15. 無意識の激昂
時は少し遡り、昼休み。
いつもと変わらずウィリアムと食堂で手短な昼食を済ませた後、アヴィは一人、静まり返った教室で本を開いていた。ウィリアムが教官室での親子面談に向かったためだ。
時折、クラスメイトたちが遠巻きにこちらを窺い、話しかけたそうにそわそわとしている空気を感じる。だが、今の彼は誰かと気軽な雑談を交わす気分にはなれなかった。文字を追うふりをして、ただ静かにページをめくる。
やがて予鈴の硬質な鐘の音が響き渡ると、アヴィは小さく息を吐き、次の授業である剣術の訓練場へ向かうための準備を始めた。
(……ウィリアムは、まだ戻らないか)
ぽつんと空いたままの彼の席を一瞥する。教官との話が長引いているのだろうか。主である自分が、ウィリアムが戻るのを待って授業に遅れるわけにもいかない。アヴィは荷物を用意すると、一足先に教室を後にした。
磨き抜かれた廊下に、上質な革靴の規律正しい足音を響かせながら、学舎3階をつなぐ渡り廊下へと差し掛かった時のこと。
アヴィの視界に、大きな窓の向こう――中庭の、木々が木漏れ日を落とす一角に、何やら話し込んでいる男女の姿が飛び込んできた。
「ん……? あれは、ウィリアム?」
見紛うはずのない実直な立ち姿に、アヴィは自然と足を止めていた。浮いた噂など微塵も耳にしない堅物な友にしては珍しい。そんな軽い好奇心から、彼と向かい合っている女生徒へと視線を移した。
ウィリアムの方を向いているため、こちらからは後ろ姿しか見えない。だが、木々の隙間から覗くその髪が、妙にアヴィの目を引いた。
(……金髪? いや、あれは――)
ドクリ、と心臓が嫌な音を立てる。
刹那、雲の切れ間からこぼれた陽光が、彼女の長い髪を残酷なまでに美しく煌めかせた。
(……プラチナ、ブロンド……)
その、夜空に輝く満月を溶かし込んだかのような特異な髪色を持つ者は、この学園に一人しか存在しない。
「フィーネ・グランドール……」
無意識のうちに、その名を唇の隙間から零していた。
ひと月ほど前、厚かましくも王子たる自分を親しげに呼び、馴れ馴れしく話しかけてきた不遜な娘。サラの身分を嘲る低俗な噂話や悪意を窘めもせずに放置していた高位貴族の自覚の足りない娘。
――頭の底にある記憶はそう告げている。それなのに、彼女の絶望したような表情が、なぜかずっと頭から離れなかった。
(どうして、あの二人があんな場所に?)
親しげに距離を詰めて話す二人の姿に、アヴィの胸の奥で、何かがギチギチと音を立てて軋み始めた。
(なんだ……? なぜ、こんなにも胸が痛む……?)
突然、肺の空気をすべて搾り取られたかのような息苦しさに襲われ、アヴィは思わず制服の胸元を強く掴んだ。喉の奥が熱い。今すぐあの場所に駆け下り、二人の間に割り込んで、彼女の手を引いてウィリアムから引き離したい――そんな、狂おしいほどの衝動が身体の奥底から突き上げてくる。
王族として、そのような分を弁えない真似ができるはずもないというのに。
冷静になれ、と自分に言い聞かせる。
ウィリアムだって自分と同い年の健全な男だ。恋人の一人や二人できたとしても何ら不思議はない。彼は由緒正しき伯爵家の出身であり、何より次期国王たる自分の側近となる男だ。公爵家の令嬢が相手であっても、身分的な障害は無に等しい。
幼い頃から自分に尽くしてくれた無二の親友であり、兄弟も同然の彼に良き伴侶ができるのなら、むしろ祝福すべきことではないか。
頭ではそう理解している。それなのに、心が、血を流すようにざわざわと波立って止まらない。
幼い頃から傍に居た友人が女に取られてしまう事への苛立ちか?
それとも、この前まで自分に擦り寄ろうとしていた令嬢が、友人に近付いている事への警戒心?
――いや、違う。この猛烈な不快感は、どちらかと言えば、あの娘に近付く自分の侍従に対しての――
「どうしたというんだ、私は……っ」
頭を振るい、前髪をくしゃりと手で掴んだ。
自分には、心から愛する最愛の婚約者、サラがいる。彼女という存在がありながら、他の女性に対してこれほどの狂おしい独占欲を抱くなど、あってはならない。それも、まともに言葉を交わしたことさえほとんどないような、あの娘に対して。
そう思うのに、どうしても中庭の二人から視線を逸らすことができなかった。
しばらく言葉を交わしていた二人だったが、唐突にフィーネの肩が細かく震え始めた。彼女は何かを隠し、あるいは耐えるように、アヴィがいる校舎の方へと身体を向けて俯く。
(……泣いて、いるのか……?)
ざわり、と全身の血が逆流するような感覚がした。フィーネの瞳から零れ落ちたのであろう透明な一滴が、陽光を反射してきらりと輝き、地面へと吸い込まれていく。ウィリアムも彼女の異変に気づいたようだ。慌てた様子で一歩踏み出すと、酷く躊躇いがちに、けれど優しく、自身の指先で彼女の頬の涙をそっと拭った。
まるで、深く愛し合う恋人同士が、互いの痛みを分かち合うかのような、絵画的なやり取り。それを目撃した瞬間、アヴィの脳内で何かが弾けた。全身に凄まじい熱が駆け巡る。
「っ……!」
気づけば、窓枠を蹴って飛び降りようとしていた。そんな衝動を剥き出しにした自分自身に、アヴィは底冷えするような恐怖を覚える。
明らかな、激昂だった。フィーネに触れたウィリアムの指先を、今すぐ叩き斬りたいとさえ思った。彼女の涙を拭うのは、自分の……自分だけの役目なのだと、心が叫んでいる。
無意識に強く握りしめすぎていた拳を開くと、爪が手のひらに食い込み、僅かに赤い血が滲んでいた。
(何なんだ、この言いようのない違和感は……。何かが、致命的におかしい。間違っている……!)
世界そのものが歪んでいるかのような、強烈な吐き気。何がおかしいのかは分からない。だが、正しくないことだけは分かる。
(フィーネ・グランドール……あの娘は、一体、私の何なんだ……?)
吸い寄せられるように見つめていたが、これ以上は正気を保てないと本能が察した。アヴィは半ば無理やり視線を毟り取るように外すと、逃げるようにその場を離れた。授業の時間が迫っていることもあったが、何より、サラ以外の女性にこれほど心を乱されている己の醜態が、サラへの裏切りのように思えて耐え難かったからだ。
◇◇◇
訓練場で素早く着替えを済ませたアヴィは、木剣を握る。しかし、心は完全にここにあらずだった。打ち込む型はどこか空転し、酷く散漫な自主練習を続けていると、少し遅れてウィリアムが姿を現した。
「アヴィ様、勝手にお側を離れてしまい、申し訳ありませんでした」
いつも通り、非の打ち所のない綺麗な所作で頭を下げるウィリアム。アヴィは胸の内でドロドロと渦巻く暗い憤りを、王族としての仮面の裏に押し込め、声を絞り出した。
「……いや。構わない」
努めて冷静に、いつもの穏やかな声音を意識しながら、顔を上げるよう促す。
「……それより、グランドール嬢に会っていたのか?」
「え……? なぜ、それを……」
図星を突かれ、ウィリアムが驚きに目を見開く。その反応に、胸の奥が苦く焼け付くような不快感を覚えながらも、アヴィはいつもの、誰もを安心させる完璧な微笑みを湛えてみせた。
「偶然、渡り廊下から二人の姿が見えてね。彼女は、この学園内でも特に目立つ髪色をしているから」
「ああ……そういうことでしたか。はい、フィーネ様に、少し確認したいことがありましたので」
ウィリアムが表情を引き締め、事もなげに言った。だが、その口から滑り出た『フィーネ様』というあまりに自然で親しげな響きが、アヴィの心臓に新たな棘を刺す。
アヴィは怪訝そうに眉を寄せ、あえて探るような声を向けた。
「……確認したいこと? てっきり、逢引でもしているのかと思ったが」
「………………は?」
アヴィの発した不躾な単語の意味を、ウィリアムの頭脳は瞬時に処理できなかったらしい。数秒の凍りついた沈黙の後、彼はぎょっとしたように目を丸くした。
「いや、私はてっきり……。前にも、グランドール嬢と知り合いであるかのような口振りをしていたからね。てっきり特別な関係なのかと」
アヴィが困惑を装って首を傾げると、ウィリアムはこれまでに見たことがないほど慌てた様子で両手を振った。
「だ、断じて! 私とフィーネ様はそのような関係ではございません! 第一、そのような根も葉もない噂は、フィーネ様に対してあまりにも失礼です!」
「そ、そうなのか……。すまない、邪推が過ぎた」
掴みかからんばかりの剣幕で否定するウィリアムに、アヴィは気圧されたように僅かに後ずさりながら頷いた。
だが。その瞬間、胸の奥を支配したのは、呪縛が解けたかのような、あまりにも巨大な安堵だった。
(そうか……。恋人、というわけではなかったのか)
自分には全く関係のない他人の色恋。そのはずなのに、その事実を突きつけられただけで、なぜこれほどまでに視界が開けたような心地がしているのか、アヴィには到底理解ができなかった。
◇◇◇
放課後、自室に戻ったアヴィは、手にした鞄を机に放り出すと、制服のままベッドへと仰向けに倒れ込んだ。
天井を見つめ、片手で顔を覆う。
「……一体、どうしてしまったんだ、私は……」
一日中、あの白金の髪が、彼女の流した涙が、頭の奥にこびりついて離れなかった。授業中も、教官の言葉は右から左へと抜け、何度も中庭でのウィリアムとの光景がフラッシュバックした。その度に、持ち主のいない激しい苛立ちと焦燥が心をズタズタに引き裂くのだ。
グランドール嬢との接点など、記憶のどこを漁っても存在しない。あの図書館で、ひどく無礼に馴れ馴れしく声をかけられたことと、陰口を叩く令嬢たちとともにあの廊下で遭遇したこと以外には。
だが気になって調べてみれば、彼女は魔法の素養こそないものの、学力は常に学年五位以内をキープしているという。あの突飛な行動などを除けば、素行や立ち居振る舞いに問題があるわけでもなく、むしろ周囲からはかなりの優等生として評されている。
そんな生徒であれば、王太子である自分とも、もっと早い段階で多くの接点があって然るべきはずだ。にもかかわらず、彼女に関する記憶の引き出しは、不自然なほどに空っぽだった。まるで、そこにあったはずの何かが、綺麗に消し去られているかのように。
「フィーネ・グランドール……」
誰もいない部屋で、ぽつりとその名を零す。やはり、その響きには、脳を掻きむしりたくなるような違和感しか伴わない。
こんな風に、婚約者以外の令嬢のことで頭を一杯にしていること自体、サラに対する許されざる不誠実だ。
自分はサラを愛している。心の底から、命に代えても彼女を幸せにすると誓ったはずだ。それなのに、なぜ見ず知らずの娘に対して、これほどまでに感情を、心を、激しく揺さぶられてしまうのだろう。こんな異常なこと、これまでの人生で一度だってなかった。
「サラ……すまない……」
瞼を閉じ、愛しいはずの婚約者の顔を思い浮かべる。
早く、このおかしなノイズを消し去ってしまわなければならない。自分はもうすぐ、サラと生涯の愛を誓い合い、結婚するのだから。
――けれど。
ずっと待ちわび、焦がれていたはずのその幸福な瞬間が、「どうか今はまだ来ないでほしい」と、心の最奥が悲鳴を上げ始めていることに――アヴィは、頑なに気づかない振りをし続けるのだった。
ここまでお読みいただきありがとうございました!
これにて第1部完(絶望からの再起まで)となります。
来週以降は第2部を1日1話ペースくらい(を目指して)で、ちょこちょこ更新していければと思います。




