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忘れられた公爵令嬢  作者: 結城 洋乃
第二部

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16/27

16. 波乱の模擬夜会

 ウィリアムと中庭で言葉を交わした翌日。学園の休日を利用して、フィーネは実家であるグランドール公爵邸に戻る馬車に揺られていた。


 流れていく景色をぼんやりと眺めながら、昨日のことを思い出す。


(……ウィリアム様も、ずっとお一人で耐えてこられたのよね)


 中庭で、自分の頬の涙を掬い取ってくれた彼の指先の震え、そして縋るような声と眼差しを思い出す。

 

『どうか……諦めないでください』

『殿下には、貴女が必要なのです』


 記憶を失ったアヴィの傍らに立ち、偽りの記憶によって紡がれる言葉を誰よりも近くで聞きながら、彼はどんな思いでいたのだろう。

 誰にも真実を打ち明けられず、変わってしまった世界に心を削られながら戦っていたのは、自分だけではなかった。


(……もう、逃げてはいけない)


 あの日まで、アヴィが与え続けてくれていた温かい想いからも、そして、ウィリアムが必死に引き戻してくれた、この道からも。


 まずは父と話をしなければ。普段はフィーネに甘い父といえども、婚約辞退を簡単に認めてくれるかどうかは分からない。それでもなんとか、婚約が成立するのを引き延ばすことこそが、魔女の呪いに抵抗する最初の一歩になると信じて。


◇◇◇


 実家に戻り、豪奢な食堂、重厚な長机を挟んだ昼食の席で、彼女は正面に座る父――グランドール公爵へ向けて、静かに、けれど明確な意志を込めて切り出した。内容は勿論、シリウスとの婚約の件だ。だが、やはりと言うべきか、公爵の反応は冷ややかだった。


「……シリウス殿との婚約を、辞退したい、だと?」


 給仕の手が止まるほどの低い声だった。公爵は不快そうに眉を寄せる。


「……はい」

「彼に何か不満でもあるのか? 我がグランドール家と釣り合う家格であり、本人も若輩ながら城内で頭角を現している男だぞ」


 何が気に入らないのか、と言わんばかりの厳格な視線がフィーネを射抜く。申し分のない相手を用意したという自負が公爵にはあった。しかし、フィーネは毅然とその視線を受け止める。


「いいえ。シリウス様の人格にも家柄にも、何ら不満はございません。ただ……私の心がまだ、どなたとの婚約も受け入れられるだけの準備ができていないのです」

「まあ、急な話であったのは確かだ。だが、そんなものは――」


 婚約をしてしまえば後からできてくる、そう続けようとした父の言葉を、フィーネは小さく首を振って遮った。


「先日お会いして、シリウス様の誠実で真っ直ぐなお人柄はよく分かりましたわ。だからこそ、私もあの方に対して、中途半端な気持ちで不実な対応をしたくないのです」


 ここできっぱりと辞退すれば、父はまた別の「新たな婚約者」を探してくるかもしれない。けれど、自分を好ましく思ってくれたシリウスを利用するような真似だけはしたくなかった。

 だが、公爵の返答は冷然としたものだった。


「……そうか。ならば、しばらくはこの話は保留としておこう」

「お父様! ですが……!」

「勘違いするな、フィーネ」


 慌てて顔を上げた娘を、公爵は有無を言わせぬ威圧感でねじ伏せる。


「婚約とは家と家との繋がりでもある。一時の感情で、性急に結論を出すものではない。保留だ。お前が頭を冷やす時間をやろう」

「…………はい。お父様」


 今はこれ以上何を言っても父の意志を曲げることは不可能だと悟り、フィーネは奥歯を噛み締めながら、深く頭を下げた。


◇◇◇


「ねえフィーネ、来週の夜会はどうするの?」


 ある日の放課後、学園の回廊を歩きながら、親友のシンシアが心配そうにフィーネの顔を覗き込んできた。


「……夜会?」

「え、嘘でしょう、忘れていたの?」


 呆れ果てたようなシンシアの表情を見て、フィーネは急いで記憶を巡らせた。そういえば確かに、来週は学園が主催する定例の模擬夜会が控えている。


「ペアの、お相手が必要……よね」


 ぽつりと呟き、押し寄せる寂しさに胸が痛む。

 アヴィの記憶が正常であったなら、今頃は彼から「当日は私がエスコートするよ」と、甘やかな微笑みと共に約束を交わしていたはずだった。しかし、今の彼がその手を差し伸べる相手は、自分ではない。


 フィーネは小さくため息を吐いた。この模擬夜会は社交の授業の一環でもあるため、正当な理由なき欠席は許されない。婚約者が他校の者や年上の貴族である生徒も多く、そうした者たちは割り切って学園内の別の異性と即席のペアを組むのが通例だった。

 つまり、フィーネもまた、アヴィ以外の誰かと手を携えて踊らねばならないということだ。


(……ウィリアム様は……さすがに無理よね)


 現在、アヴィ以外でまともに話せる男性といえばウィリアムくらいしかいない。だが、彼は伯爵家の出であり、何より第一王子の侍従という極めて目立つ立場だ。アヴィとの婚約という「繋がり」を失ったはずの公爵令嬢が、彼の側近とペアを組んで夜会に現れれば、周囲が邪推の嵐に包まれるのは火を見るより明らかだった。ウィリアムの立場を危うくするわけにはいかない。


(……無難なお相手を探すべきだわ)


 内心で首を振り、暗澹たる気持ちで足元を見つめた、その時だった。


「――グランドール嬢」


 低く、どこか緊張を含んだ声に呼び止められ、フィーネは振り返った。

 そこに立っていたのは、同じクラスに在籍するサイモン公爵家の次男、ルベールだった。ワインレッドの短髪に切れ長の瞳を持つ彼は剣術の腕が確かで、卒業後は王宮騎士団入りが確実視されていると噂の男子生徒だ。

 そして、同じ公爵家出身で同い年という関係もあり、幼い頃はそれなりに家同士で付き合いがあったが、近年は疎遠になっていた相手だった。


「まあ、サイモン様」

「唐突に声をかけてすまない。その、来週の模擬夜会のことなのだが……もしまだパートナーが決まっていないのであれば、俺のパートナーになってはくれないだろうか」


 一気に捲し立てるルベールの頬は、心なしか赤らんでいる。予期せぬ申し出に、フィーネは困惑の表情を浮かべた。


「私と……ですか?」

「あ、ああ。もちろん、迷惑でなければ、だが」


 柄にもなくそわそわとするルベールの様子を見て、すかさず傍らのシンシアがフィーネの耳元に顔を寄せ、小声で囁いた。


「ちょうどいいじゃない、フィーネ。もう来週なのよ、早く決めてしまいなさい。それにサイモン公爵家なら家格的にも申し分ないわ。悪くないお誘いよ」


 確かにシンシアの言う通りだった。ここで断れば、当日までに他の相手を見つけるのは困難だろう。

 とはいえ、やはりアヴィ以外の男性の隣に立つという事実に、本能的な抵抗感が胸を締め付ける。夜会の歓談中に相手を替えて踊る程度なら社交として割り切れるが、ファーストダンスを踊り、一日中行動を共にする「パートナー」となると話は別だ。

 ――けれど、逃げるわけにはいかない。この夜会に出席しなければ、アヴィの姿を見ることも叶わないのだから。「もう逃げない」と誓った先日の決意を、ここで挫くわけにはいかなかった。


 フィーネは静かに深呼吸をし、意を決してルベールを見つめた。


「……分かりましたわ。お誘い、謹んでお受けいたします」

「本当か!? ありがとう、グランドール嬢」


 ほっとしたように歓喜の笑みを浮かべるルベールを見て、フィーネの胸にズキンと罪悪感の痛みが走った。

 詳細はまた後日、と約束をして去っていく彼の背中に、フィーネは、利用するような真似をしてごめんなさい、と、心の中で小さく謝罪した。


◇◇◇


 模擬夜会当日。

 フィーネは淡いグリーンのドレスを身に纏い、女子寮の姿見の前に立っていた。丁寧に結い上げられた白金の髪が、首筋をすっきりと露出させ、いつもより少し大人びた艶やかさを醸し出している。


『フィーは淡い色がよく似合うね。新緑のようなグリーンや、初夏の空のような青とか……君の綺麗な髪を引き立ててくれる』


 かつてアヴィはそう言って、嬉しそうに何度もドレスを贈ってくれた。受け取るばかりで、まだ彼の前で袖を通していない衣装がいくつもある。このドレスも、そんな彼からの贈り物の内の一着だった。

 一番に見せたかった最愛の人は、もう隣にはいないというのに。それでも、彼の想いの籠もったドレスを身に纏うことで、心細い気持ちが少しだけ和らぐ気がした。


「お嬢様、息を呑むほどお美しいですわ」


 着付けを終えた侍女のジーラが、満足そうに額の汗を拭いながら微笑んだ。フィーネは鏡の中の自分を見つめ、複雑な思いを抱えたまま曖昧な笑みを返した。


「グランドール様、サイモン様がお迎えに参られました」


 寮母の声が入室のノックと共に響き、ジーラが扉へと向かう。フィーネは小さく息を吐き出し、ゆっくりと腰を上げた。

 ジーラに伴われて寮の門を出ると、そこにはサイモン公爵家の紋章が刻まれた豪奢な馬車と、正装に身を包んだルベールが待っていた。ルベールは門から現れたフィーネの姿を捉えた瞬間、言葉を失ったように大きく目を見開いた。


「……美しい……」

「サイモン様?」


 フィーネが首を傾げると、彼はハッと我に返って表情を引き締め、右拳を胸に当てて深く腰を折った。


「失礼。あまりの神々しさに、森の妖精が迷い込んできたのかと目を疑ってしまった……。そのドレスも、貴女の美しさを完璧に引き立てている。本日、私のような者に貴女をエスコートする栄誉をいただき、心から感謝します。どうぞよろしく、フィーネ嬢」


 流暢かつ大袈裟な賛辞を並べる彼に、フィーネは少し気恥ずかしさを覚えながらも、淑女としての完璧なカーテシーを返した。


「こちらこそ、本日はよろしくお願いいたしますわ、サイモン様」


◇◇◇


 模擬夜会の会場は学園の端にある大ホール。寮からは多少距離があるため、男子生徒側が家の馬車で女子生徒側を迎えに行き、エスコートするのが慣例だった。

 さほど時を置かずして馬車は目的地に到着し、二人はその場に降り立った。


「それでは、参りましょうか」

「……ええ」


 華やかな音楽が漏れ聞こえる会場の扉を前に、ルベールが差し出した右腕に、フィーネはそっと自分の手を添えた。その瞬間、かつて触れていたアヴィのそれとは異なる、騎士を目指す者特有の硬く筋肉質な質感に、一瞬だけ身体がビクリと拒絶の震えを起こした。


「フィーネ嬢? どうかされましたか?」

「……いいえ、なんでもありませんわ。少し、緊張してしまっただけです」


 取り繕うように微笑みを浮かべると、今度はしっかりと彼の腕に手を絡ませた。


 扉が開かれ、一歩足を踏み入れた会場は、学園の催しとは思えないほど豪華絢爛な光に満ちていた。天井には無数の結晶が煌めくシャンデリア。足元には真紅のビロード絨毯が敷き詰められ、壁際に配された長机には山海の珍味が所狭しと並んでいる。

 昨年も、その前の年も、この場所にアヴィと一緒にいた。彼の隣にいれば、どんなに大勢の視線に晒されようとも、世界で一番安全な場所にいるような安心感があった。それなのに、今はこれほどまでに心細い。


「そういえば、フィーネ嬢は昨年はどなたと参加されたのですか? 確か、決まったパートナーはいなかったと記憶しているが……」


 ルベールが何気なく尋ねてきた。「アヴィと踊っていました」とは言えるはずもなく、フィーネが言葉に詰まっていると、彼は彼女の曇った表情を見て慌てて口を噤んだ。


「すまない、無粋な質問をしてしまった。忘れてくれ」

「いいえ……お気になさらないで」


 フィーネが内心でホッと息を吐いた、その時だった。突如として、会場の入り口付近が波打つように騒がしくなった。


「キャー! 殿下がいらしたわ!」

「正装が本当にお似合いで……絵画のようね」

「サラ様も、まるで可憐な小鳥のようですわ」


 黄色い歓声と羨望の溜息が入り混じる視線の先――そこには、純白を基調とした王族の正装に身を包んだアヴィの姿があった。いつもは優しく額に流れている金髪が、今日は厳かに撫で上げられ、第一王子としての凛々しさと威厳が何倍にも跳ね上がっている。

 そして、その腕に我が物顔で身を寄せているのは、鮮やかな黄色のドレスを纏った男爵令嬢のサラだった。


 アヴィは慈しむような優しい眼差しをサラへ向け、周囲の視線を気にも留めずにフロアへと進んでいく。

 二人の仲睦まじい姿が視界に入った瞬間、フィーネの心臓がガラスのように砕け散る感覚がした。足の力が抜け、その場に崩れ落ちそうになる。けれど、彼女は必死に自身の手の甲を抓り、理性を繋ぎ止めた。


(落ち着いて、フィーネ……あれはアヴィ様の本心じゃない。魔女の呪いに操られているだけなの……!)


 自分に何度もそう言い聞かせ、折れそうな心を奮い立たせる。


「どうかなさいましたか? 顔色が悪いようですが……」

「……いいえ、大丈夫ですわ。サイモン様」


 無理に作った笑みを浮かべ、ルベールと共にフロアの中央へと歩みを進める。その途中、ふと強い視線を感じて顔を巡らせると、アヴィの後ろに付き従っていたウィリアムと視線がぶつかった。

 ウィリアムは眉間に深い皺を寄せ、ひどく複雑で、心配そうな眼差しでフィーネを見つめていた。


(……怒っていらっしゃるのかしら)


 無理もない。こうして他の男性のパートナーとして現れるなど、彼の目にはアヴィへの不実に見えるかもしれない。

 けれど、こうでもしなければこの場に来ることすらできなかったのだ。ウィリアムなら、きっと分かってくれる――そう信じるしかなかった。



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