14. 想いのかけら②
「……申し訳ありません、フィーネ様。決して貴女を追い詰めたい訳ではないのです」
ウィリアムの沈んだ声が響き、足元の草を踏みしめる足音がゆっくりと近付いてくる。
「ですが、どうか……諦めないでください」
不意に目の前が大きな影に覆われ、ぽつりと上から降ってきた縋るような言葉に、フィーネははっとして顔を上げた。涙で歪んだ視界の先に、自分以上に苦しそうな表情を浮かべたウィリアムが立っていた。
「殿下は、きっと呪いに打ち勝ってお戻りになります」
そう言って、ウィリアムは指先を震わせながら、そっとフィーネの頬に触れ、涙を優しく掬い取った。
「殿下はフィーネ様を心から愛しておられました。それは紛れもない真実です。魔女の呪いによって国中が欺かれている今、こんな言葉を言っても信じられないかもしれませんが……」
「……ま……じょ……? それに……呪い、って……?」
あまりに現実離れした不穏な単語の連続に、フィーネは涙を忘れて眉を寄せた。
「今回の歪んだ事態の全ては……『原初の魔女』による呪いなのです」
「原初の魔女って……建国記に出てくる、伝説の……?」
まさか、と言わんばかりにフィーネが首を振る。しかし、ウィリアムの真剣な眼差しは微塵も揺らがなかった。
「信じられないのも無理はありません。しかし、これは厳然たる事実なのです。殿下をはじめ、この国に生きる全ての者達は魔女の術中に落ち、記憶を改竄されてしまったのです」
「改竄……?」
「ええ。殿下の中にあるフィーネ様との大切なご記憶は、その対象が全てサラ・スレイヤー嬢のものへと都合よく書き換えられているようです」
「っ……!」
フィーネは頭を強く殴られたような衝撃を覚え、目の前が真っ暗になるのを感じた。
自分とアヴィが積み重ねてきた大切な思い出の数々が、そっくりそのまま別の人間にすり替えられている――それほど残酷な事実など、信じたくなかった。
「殿下が今、スレイヤー嬢に向けている優しい言葉も、その眼差しも、全ては……本当はフィーネ様へと注がれるべきものです」
「……そんな……」
「殿下が今、フィーネ様に不自然なほど冷たく接しているのも、殿下の深層心理が、本来の『フィーネ様への想い』を貫こうとして、他の女性を自分の領域から排除しようとされているからなのです」
――はっと息を呑む。確かにそうだった。
かつてアヴィの傍に他の令嬢たちが近付こうとした時も、アヴィはいつも一線を引いて彼女たちを遠ざけていた。自分以外の女性を決して内側に入れようとはしなかった。
今の彼の冷徹な態度の裏には、皮肉にもフィーネへの揺るぎない貞節のロジックが働いているのだ。
「アヴィ様……」
「殿下はフィーネ様だけを想っていらっしゃいました。それだけは、どうか信じていただきたいのです」
真摯に訴えかける侍従の言葉に、氷結していたフィーネの心が音を立てて揺れ動いていく。
「殿下がいつか呪いに打ち勝ってお戻りになった時、もしフィーネ様が他の誰かのものになってしまっていたら……あの方の受ける絶望は計り知れません」
「……」
「酷なことを申し上げている自覚はあります。あの日以降、どれだけあの方が今の貴女のお心を傷付けてきたかも……知っています。いつあの方が正気を取り戻すかも分からないこの状況で、その日を信じて待ち続けて欲しいなど、私の身勝手な我が儘でしかないのかもしれません」
ウィリアムはそれでも、と顔を上げ、フィーネの瞳を真っ直ぐに見つめた。
「それでもどうか、お願いです。殿下のことを諦めないでください」
「ウィリアム、様……」
「殿下には、貴女が必要なのです」
ウィリアムの話を聞き終えたフィーネは、しばらく胸を突き刺す悲痛な表情を浮かべていたが、やがて溢れる涙を手の甲できつく拭うと、毅然と顔を上げた。その紫色の瞳には、微かな光が灯っている。
「アヴィ様の記憶を取り戻す方法は……何かあるのでしょうか?」
「……いえ。残念ながら、それはまだ明確には見つかっておりません」
言い難そうに視線を落とすウィリアムに、フィーネは唇を噛み締める。
「ですが、必ず見つけます。このまま殿下を魔女の犠牲にするわけには参りません」
きつく拳を握り締めるウィリアムの瞳には、揺るぎない決意が宿っていた。フィーネはそんな彼の姿を見て、絶望に縮こまっていた自身の魂が熱く奮い立つのを感じた。
「……そう、ですね。アヴィ様を、私たちの手でお救いしなければ」
「では……」
「私にできることなど微力ではありますが……まずは、ローゼンベルク侯爵家との婚約話を、なんとか辞退できるよう、両親を説得してみますわ」
フィーネの中で、アヴィを信じて待ち抜くという確固たる決意が固まった。
アヴィが自分を忘れてしまったことは心が凍りついてしまうほどに悲しい。だが、それが彼の本意ではなく、呪いによる欺瞞だと言うのなら。自分がずっと見てきたあの優しい彼こそが、本物なのだと言うのなら――自分は、何をしてでも彼を取り戻したい。二人でともにある未来を、もう一度信じたい。そう強く思ったのだ。
「ありがとうございます、フィーネ様」
フィーネの力強い言葉に、ウィリアムは張り詰めていた緊張を解き、ほっとしたように深く頭を下げた。
◇◇◇
「……素直に考えるなら、あのサラ・スレイヤー男爵令嬢が『原初の魔女』の生まれ変わり、あるいはその魂の依代なのでしょうか」
人目を避けて近くの東屋へと移動した二人は、机を挟んで向き合っていた。
「そうですね……。状況証拠から見ても、その可能性が極めて高いと思います。しかし、殿下のご様子がおかしくなって以降、彼女の動向を厳重に見張ってはいるのですが……不思議なことに、闇の魔力の片鱗も感じられないのです」
「そうなのですか? では、高度な魔力隠蔽の術でも使っていると?」
「可能性はあります。当初の魔女の襲来も、突然強力な闇の魔力がどこからか現れた、と話されていましたので。ただ、殿下の側近である私の目を盗んでここまで綺麗に邪悪な気配を隠し通せるものなのか、そこが引っかかります」
困惑を隠せないウィリアムの様子に、フィーネも眉を顰める。
「確固たる証拠もなしに、彼女を拘束することはできませんね……」
「ええ。何より相手は今現在、世間的には『殿下の正当な婚約者』という立場ですし……迂闊に動けばこちらが逆賊になりかねません」
むしろ今の異常な世界においては、公爵令嬢であるフィーネよりも、男爵令嬢であるサラの方が遥かに立場が上と言ってもよかった。
「そもそも、仮に証拠が揃ったとして……『原初の魔女』の規格外の力を持つ相手に、私たちが勝てる見込みはあるのでしょうか?」
歴史書に記された『原初の魔女』といえば、一国を容易に滅ぼすほどの強大な闇の魔力を持つ存在だ。一介の侍従と無力な令嬢が容易にどうにかできる相手ではない。
「それに……一つ疑問なのですが、なぜ私とウィリアム様の二人だけ、記憶が改竄されずに残っているのでしょう?」
「それについてはクリス師団長と色々会話をしていたのですが、どうやらフィーネ様の記憶が残っているのは、貴女が極めて珍しい『光の魔力』の保有者だからのようです」
「光の魔力……?」
驚きに目を見開くフィーネに、ウィリアムは頷き、先日のクリスの話を語り聞かせる。
「……というわけです。ただ、残念ながらフィーネ様は魔法をお使いになれないかと思いますので、魔女に対抗する『光の魔法』として発現させることはできないようなのですが……」
「そう、なのですね……」
フィーネは目を瞬かせながら、思わず自分の両の手を持ち上げて見つめる。魔法が使えない無能と呼ばれ続けていた自分にそんな特殊な魔力があったなんて、到底信じられない。
だが、同時に失望する。そんな希少な光の魔力を持っているのなら、もし自分が魔法を使えれば、魔女の闇の呪いを直接打ち破ってアヴィを助けることもできたかもしれないのに。
フィーネは自身の無力さに落胆の息を漏らした。
「……どうにかして、後天的に魔法を使えるようになる訓練方法などは無いのでしょうか。ウィリアム様」
「フィーネ様?」
「どんなに厳しく、苦しい訓練であっても耐えてみせます。アヴィ様のために戦える力が欲しいのです」
「そのお気持ちは痛いほど分かりますが……魔法の行使は生まれ持った資質で決まってしまうため、努力だけでは不可能ではないかと」
「無理、なのですか……」
何でもいいからアヴィの役に立ちたかったのに、とフィーネは悲しげに視線を落とした。そんな彼女を見て、ウィリアムは何かを思いついたように顔を上げる。
「魔法として放出することはできませんが……魔力を別の形に変えて『貯める』ことなら、あるいは可能かもしれません」
「貯める……?」
フィーネは瞳を上げ、不思議そうに聞き返した。魔法の才能がなく、火を灯すことすらできないと自分を恥じていた彼女にとって、それは思いもよらない提案だった。
「はい。先ほどもお話した通り、私が記憶を改竄されずに済んだのは、この短剣の魔石に対する、フィーネ様の祈りの効果と思われます。クリス師団長の話によると、魔力というものは、多かれ少なかれ誰の身体の中にも存在し、絶えず呼吸のように体外へ放出されているものだそうです。それを、魔力を集積可能な、こういった魔石に宿らせることができれば……」
「魔石に……」
「普段なら大気中に霧散してしまっている微弱な光の魔力を、石の中に少しずつ蓄積させていくのです。そうして完成した魔石なら、持ち主にある程度の光の加護を与えることができるようになるのではないでしょうか」
ウィリアムは一呼吸置き、彼女の白い手元へ視線を落とす。
「それがあれば……アヴィ様の闇の呪いを打ち消すことはできるでしょうか?」
フィーネの声に、微かな、けれど切実な希望が宿った。同時に、アヴィの冷え切った碧眼が脳裏を過ぎり、胸の奥が締め付けられる。
「魔女の呪縛を完全に粉砕するほどの膨大な力を貯めるには、かなりの歳月を必要とするでしょう。あくまで漏れ出している微小な魔力を根気強く貯めるわけですから……」
「そう、ですか……」
ウィリアムは彼女を励ますように、一段と力強い声で付け加えた。
「ですが、物は試しです。まずはしばらく魔力を貯め続けた魔石を用意して、殿下や他の者たちに影響を与えられるか確認してみましょう」
ウィリアムのその言葉は、暗闇の中に差し込んだ一筋の希望の光だった。
◇◇◇
その夜。寮室に戻ったフィーネは、部屋の窓を開け、ぼんやりと夜空に浮かぶ冷たい月を見上げていた。
(今日は、本当に色々なことがあったわね……)
ウィリアムの口から語られた信じがたい真実。魔女の暗躍に、失われたアヴィと国民の記憶。
正直に言えば、あまりにも突拍子もない話で、最初は悪い冗談か何かの間違いではないかと疑った。だが、自分の知るウィリアムは、そのようなたちの悪い嘘を吐くような人間ではないし、何よりも――それが真実であるならば、あの日を境にしたアヴィのあまりに冷酷な変化に、すべて納得がいくのだ。
あの日以前のアヴィは、心からフィーネを慈しみ、誰よりも大切にしてくれていた。その温かさは、他でもないフィーネ自身が一番よく知っている。
「アヴィ様……」
諦めようとしていた。また幼い頃のように、周囲との間に高い壁を作り、自分の心を深い深い意識の底へと押し隠して、そうして人形のように生きていこうとさえ思っていた。誰も信じず、誰にも心を開かず、裏切られても傷つかないように。
「ごめんなさい、アヴィ様……」
せっかく貴方が私にくれた、あの温かい真っ直ぐな気持ちを……忘れようと、なかったことにしようとしてしまった自分を、どうか許してほしい。貴方の気持ちを疑ってしまった弱い自分を。
『フィー。大丈夫、私は何があってもずっと君の傍にいるよ』
『君が好きだよ。誰よりも、君だけを愛している』
落ち込んでいる時も、不安に苛まれている時も、アヴィはいつも優しい声でそう囁き、そっと抱きしめてくれた。彼の傍にいるだけで、胸を焦がす全ての不安が綺麗に溶けていくような気がしたのだ。
窓から差し込む月光を浴びながら、フィーネは自身の胸元にそっと手を当てた。
「……強く、ならなくては」
大切な人が、記憶の改竄という孤独な戦いの中で、今も必死に抗っているのだとしたら。今度は自分が、彼に光を届ける番だ。
顔を上げたフィーネの紫色の瞳には、夜空の月よりも気高く、強い決意の光が宿っていた。




