瞳は、いつになく真剣だった。


「本当に、私のためなんだ。私がフィーを失いたくないから、こうして予防線を張っているんだよ」

「失う……?」


 相思相愛に見える二人からは想像もつかない不穏な単語だった。だが、アヴィは真面目な顔を崩さない。


「フィーはね、令嬢たちが私に群がっていたところで、分かりやすく嫉妬して怒ったりなんかしてくれないよ」


 少しは怒ってくれたら、それはそれで嬉しいけれどね、とアヴィは寂しそうに苦笑する。不可解そうに眉を寄せるウィリアムに、アヴィはさらに言葉を続けた。


「そうだな……表現が少し違うかもしれない。胸の奥ではきっと、人一倍傷ついて嫉妬もしてくれるだろう。だけれど、彼女はそれを私にぶつけたりはしない。一人で悲しみ、嘆き……そして、誰にも言わずにそっと諦めてしまうんだ」


 確信すら滲むその言葉に、ウィリアムは目を見開いた。確かに、フィーネならそうするかもしれないと、妙な説得力を感じてしまった。


「フィーは昔の……幼い頃の事件のせいで、極度に自分に自信がないところがある。最近は私との時間の中で、少しずつ変わってきてはくれているけれどね。それでも、もし自分よりも能力が優れていて、堂々と自信に溢れる完璧な令嬢が私に近付いてきて……万が一にも私がそれを受け入れているように見えたら。彼女は『そんな女性の方が王妃に相応しい』と、私の幸せを願って身を引こうと考えかねない」

「それは……確かに、あり得なくはないです、ね……」

「だろう? でも、そんなの私は絶対に冗談じゃない。私にはフィーしかいないんだ。やっと少しずつ心を開いてくれた彼女を、そんなくだらない誤解で失うつもりは毛頭ない。だから、どんなに小さな火種であっても、見逃す気はない」


 そう告げるアヴィの瞳には、普段の穏やかで優しい彼とは違う、狂おしいほどの熱い想いが揺らめいていた。


「……だからこれは、私の我が儘なんだ。フィーを絶対に手放したくないという、私自身のね」

「アヴィ様……」

「……ありがとう、ウィリアム。心配してくれて」


◆◆◆


 アヴィの言葉を思い出し、ウィリアムは胸が締め付けられるような思いで拳をきつく握りしめた。そして、絞り出すように言葉を紡ぐ。


「それでも……。それでも、貴女は……覚えているのでしょう? 殿下と過ごしたあの温かい日々を」

「……っ」


 突如放たれた言葉に、フィーネは全身を硬直させた。それはあの日、世界が反転して以来初めて他人の口から語られた――アヴィと自分の関係を肯定する言葉だった。


「貴女は、覚えているのでしょう? 殿下に慈しまれていた日々を。共に歩まれてきた、これまでの時間を」

「……どう、して……」


 一歩、また一歩と、ウィリアムが距離を詰めてくる。その真っ直ぐな瞳は射抜くようにフィーネを捉えていて、視線を逸らすことすら許されない。


「なぜ、貴方がそれを……。あれは……私の……夢で……」


 フィーネがゆるゆると首を振りながら、消え入りそうな声で拒絶しようとすると、ウィリアムは強い口調でその言葉を一蹴した。


「夢などではありません。貴女は、正しく殿下が唯一心から愛しておられたご令嬢です」

「嘘です……!」


 フィーネは思わず耳を塞ぎ、頭を激しく振って彼の言葉を拒んだ。

 夢ならばもう、これ以上期待を持たせないで欲しかった。一度信じて、また目が覚めた時、現実に絶望させられるのはもう耐えられない。


「嘘ではありません」

「なら、どうして! どうして、アヴィ様の婚約者がサラ・スレイヤー嬢なの!? どうして私の両親も、学園の誰も、私がアヴィ様の婚約者だったことを覚えていないの!?」


 公爵令嬢としていけないと分かっていても、みっともなく声を荒げて喚いてしまう。あの日からずっと、フィーネは一人で限界まで我慢してきたのだ。

 訳の分からない現実の中で、最愛の人は自分を見向きもしなくなり、両親も、友人も、侍女も……誰も彼もが「気が触れたのではないか」と憐れむような目で自分を遠巻きにするようになって。

 誰にも何も言えなかった。一人で冷たい部屋に籠り、声を押さえて泣くことしか、フィーネにはできなかったのだ。


「どうして、アヴィ様は……私のことを、忘れてしまったの……」


 胸を抉るような悲しみが蘇り、視界が急激に涙で滲んでいく。しかし、令嬢としての誇りが、人前で涙を見せるなと告げていた。

 フィーネは慌ててくるりと背を向ける。俯いた彼女の青白い頬を、ぽろぽろと幾筋もの大粒の涙が伝い落ちた。



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