17. 抑えきれない苛立ち
模擬夜会の開始の少し前。
フィーネたちが出発した後の女子寮の前に、王家の紋章が刻まれた白銀の馬車が静かに停まる。
御者が恭しく扉を開けると、正装を纏ったアヴィが、洗練された動作で地面に降り立った。彼は、遠巻きに眺めていた女生徒たちから漏れる感嘆に気づかぬ様子で、軽く襟元を整える。
そうして、穏やかな碧眼を寮の入り口へと向け、婚約者が現れるのを静かに待った。
やがて、春の陽光を思わせる黄色のドレスを揺らしながら、サラが小走りでやってきた。
「アヴィ様! お迎えありがとうございます」
「やあ、サラ。今日も一段と愛らしいね。その鮮やかな黄色も、君の春のような可憐さを完璧に引き立てているよ」
それは、彼の脳内の記憶が『最愛の婚約者へ贈るべき言葉』として提示した、最適解だった。
サラは頬を染めてその腕に縋りつく。
「ありがとうございます、アヴィ様! アヴィ様の正装姿も、本当に素敵すぎて、私、隣にいるのが夢のようですわ」
「そうかい? 君にそう言ってもらえると、着替えた甲斐があったというものだよ」
彼女のうっとりした表情と称賛に、微笑みながら答える。そのままアヴィは彼女の手を取り、優しく馬車へと導いた。
馬車が揺れ始めると、サラがアヴィの肩にちょこんと頭を預けてきた。
「楽しみですね、アヴィ様。私、アヴィ様と踊れるのが楽しみすぎて、昨日はあまり眠れなかったんです」
「はは、寝不足でダンスの途中で倒れないようにね」
軽口を叩きながら、アヴィは彼女の桃色の髪を優しく撫でた。窓の外に流れる学園の景色を見つめながら、アヴィはふと思う。
(……私はサラを愛している。だから、この時間は、私にとって最も価値のあるもの、のはずだ)
先日から頭の端に残り続ける違和感は未だ消えない。だからこそ、自分に言い聞かせるようなその思考は、今の彼にとって、ある意味で習慣になっていた。彼女をエスコートするのは義務ではなく、自分の権利なのだ、と。
◇◇◇
会場に足を踏み入れると、周囲の生徒たちが一斉に騒ぎ出すのが分かった。自分の愛する婚約者が、他の男たちの品定めするような視線に晒されるのは本意ではないが、学園の模擬イベントとはいえ、夜会である以上は仕方のないことだ。
そんなことを考えながら、アヴィは何気なくフロアへと視線を巡らせた。普段、教室で気安い会話をしている友人たちを幾人か視界に捉える。彼らも今日ばかりは紳士然とした様子でパートナーをエスコートしているようで、どこか微笑ましい。
他の知り合いは、と、さらに視線を移動させたその時。ふと、アヴィの視界の端を淡いグリーンの色彩が掠めた。なぜか不思議な懐かしさを感じて、抗いがたい引力に吸い寄せられるようにその先に視線を向けた瞬間――心臓がドクンと暴虐なまでの音を立てて跳ね上がった。
視線の先に、一組の男女がいた。男の方はサイモン公爵家の次男、ルベールだ。ワインレッドの目立つ髪色をした体格のいい男が、一人の女性の腰に手を添え、親しげにエスコートしている。
そして、その男の腕に細い手を絡めているのは――
「フィーネ・グランドール……」
掠れた声が、無意識に喉から漏れた。
まただ。あの白金の髪の娘を見た瞬間、身体中の血液が沸騰するような、異常な感覚が全身を駆け巡る。
理性的な自分の脳は、彼女から視線を外せと警告しているのに、そう思えば思うほど、視線が彼女に囚われていく。
今日の彼女は、いつもの雰囲気とはまるで違っていた。美しく結い上げられたプラチナブロンドの隙間から、陶器のように白い項が覗いており、少女特有の可憐さの中に、息を呑むような大人の色香を漂わせている。淡いグリーンのドレスは彼女の清楚で柔らかい雰囲気によく馴染み、まるで月光に照らされた森の妖精そのものだった。
そんな彼女に対し、まるで「自分の所有物」であるかのように距離を詰め、親しげに囁きかけるルベール。その光景を目にした瞬間、アヴィの胸の奥底から、言いようのない暗い感情が込み上げてくる。
(……彼女は、ルベールとも親しかったのだろうか?)
ルベールの肘に添えられている、彼女の白く華奢な指先を、思わず責めるように見つめていた。
「アヴィ様……?」
隣から不安そうな声が聞こえ、アヴィはハッと我に返った。見下ろせば、サラが眉を下げて心配そうに自分を覗き込んでいる。
「大丈夫ですか? 急に怖いお顔をされて……」
「あ、ああ……すまない。少し考え事をしていてね。心配をかけた」
サラの手を優しく握り直すが、アヴィの視線は、どうしてもフロアの端にいるあの白金の髪の娘から離れることができなかった。
◇◇◇
やがて、夜会の始まりを告げるファーストダンスの旋律が流れ始める。
アヴィはサラの手を取り、ステップを踏み出した。周囲の者たちも一斉に踊り始める。
本来であれば、パートナーであるサラの瞳だけを見つめ、甘い時間を過ごすはずだった。それなのに、アヴィの意識は、どうしても数歩先で踊っているフィーネとルベールのペアへと吸い寄せられてしまう。
ダンスの性質上、男女の距離が近くなるのは必然だ。ルベールの手がフィーネの細い腰へと回され、彼女の身体を引き寄せる。その一つ一つの動作に、アヴィの胸の中で猛烈な苛立ちが膨れ上がっていった。
(――近すぎるんじゃないのか?)
ルベールがフィーネをその腕の中に囲い込むたび、今すぐその無作法な腕を叩き落としてやりたいという衝動が脳裏を掠める。彼女の手を握るルベールの指先も、彼女へ向けられる熱っぽい視線も、そのすべてが胃の腑を焼くほどに不愉快だった。
アヴィにとって、生きた心地のしない苦行のようなファーストダンスがようやく終わった。曲が切り替わり、生徒たちはパートナーを交換して、思い思いの相手と次のダンスを踊り始める。
アヴィもまた、サラを一度壁際へエスコートし、他の男子生徒にダンスを申し込まれる彼女を見送っていた。そんなアヴィの前に、音もなく一つの影が立った。
「……殿下。私と、一曲踊っていただけますか?」
目を向ければ、そこにいたのはフィーネだった。その真剣で、どこか悲痛なまでに澄んだ瞳に射すくめられ、アヴィは一瞬言葉を失う。
「あ、あぁ……それは……構わないが」
気圧されるようにして、アヴィは頷いていた。ここは社交の場であり、授業の一環だ。色々な相手と踊るのは当然の義務であり、だからこそアヴィも今日ばかりは他の令嬢からの申し込みを無下に断ることはない。サラが他の男と踊るのを見るのは癪だが、それはそれだ。
――しかし、己の胸に手を当てれば分かってしまう。
彼女からの申し出を、心の奥底で喜んでいる自分自身の矛盾した感情。頭のロジックでは彼女を遠ざけるべきだと叫んでいるのに、心の最奥が、どうしようもなく歓喜に震えてしまっている。
(……こんな感情は、間違っている)
湧き上がる衝動を必死に否定しようとするが、高鳴る鼓動を抑えきれない。自分自身の制御不能な心に、アヴィは激しい戸惑いと自己嫌悪を覚えた。
だが、アヴィの歯切れの悪い生返事を聞いたフィーネは、一瞬だけ呆けたように目を丸くした後、泣き出しそうなのを堪えたような、微かで、けれど温かい微笑みを浮かべた。
「っ……!」
その無防備な笑顔の破壊力に、アヴィは思わず息を呑んだ。動揺のあまり震えそうになる声を必死に押し隠し、アヴィは少し身を屈めると、吸い寄せられるように右手をスッと差し出した。
「……では、お手をどうぞ」
「はい」
零れるような声と共に、小さく、恐ろしいほどに柔らかな彼女の手が、アヴィの手のひらに重ねられた。
――その、触れ合った、まさに刹那のことだった。
「――っ!?」
脳の天辺から爪先までを、激しい電撃が貫いたかのような衝撃がアヴィの全身を襲った。
視界が白く染まり、脳裏を凄まじい速度で「見知らぬ映像」が駆け抜けていく。だがいずれも一瞬で、それが何の映像だったのか、明確には認識できなかった。ただ、その一瞬の中で感じたのは、狂おしいほどの懐かしさ。
(なんだ……今の映像は……? とても、大切なことだったような……)
あまりの衝撃に放心し、フロアの真ん中で立ち尽くすアヴィに対し、フィーネが心配そうに小首を傾げた。
「あの……殿下? どうかなさいましたか?」
「あ、ああ……いや、何でもない。行こう」
激しい混乱を覚えながらも、アヴィは改めてフィーネの手を取り、ステップを踏み始めた。
フィーネとのダンスは、アヴィにとって不思議なほどに踊りやすかった。言葉を交わさずとも、彼女が次にどの足を踏み出し、どの角度で首を傾げるのかが、まるで呼吸をするように手に取るように分かる。
それはフィーネも同じだった。アヴィのリードのすべてを完璧に予測しているかのように、寸分の狂いもなく、吸い付くような美しさで二人の動きは調和していく。
「君は――」
たまらず問いかけようとしたアヴィの言葉を、フィーネは切ない微笑みで遮った。
「……早く、思い出してくださいね」
「……?」
困惑するアヴィを残し、曲の終わりを告げる最後の旋律が響いた。二人は互いに距離を取り、優雅な一礼を交わす。
「ありがとうございました、殿下」
「ああ、こちらこそ……」
深く頭を下げるフィーネの姿に、アヴィは今までに感じたことのないような、身を引き裂かれるほどの強い名残惜しさを感じていた。その手を再び掴み、引き止めたいとすら思った。その時だ。
「――フィーネ嬢!」
背後から遮るように響いた男の声に、アヴィは反射的に不快感を露わにして眉を顰めた。現れたのは、サイモン公爵令息のルベールだった。
「サイモン様……」
「次の曲は、ぜひまた私に。……今日の貴女をできるだけ他の男に渡したくないのです」
アヴィの存在など最初から眼中にないかのように、ルベールは馴れ馴れしく彼女の名を呼び、フィーネとの距離を詰め、強引に迫る。その態度に、アヴィの中で冷たい苛立ちが急速に膨れ上がっていく。
「ええと、ですが――」
「ああ、だが、少し顔色が優れないようだ。でしたら、あちらのテラスで夜風に当たりましょう。さあ、私に捕まって」
戸惑うフィーネの意志を無視するように、ルベールが彼女の細い手首を強引に掴み、引き寄せようとした。
――その瞬間、アヴィの中で、理性を繋ぎ止めていた最後の糸が音を立てて千切れた。
「――っ!」
考えるよりも先に、身体が弾かれたように動いていた。
アヴィは無意識のうちにフィーネとルベールの間に割り込むと、彼女の手首を掴んでいたルベールの手を力任せに掴み、捻り上げるようにして力づくで引き剥がした。
「……っ!? で、殿下!?」
突如として割り込まれ、手首を極められたルベールが、驚愕と痛みに顔を歪める。アヴィは氷のように冷徹な、けれど凄まじい怒りを孕んだ瞳でルベールを見下ろし、低く威圧的な声を響かせた。
「……女性に対して、少々配慮に欠けるのではないかな、サイモン殿」
「え……?」
「彼女が困っているのが、分からないのかい?」
周囲の喧騒が、一瞬にして凍りついたように静まり返る。アヴィ自身、自分がなぜこれほどまでに激昂し、一貴族の令息に対して暴挙に出ているのか、その理由は全く分かっていなかった。
ただ、魂が、彼女を誰にも触れさせたくないと、猛り狂っていた。




