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忘れられた公爵令嬢  作者: 結城 洋乃
第二部

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18/28

18. 見つめる先

「――殿下!」


 凍りついた空気を切り裂いたのは、背後から響いたウィリアムの鋭く、けれど抑制の効いた声だった。同時に、強い力で肩を掴まれる。視界を覆っていた赤い熱が、聞き慣れた親友の声によって、僅かに引いていくのをアヴィは感じた。


「……ウィ、リアム……?」


 混乱したまま振り返れば、そこには悲痛なほどに険しい表情をしたウィリアムが立っていた。その藍色の瞳は、主の憤りの原因を、その心の奥底の想いを察していながらも、これ以上この場で事を荒立てるべきではないと、無言で主を制している。掴まれた肩から伝わる親友の体温が、暴走しそうになっていたアヴィの理性をかろうじて繋ぎ止めた。


 そこへ、壁際から血相を変えてサラが駆け寄ってくる。


「アヴィ様! 一体どうされたのですか!? そんな、サイモン様に対して乱暴な真似をなさるなんて、アヴィ様らしくありませんわ!」


 サラがアヴィの反対側の腕にしがみついた瞬間、彼の脳内にキリキリとした不快なノイズが走り、濁流のようだった怒りが急速に冷え固まっていくのを感じた。


(そうだ……私は、サラを安心させなければならない。彼女こそが、私の守るべき婚約者なのだから……)


 魂の奥底で燃え盛っていた「彼女フィーネを誰にも触れさせたくない」という剥き出しの独占欲が、無理やり石蓋を被せられるようにして鎮まっていく。


 アヴィはハッと我に返り、ルベールの手首を掴んでいた手の力を抜いた。


「……すまない、サイモン殿。少し、私の虫の居所も悪かったようだ。君が彼女の手をあまりに強く引いているように見えたものでね」


 アヴィは無理やり王族としての完璧な微笑を顔に貼り付け、ルベールから一歩退いた。


 手首を解放されたルベールはよろりと一歩下がり、解放されたばかりの自身の右手を、信じられないものを見るかのように見つめた。騎士を目指す身として、自分の強さにはそれなりに自信と誇りを持っていた。だが、今の一瞬、アヴィの気迫に完全に圧倒されている自分がいた。

 次いで、背後にいたフィーネに視線を向けると、ルベールが強く握った白く細い腕に、わずかに赤みが差していた。

 エスコートしているつもりだった。彼女に楽しんでもらいたいと思っていた。だが、今の今まで彼女が何を言おうとしていたのか、どんな表情で自分を見上げていたのか、その一切を「自分の独善的な想い」で塗り潰していた事実に気づき、ルベールの顔からさぁっと血の気が引いていく。


「……っ、申し訳ございません。私は……なんて無作法な真似を……」


 アヴィの指摘は正論だった。ややこの場には相応しくない、過剰な暴力を伴っていたとしても。

 ルベールは己の未熟さと傲慢さに対する激しい恥じ入りに突き動かされ、深く、深く頭を下げた。


「フィーネ嬢、本当に……申し訳なかった」


 消え入りそうな謝罪の言葉をそれだけ残すと、彼は屈辱に顔を歪める余裕すらなく、「頭を冷やしてくる」と、逃げるように人混みの中へと消えていった。


 後に残されたのは、アヴィとサラ、ウィリアムと、そしてフィーネの四人だった。

 アヴィの視線が、自然とフィーネへと向かう。彼女は怯えるでもなく、ただ悲痛なほどに愛おしげな瞳で、じっとアヴィを見つめていた。その瞳の奥にある光が、アヴィの胸を鋭く抉る。


「アヴィ様、行きましょう? あちらに美味しい果実水がありますの」


 サラがアヴィの視線を遮るように間に割り込み、必死に彼の腕を引く。彼女の瞳には、明らかな焦りと恐怖が浮かんでいた。まるですぐにでも壊れてしまいそうな砂の城を守るかのような、異様な必死さ。

 アヴィはその違和感に気づきながらも、頭の中の「サラを安心させなければならない」という偽りの義務感に従い、頷いた。


「あ、ああ……そうだね。行こうか、サラ」


 アヴィは半ば無理やり背を向け、サラに伴われてフロアの奥へと歩き出す。

 立ち去る間際、アヴィは一度だけ後ろを振り返った。広いフロアの真ん中で、ぽつんと一人立ち尽くし、自分たちの後ろ姿を見つめている白金の髪の令嬢。その姿が、なぜかたまらなく孤独に見えて、アヴィは今すぐサラの手を振り払い、彼女の元へ駆け戻りたいという衝動を必死に抑え込まねばならなかった。


◇◇◇


 遠ざかっていくアヴィの背中を見つめながら、フィーネはそっと自分の手首を押さえた。

 先ほどアヴィがルベールの手を引き剥がした瞬間、彼の瞳に宿っていたのは、紛れもない「本物の執着」だった。魔女の呪いによって記憶を書き換えられているはずなのに、彼の魂はまだ、フィーネを自分のものだと叫んでいる。


(アヴィ様……貴方は確かに、まだそこにいらっしゃるのですね……)


 胸の奥が熱くなり、涙が零れそうになるのをグッと堪える。ルベールには悪いことをしてしまったが、アヴィのあの激昂を目の当たりにしたことで、フィーネの心には確かな希望の灯火が宿っていた。


「フィーネ様」


 低く抑えられた声に振り向くと、いつの間にかウィリアムが傍らに立っていた。彼の端正な顔には、深い憂慮の色が浮かんでいる。


「……ウィリアム様」

「無茶をなさいますね。サイモン殿をパートナーに選ぶとは。ですが、殿下のあの行動……やはり、記憶は書き換えられていても、魂までは縛り付けられていないようですね」


 その言葉にフィーネは深く頷き、自身の手を持ち上げる。


「ええ。それに――ダンスの際、私の手が触れた瞬間にアヴィ様の顔色が変わりました。きっと、何かが彼の心に響いたのではと」

「手を?」

「はい。実は、ダンスの申し出をした時、手袋を外していたのです」


 その思いがけない告白に、ウィリアムは目を丸くした。通常、こういった場では、女性は手袋を身に着けているのが普通だ。それに今目の前にいるフィーネも手袋を身に着けている。


「今も含め、その時以外はずっと手袋をつけていたのですが、エスコートをしてくださったサイモン様の様子にも変化は一切ありませんでした。ですから、アヴィ様とダンスフロアに向かうその僅かな間だけ、手袋を外して直接触れてみたのです」


 そう、今日のダンスはある意味フィーネにとっては賭けだったのだ。自分の光の魔力とやらが、アヴィの呪いに対して通じるのかどうか。

 魔石に光の魔力を貯められたとして、どのくらいの量が必要かも分からない。ならば、いっそ直接触れたらどうかと考えたのだ。それでまったく反応がないなら、そもそも他の手を考える必要がある。


 だからこそ、サイモンとのファーストダンスの後、手袋をこっそり外して、アヴィにダンスを申し込んだ。ウィリアムは納得したように頷くものの、「ですが」と少し表情を厳しくする。


「グランドール公爵家の人間である貴女が、これ以上殿下に近づけば、次は周囲の目が黙っていません。今日はもう、これ以上殿下に接触するのはおやめください。スレイヤー男爵令嬢の警戒も最高潮に達しているようです」


 ウィリアムの言う通りだった。遠くのテーブル席を見れば、サラがアヴィの腕にぴったりと寄り添いながら、獲物を警戒する肉食獣のような鋭い視線をこちらに投げかけてきている。これ以上の刺激は、アヴィにかけられた呪いをより強固にするか、あるいはサラが次の暴挙に出るきっかけを作りかねない。


「分かりましたわ。今日は……あの方と踊れただけで――反応が見られただけで、十分な成果が得られました。後は、お開きの時間まで大人しくしております」


 フィーネは静かに微笑み、ウィリアムに一礼すると、壁際の静かな席へと移動した。


◇◇◇


 やがて、夜会の終わりを告げる最後のワルツが演奏され始め、会場の熱気も次第に落ち着きを取り戻していった。


 アヴィはサラをエスコートして馬車へ送り届け、どうにか機嫌を直した彼女の嬉しそうな笑顔を見送った後、再び自身の馬車へと乗り込んだ。隣には、いつもと変わらぬ無表情で控えるウィリアムの姿がある。


 馬車が静かに夜の王都を走り出す中、アヴィは窓の外の闇を見つめたまま、沈黙を守っていた。

 頭が酷く痛む。サラと過ごした時間は楽しかったはずなのに、なぜか心に残っているのは虚無感だけで、手のひらに残るあの淡いグリーンのドレスの質感と、白金の髪の令嬢の儚げな笑顔と切ない眼差しばかりが、鮮明に脳裏に焼き付いて離れない。


「ウィリアム」

「はい、殿下」

「私は……今日、サイモン殿に対して、ひどく無作法な真似をしてしまった」

「……そうですね。殿下らしくない、激しいお姿でした」


 ウィリアムの声は淡々としていたが、アヴィは己の胸元を強く握りしめた。


「……自分でも分からないんだ。あの時、グランドール嬢の手が強引に引かれているのを見た瞬間……頭の芯が沸騰したかのような怒りに襲われた。まるで、自分の大切な宝物を、ドロドロの手で汚されたかのような……そんな、自分でも制御しきれない、身勝手な独占欲に支配されてしまったんだ」


 アヴィの声が微かに震える。


「私はサラを愛している。それは間違いないはずだ。なのに、なぜあの数回しか話したことのない令嬢に対して、これほどの感情を抱く? 彼女が他の男と踊る姿を見るだけで、どうしてこれほど胸が引き裂かれるように苦しいんだ……?」


 問いかけるアヴィに対し、ウィリアムはただ静かに目を伏せ、何も答えなかった。主の記憶が魔女によって改変されているという真実を、今の段階で告げるわけにはいかないからだ。下手に真実を突きつければ、アヴィの脳が自己防衛のために破綻してしまう恐れがある。


「何かが、間違っている……」


 アヴィは窓ガラスに額を押し付け、苦しげに呟いた。

 夜会が終わり、夜の静寂が訪れてもなお、アヴィの心の見つめる先には、あの眩いばかりの白金の光が、冷たく、けれど確かに輝き続けていた。



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